2015 浜松国際ピアノコンクール ガラコンサート鑑賞記

 3年に一度、浜松という武骨で職人気質でヤンキー文化な特徴をもった地方都市で、そのキャラクターに似合わぬほど文化的に洗練され、かつ、最先端を切り拓くような、浜松国際ピアノコンクールが開かれる。今の今でも、何でこんな潜在力が浜松にあるのか、よくわかっていない。 
 今年は、丁度、ショパンコンクール開催年で、前々回の浜松国際コンクール優勝者、チョ・ソンジンが優勝したこともあり、また、アルゲリッチが審査委員に加わったということもあり、例年にも増してこのコンクールが注目されていたように思う。最初の予備審査はDVDで行われるとのことだが、過去最多となる449名の応募があったそうである。1次予選の時から、「今回はレベルが高い」といわれていたが、今日の入賞者全員のガラコンサートを拝聴させてもらって、確かにそれは実感した。3年前は、少し冷や冷やしながら聴いた覚えがあったが、今回は、そういうミスがちらほらでるかもしれないという、聴く方の警戒感は、まったく生じさせず、それぞれの入賞者の音楽世界を堪能させてもらうようなコンサートとなっていた。5,6位がなく、3位に3人を置いたというのも、その現われであろう。
 

 ただ、このガラコンサートの演奏順は、表にはでていなかったものの、なんらかの演奏力の順番でもあるのかなと、聴いていて思わされた。第3位アレクセイ・メリニコフまでは、非常にうまいものの、まだまだ、楽譜をなぞるような音楽の作り方がのこり、迫真の演奏というまでには至らない印象だ。ただ、これを逆に、柳のようなしなやかさといえば、それはそれで個性ともいうことはできる。ショパンなんかは、こういうテイストが似合うかもしれない。

 第3位の最終演奏者、アレクシーア・ムーサに至って、別世界がひらかれてくる。おそらく、奏者の「エラン・ヴィタール」というような、鍵盤に向かうエネルギーというものの違いのような気がする。ハイドンピアノソナタ ハ長調を演奏されたが、「ハイドンってこんなに多彩で、おもしろい音楽なんだ」と、ハイドンにお世辞なしで思わせるほど、自然で力強い音楽であった。ベネズエラ国籍ももつ彼女は、かの国の「エル・システマ」という音楽教育、これは、音楽合奏を通した社会性の優れた教育システムでもあるが、それがつくるエートスを彼女が体現しているのではと興味をもっていた。それはそれとして、とにかく、彼女の演奏は、色彩感ゆたかな、ブラジルの作曲家、ヴィラ・ロボスがピアノを弾いたらこんな風に弾くんじゃないかと思わせるような、ビビッドな風情があって非常によかった。思わず、2次〜本選の彼女のプレイを購入する。

 第2位奏者のローマン・ロパティンスキーも、まずはハイドンソナタロ短調、その次が圧巻だったが、チャイコフスキー6番交響曲『悲壮』スケルツォの編曲版(S.フェインベルク編)であった。彼は、なんと、これを1次予選で弾いていた。ヴィルトゥオーゾな特徴をこれでもかこれでもかとアクロバッティブに続けてゆく構成の曲である。正直、やりすぎの感もある編曲のよしあしは別にして、とにかく、若いコンテスタントがコンクールに備えて毎日膨大な練習をこなした上で演奏する時にしか聴けないであろう、超絶技巧の連続であったことは確かである。それも、目立ったミスタッチもほぼなかったように思う。12月8日には、上野、東京文化会館小ホールでガラコンサートがあるが、この曲だけでも、一聴の価値はあると思う。彼の演奏している姿には、アメリカと覇を競っていた旧ソビエト人の迫力みたいなものを感じさせた。彼はウクライナ人で、そんなイメージも今は昔だ。

 最後に、第1位のアレクサンデル・ガジェヴ氏である。本選のプロコフィエフの第3協奏曲では、オーケストラとの間の、ふくよかで、生き生きとした、かつ本人に余裕を感じさせるような、相互対話が展開されていたと思う。今日は、ショパン ピアノソナタ第2番で、彼が2次予選でやっていた曲だ。出だしから、ピアノ一音一音からなるメロディーがバラバラにならず、生き物のように一体となってうねるように展開していくようなピアニズムがみられた。あのピアノ表現の、いい意味でのねちっこさは、他の演奏者ではきいたことがない。もしかしたら、今回のコンクールで多用されたShigeruKawaiのピアノの性格もあるのかとも思わせたが、そうであったとしても、ごく副次的なものであろう。生きもののようなすべらかな音楽が自在に進んでゆく。柳のようなショパンとは、また別物のショパン像、こういうショパンもあるんだという新鮮さが感じられた。もう20歳にして、ポリー二級の世界をつくっているのではないだろうか。イタリアのダンディズムが、ピアノの前に座ると存分に発揮されている。

 そして2楽章だ。お祝いムードのガラコンサートの最後の演奏が、葬送行進曲となる。この違和感に、最初は少々とまどったが、これは、このコンクール開催の直前、11月13日のフランスの同時多発テロ、さらに、その後のダーイッシュへの空爆の激化と、かかわりのない人たちの、いきなりの死。そういう今という時の背後にある情動を汲んだものであると思い至った。ショパン個人の感情が、ピアノ曲を通して、普遍的な感情に至り、時間、空間を超え、現在につながってくる。国籍などは超えた、故人の記憶に接する時の感情、その葬送の気持ちというものが、音楽という形であると一寸の隙もなく、直接的に表現される。ショーペンハウアーが音楽を、絵画や詩のような表象の模倣ではなく、意志の表現そのものであると評価したポイントでもある。ガジェヴの浜松での演奏が、ヨーロッパに、あるいは中東の惨劇の中の、葬送されないような葬送の思いにつながる。特に、中間部の故人をしのぶような、非常に演奏技法としては単純なパッセージを、彼は、極めて情緒的に、ゆっくり弾きこんでいった。

 ガジェヴ君は、この曲を最後に弾き終り、深々と礼をする。もう、こいつは単なるピアノコンクールの優勝者ではなく、なんらかのメッセンジャーであり、われわれに何かを知らしめたアーティストであるとその瞬間に思われたのだ。

 
 今回のコンクールは、そのレベルの高さもあって、浜松国際コンクールの質と広がりを、より一歩すすめてくれたような気がした。これを、浜松の聴衆と人が支えているわけだから、やはり、不思議でならない。地味にキリスト教が根付いた、妙にロマンを愛して実行してしまうような土地柄(たとえば、聖隷福祉事業団キリスト教精神が、ここまで事業として軌道にのり拡大して地域にうけいれられているものは、そうそう日本にないと思う。人によっては、ここにいたった源流を「浜松バンド」と呼ぶ)でもあるが、そういう所に、共鳴しとるのかもしれない。


【当日の入賞者記念公演動画】
http://hipic.dsen.jp/jp/vod.html
この浜松国際ピアノコンクール公式サイトで、平成28年1月31日まで、演奏録画をみることができる。大楽器会社がスポンサーだからこそできるサービスではないか。無名の彼らの演奏ぶりを広げるとともに、ピアノの宣伝にもなっている。浜松国際ピアノコンクールならではの相互共栄関係。


【過去記事参照】
2012 浜松国際ピアノコンクール
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20121127
2012 浜松国際ピアノコンクール 2
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20121130
2012 浜松国際ピアノコンクール 3
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20121201