昭和天皇の『新日本建設に関する詔書』‐神権否定と国民への主権禅譲

【IWJ特別寄稿】昭和天皇自ら天皇主権を否定し、大日本帝国憲法から日本国憲法へ橋渡しをした 松永章生氏(憲法社会保障法生活保護法)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/271385 


 これで、日本国憲法が成立に至った時系列がよくわかった。この松永論文を読む前と後では、日本国憲法へのイメージが、大きく変わる。この憲法が決してGHQの押し付けではなく、明治天皇五箇条の御誓文から、戦争、敗戦、その後のかろうじての天皇主権の保持から、連続して発展してきた、日本における立憲主義の歴史的展開であることがわかる。

 日本政府は、天皇主権を前提として、ポツダム宣言を受諾し武装解除となったが、日本政府および、天皇主権という形は、敗戦後も残っていた。その与えられた貴重な時間に、昭和天皇は、1946年1月1日『新日本建設に関する詔書』をだし、神格化されていた、みずからの主権性を否定して、これまでの神話は「架空なる観念」とカミングアウトして人間宣言を行い、国民主権への移行の道筋をつくった。その後11月3日に公布にいたった日本国憲法国民主権は、マッカーサーの欧米流のおしつけでは決してなく、明治期の議会制への移行の日本の歴史の延長線として、さらに昭和天皇の意志として、敗戦後の比較的みずからの自由意志が効いた時に与えられたというのが、真相のようである。ここに、日本国民の歴史的な人権天賦があると思う。また、ここで、日の丸の象徴が、戦前戦中の皇国布武的なものから、天皇みずからの手で新たに刷新されて、日本国憲法を象徴するものとなったとみることができる。

 この、明治以降の日本の主権がどこに移行しているのか、錦の御旗がどこにあるのか、という歴史的な経緯をしっかり把握することは、自民党の戦前的な横暴に立ち向かう上で、極めて重要であろう。今現在、錦の御旗は、天皇の意志により、国民各位に移行しているということだ。錦の御旗が国民各位に移行した宣言ともいえる、1946年1月1日の『新日本建設に関する詔書』は、敗戦後のあの時にあって、天皇みずからの言葉で、非常に国民を勇気づける内容となっていて、「民主主義」「国民主権」がぼやけた今、読み直されてしかるべきだろう。


松永「マッカーサーとの第1回会見前の1945年9月25日の記者会見で、天皇は『……立憲的手続きを通じて表明された国民の総意に従い、必要な改革がなされることを衷心より希望する』と述べている」
天皇は、1946年1月1日の『新日本建設に関する詔書』で天皇主権を否定した。天皇は、独立後の記者会見でこの詔書が自分の意思であることを表明している。マッカーサーの押しつけではない。主権が否定された大日本帝国憲法は形式だけになった」


 もともと昭和天皇はイギリス式の立憲主義を希望していたが、戦前の「天皇機関説」への批判、否定という国家神道原理主義化以降、自分の主権を神格化され、軍事的な大義として利用されていった。これに対して、戦後に自らの意志で、神権的な主権を否定し、それを国民に移譲してゆく形で実行したといえる。


松永「この文書(ポツダム宣言受諾にあたり天皇主権を変更しないようにという日本側の申し入れに対する米国の回答)で見る限り、連合国最高司令官の任務は日本の武装解除であり、軍事的なものであった。日本の最終的な政治形態即ち主権変更は、日本国民の意思によると述べている」
天皇人間宣言についてGHQの押しつけであるという主張がある。その点についてはこれまで賛否両論があった。ところが独立後の1977年、天皇は記者会見をしている。つまり公的存在である天皇の意思表明である。これによると詔書は自分の意思であるとはっきり述べている」


1977年での昭和天皇会見
「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして、『五箇条の御誓文』を発して、それがもととなって明治憲法ができたんで、民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあったと思います。」


 日本における民主主義の可能性について考える場合、明治以降の三代にわたる日本天皇のみずからの主権性限定による国民主権の創出や、強い継続的な天皇の意志による立憲主義への流れ、という点も忘れられるべきではないだろう。これは、「右からの民主主義」ともいえる。最終的には、1946年1月1日の、いわゆる人間宣言部分も含む『新日本建設に関する詔書』が、日本流のマグナ・カルタになってくる。王権の自己制限と、国民への信頼というものだ。この『新日本建設に関する詔書』ははじめてみたが、玉音放送日本国憲法前文の間にあって、両者をつなぐ性質のものである。



1946年1月1日 昭和天皇
然レドモ朕ハ爾等臣民ト共ニアリ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等臣民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。
天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニ非ズ。


一年ノ計ハ年頭ニ在リ、朕ハ朕ノ信頼スル国民ガ朕ト其ノ心ヲ一ニシテ、自ラ奮ヒ、自ラ励マシ、以テ此ノ大業ヲ成就センコトヲ庶幾フ



 国家神道を、「架空ナル観念」として、本人が明快に否定し、また、日本民族の優越論も否定している。そんなものによらずに、私は、終始、相互信頼と敬愛によりて国民と結ばれているのだ、共に国をつくっていくのだ、としている。私が『人間天皇と共に、新しい日本の歴史を作ろう』でいってきたこととは、だから、歴史的な正統性がある内容である。


【過去記事紹介】「人間天皇」とともに、新しい日本の歴史をつくろう
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140907


 日本と言う風土において、民主主義、国民主権基本的人権の尊重というものが、いかに可能か、その超越を可能にする「神性」がどこにあるのか、その細いが存在しなくもない歴史的線を、しっかり把握することが、重要であろう。昭和天皇は、あらためて、「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた」と、明治以降我が国の指針とした道を述べているが、日本には、上からの変革ではあったとしても、こういう超越、誓いがあるわけだ。そういうものを意識しないと、日本における民主主義というのは、機能させるための一つの重要な礎を失ってしまうのではないかと思う。



1946年1月1日 昭和天皇による「新日本建設に関する詔書
茲ニ新年ヲ迎フ。顧ミレバ明治天皇明治ノ初国是トシテ五箇条ノ御誓文ヲ下シ給ヘリ。曰ク、
一、広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スヘシ
一、上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フヘシ
一、官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ケ人心ヲシテ倦マサラシメンコトヲ要ス
一、旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スヘシ
叡旨公明正大、又何ヲカ加ヘン。朕ハ茲ニ誓ヲ新ニシテ国運ヲ開カント欲ス。


ラク此ノ御趣旨ニ則リ、旧来ノ陋習ヲ去リ、民意ヲ暢達シ、官民挙ゲテ平和主義ニ徹シ、教養豊カニ文化ヲ築キ、以テ民生ノ向上ヲ図リ、新日本ヲ建設スベシ。


 この後に、先に引用した国家神道を「架空の観念」と否定していく、人間宣言が来る。11月3日は、文化の日であり、日本国憲法が公布された日であるが、五箇条の御誓文から、日本国憲法公布にいたる流れを、むしろ偲ぶべきだろう。 この明治天皇五箇条の御誓文から、敗戦後、主権を残されていた時期の昭和天皇による新日本国建立にあたる声明にいたって、日本国憲法公布にいたる筋がみえたことで、やっと憲法を成り立たせるための内的な日本人のエートスとしての歴史的な正当性を、つくっていくことができる。11月3日を、列強から独立を守り抜いたということで「明治の日」とする自民党議員の動きがあるようだが、その結果は、昭和20年8月15日の敗戦でり、焼け野原となった首都であることを忘れるべきではない。むしろ、明治から敗戦にいたった痛恨の反省から発布された『新日本建設のための詔書』を重視して、「国民主権の日」とした方が、各国民の主権者としての自覚をうながせるし、あるいは、政治家や官僚も、自分たちの裁量権、業務執行権は、国民の主権から与えられたものだと意識させる機会になる。

 だから、松永も指摘するように、日本国憲法は、欽定憲法でも民定憲法でもなく、「君民協約憲法」で、天皇から日本国民への主権の禅譲という歴史的内実を持つわけである。その国民が、さらに、立憲主義的な政体をつくっていく。だから、「国民に主権があるなんておかしいだろ」という自民党議員の発言は、不敬極まる発言である、というエートスがでてくる。政治的精神は、系統発生をくりかえしていかないと、その内実、エートスというものはつかめない、文字だけの空論になる。日本人各位に主権があるのだという認識は、この作業なしには、戦前や、さらには江戸戦国時代ぐらいにすぐ退行せしめられるだろう。