第12回浜松国際ピアノコンクール 入賞者披露演奏会 臨場記
11月25日、6年ぶりの浜松国際ピアノコンクール最後の行事である、入賞者披露演奏会を大ホールで体感できた。まず、1次予選時に空いていた4階席のバルコニー前列、あそこは柵も低いし、ものすごい高所にあり、また、座っている客の前を通るスペースもほぼないので、自分の席につくまでが恐怖だった。アクト大ホールの風格を実感できる眺めではあった。
最初は、 サーラム氏のラフマニノフのピアノ ソナタ1番レント。これは初めて聴いたが、ラフマニノフの夢想的で、しかし高度に洗練された音楽世界を、きれ〜いにホールの中空に描き出してくれていた。次にJJ ジュン・リ・ブイ氏のラヴェル ラヴァルス。この曲を生で聴いたのも、初めてかもしれない。若いエネルギーをぶつけきった、しかしコントロールが細部まで行き渡った豪華絢爛なワルツだった。この曲を、生の舞台で思いっきり気持ちよく弾き切れるピアニストは、そう多くないんじゃなかろうか。若いコンテスタントのエキシビションここにあり、といった演奏で、拍手した。あと印象的だったのは、やはり、愛美氏だった。
シューベルトの楽興の詩、第2番は、始まった先から、つむがれる音世界の密度に息を呑みながら、聴き続けた。間合いの取り方、曲想の繰り返し、そのそれぞれが、シューベルトの譜面が本来演奏されるべき姿はこうなのではないか、と思わせるような、内的な完成度を感じさせるものであった。その後のシマノフスキ メトープ第1曲も、初めて耳にする現代曲だったが、つむがれる密度の高い緻密な音世界を目前にして、やはり、息をのみながら聴かせてもらった。鈴木愛美さんが弾いているというか、強い統合性と必然性を持った音楽世界を、目前に展開されるような感覚である。落語の真打を聴いていると噺の中に没入する感覚があった覚えがあるが、何かそれに似た感覚であった。他のコンテスタントにない、この真打感が、ホールにも満ちていたと思う。ピアニストの気迫の発散みたいなものも、特にJJと愛美さんは、4階にいても感じることができたが、これは、生で、同じ場所でしか、体感できないことである。
一人欠席とはなったが、最後の最後、5人揃ってのカーテンコールでの満場の拍手は、この6年、実は我々は彼らの登場を待っていたのだ、と感じさせるようなものであった。浜松に来てくれて、我々に本物の音楽を見せてくれて、本当にありがとう。
P.S.鈴木愛美さんについて
ヤマハ音楽教室でも、河合音楽教室でもなく、ピアノ教師の自主組織、ピティナの特級優勝者から、この浜松国際ピアノコンクールの邦人優勝者が初めて出たというのも、一つの意味はあろうと思う。また、彼女は留学もしていないし、本当に素の大学院一年生という感じもあり、そこにも何か意味はある。 15歳チョ・ソンジンの優勝演奏・皇帝は生で聴いたが、あそこには、まったく力まない素直さと優雅さ、力強さ、エレガンスが、見事に同居していた。鈴木愛実さんの演奏は、本腰入れてまだ聴いていないが、それにつながる何かがあるんじゃなかろうか。
2023年ピティナ特級優勝動画(ベートーベン4番協奏曲)を視聴し、この感を強くした。
PTNA2023特級ファイナルグランプリ ベートーヴェン:ピアノ協奏曲 第4番,Op.58 鈴木 愛美:Suzuki, Manami
月刊誌『音楽の友』連動企画 フレッシュ・アーティスト・ファイル
【Q&A】鈴木愛美さん(ピアノ) 日本音楽コンクール&ピティナ特級の連続優勝で話題!
https://ontomo-mag.com/article/interview/fresh-artist01/
「ラドゥ・ルプーです。音楽ですべてを語れる— そんなカッコいい演奏家に憧れます。演奏でいうと、彼のシューベルト「即興曲」op.90-3、ブラームス「間奏曲」op.117-1などの録音。気分が沈んだときなどに聴いて何度も救われました。」
飾らぬ人となりがわかったインタビュー。この2曲は、共感しますね。
第12回浜松国際ピアノコンクール 一次予選立ち寄り記
浜松国際ピアノコンクール、この11月8日から、6年ぶりの開催となった。今は、第一次予選開催中なのだが、ここは唯一、当日券でぶらりと立ち寄るように、駅近ホールでコンクールを聴ける貴重な場である。この職場帰りに、下駄をはいて銭湯に寄るように、国際コンクールで無名の若手演奏家の生演奏をじっくり聴ける感覚が、最高だ。本日の最終ラウンドを聞かせてもらったが、ラフマニノフ、スクリャービン、そして、ブゾー二のバッハ編曲ものが、4人のコンテスタントで重なる所があり、とにかく、音の粒数が多く、迫力、派手さのある演奏が並んだ。リスト編曲の『トリスタンとイゾルデ』も入っており、たまたま立ち寄った一次予選ではあったが、私が丁度聞きたかった演目が並んでいて、非常に幸運であった。
今回は、各曲目や、その演奏について味わう、というよりも、そもそも、何故、人前で我々は演奏をするのか、こんな血のにじむ苦労をしてまで、それでも時には舞台で失敗を冒すこともあるようなリスクを負ってまで、音楽というものを奏するのか、その答えのヒントが転がっているかもしれないと思いながら、立ち寄った。ごく最近、舞台上で指が動かなくなる体験をしたこともあって、である。なんで、そこまでして、自分を追い込んで、舞台に立つのか?
一つ見ていて思ったのは、舞台での音楽というのは、生で何かを、音楽芸術を構築している、建築作業のようなものだ、ということだ。堂々とした黒光りするグランドピアノの上に、ブゾーニ編曲のシャコンヌが、浪々と構築されてゆく。そもそも、音楽芸術というのは、演奏手がなければ、つまり、譜面に書き記された音の建築家がいなければ、その存在そのものが、成り立たないものである。演奏者がいて、はじめて音楽は成り立ち、生命を吹きこまれる。それを、人前に立って演奏してみせることで、我々は、先人の作曲した、ひとつの音楽世界を、共有させてもらい、堪能することができる。録音でも、それは悪くはないのかもしれないが、しかし、実際にその場で、生で聴く、目前で建築されている息吹を感じ、体験してゆくことの価値、意味というものも、あるはずである。ただし、聴衆といっても、テレビのごとき不特定多数な視聴者ではなく、この特殊な音楽芸術に価値を見出している、むしろ、選ばれた特殊な人々だ。特に、コンクールの一次予選に入ってくる人々の層は、あきらかに異なっている。みるからにピアノ音楽の専門家、業界人、学生といった人々が多く、いつも浜松国際ピアノコンクールで思うのだが、沈黙の質が極めて高い。
ある本では、パフォーマンスの本質は、「与えること」であると書かれていたが、むしろ、作曲の過程で先人が見出した音楽世界を、今の空間に、時間に、そこに価値を見出してくれる人々の中に作り出すこと、その「作業人」であるのではないだろうか。そこに、作業人の個性、技術、センスは、もちろんでてくるが、事の本質は、楽譜に書かれた貴重な音楽世界を作り出すことである。演奏家が「与える」部分もあるだろうけど、与えるネタをつくったのは、あくまで作曲家だ。ただその書かれたネタ、設計図も、実際に作る人、演奏家がいなければ、何の価値なきものとなる。
そんな解釈が、アマチュアが苦労しながら、あえて危険を背負ってまで、年に1回、2回でも、発表演奏することについての、一つの答えになるかもしれない。苦労し、あえて舞台の危険を背負う人がいなければ、その音楽芸術は、生の形で成り立たない、共有され得ない、わけだ。そこに、演奏家の価値がある。
リーゼンフーバー師のこと
今日も、25分の坐禅をした。坐禅の姿勢をとり息を整えようとし、静寂に包まれると、そこには実人生の時間を超えた在り方があり、20代前半の自身の坐禅する姿、内面と、全く直接つながる感覚がある。その当時は、上智大学クルトゥルハイムの一室で、頻回に催されている、リーゼンフーバー神父が導く坐禅会に参じることが、私の実存をかけた日課であった。もう、30年前になり、師の年齢は56歳、今の私もあと幾年かで、当時の師と同じ年齢になるまでになってしまった。
おそらく、もう亡くなられているだろうな、と思いながら、彼の安否を尋ねるグーグル検索を、なかなかできないでいたが、本日、思い立って行い、彼が2022年3月31日に、お亡くなりになっていたことを知った。哲学博士でもあるから、これはいけるとおもって、イグナチオ教会で、彼のキリスト教入門講座に通い始めた。なにか、これから生きるための道をみつけようと人生を賭けていた時期でもり、雲水のように坐禅会に通い詰め、接心にも合わせて数回参加した。哲学的な深い問に耐えるレベルの彼のキリスト教入門講座は、若い私にとっては、砂漠に水が沁みいるように吸収され、密かな涙をもって受け入れられた。こう書いていると、新築される前の四谷駅真正面にあったイグナチオ教会地下で催されていた当時の講座の雰囲気も、思い起こされてくる。
禅ととキリスト教の接点に、宗教的な土台、救いの本質があるのではないか、という高校時代の直観があった。それは、門脇佳吉氏の『禅仏教とキリスト教神秘主義』という本に出合ってからである。それを、身をもって実践し、生きていたのが、上智大学哲学科教授のリーゼンフーバー師であった。彼に出会うために、私は、大学の一年を棒に振り、東京にでてきていたわけではなかったのだが、30年後の今から思うと、その若気の至りの実存的賭けによって、56歳のリーゼンフーバー師と出会い、交流を持てたのだと思われる。結局、12月24日か25日のミサで、私は洗礼を受けるまでになった。
しかし、東京の場を離れてしまうと、なかなかその勢いは続かず、リーゼンフーバー師と離れてのカトリック教会、その社会に、なかなかはいりこむこともできず、また、おそらく私の東洋人気質なのであろうが、人生のすべてをかけてそこに投じることができない何かを感得するようになり、最終的には、今のように浄土真宗に帰するようになった。その行程でも、数回は接心に参加させてもらい、上京の折にクルトゥムハイムに師に会いに行き、質素な部屋で迎えてもらい、真剣な対話を行ってもらった。特に、浄土教に傾きつつあった私と、真正面から対話してくれた、彼の姿勢、態度に、深く感謝したいと思っている。最終的には、やはり、実在したイエスとその復活を信じるかどうか、その救いにおける特権性を受け入れるかどうか、ということに帰することになる。私には、イエスのように行うことはできない、あんな隣人愛はなかなか難しいんだよね、という本音の部分が経験上どうしてもあり、それをキリスト教教義や教会の中では、回収してゆけないと判断するに至った。そして、それをあるがままで回収し、さらに救いを提示してくれたのは、親鸞の開いた浄土真宗であった。ここに至るまでには、年余にわたる煩悶があったのだが、最終的な扉は、ジャン・エラクルによる『十字架と分陀利華』であった。この著作も、まさに砂漠に水が沁み込むように、読ませていただいた。これで、私の在り方が決まったといってもいい。
リーゼンフーバー師と会い私の心境を伝えてゆき、最終的には、カトリックの洗礼は消えないものだ、ということも伝えられた。ある種の別れの言葉でもあり、宗教的な真理の継続性に関する師の言葉であったのだと思う。その上で、私は新しい宗門に向かっていくことができたと言ってもいい。まあ、とにかく楽になったし、救われた。キリスト教のどこか自分の首を絞めてしまっている所を、浄土真宗は受け止め、ほぐしてくれ、心身の統一地点にまで導いてくれる。新約聖書の後にくるのが、歎異抄である、と私は思っている。さらに、禅があれば、それは日本仏教的な統一地点になるのかもしれない。そんな場所に至ることができているのも、私の若き頃の無謀な賭けと、リーゼンフーバー神父との出会いがあってこそだったと思う。それは、1994年、日本が未だオウム真理教テロに見舞われる前、『今夜はブギーバック』が牛丼屋に流れ80年代の名残が東京に残る頃、そして、阪神大震災が起こる前、97年の自殺者急増が起こる前、そんな日本の一時期だった。
坐禅をしつつ、その30年前の若き日の私の身に、クルトゥルハイムの場所に、全く戻ることができる。師は坐禅の合間に、提唱を行ってくれていたが、それもあの当時の私にとっては、貴重な、存在の場所を見出すヒントになっていた。最後に特筆しておくと、彼のユーモアは本物であった。聞えるかな、神父、本当にありがとう。
『赤とんぼ』の原詩、探訪
赤とんぼの詩を調べると、「おわれてみたのはいつの日か」が、「追われて」ではなくて「負われて」となっている。誤字ではない。その心を調べてみると、そもそも、原詩は今の歌われている詩とは異なっていた。姉やも姉さんではなく、子守娘、だった。
童謡「赤とんぼ」について
吉海 直人(同志社女子大学 日本語日本文学科 教授) https://www.dwc.doshisha.ac.jp/research/faculty_column/2018-10-09-11-19
赤蜻蛉(原詩) 三木露風
夕焼、小焼の、山の空、負はれて見たのは、まぼろしか。
山の畑の、桑の実を、小籠に摘んだは、いつの日か。
十五で、ねえやは嫁に行き、お里のたよりも絶えはてた。
夕やけ、こやけの、赤とんぼ、とまつてゐるよ、竿の先。
三木露風の、幼少時代の回想からなる詩、ということのようだ。これで、この曲の味わいが一段と深まる。三木がトラピスト修道院で働いていた大正10年、作詞され、山田耕作が昭和2年に曲をつけた。三木の故郷は、兵庫県揖西郡龍野町、とのことである。こういったことをイメージしながら、ギターでこの曲をつま弾くと、三木の郷愁と山田の抒情が、今間近に蘇る。音楽と詩の、歌というものの、不思議さでもある。
山梨との県境に近い富士宮西部、柚野の風景

なんとなく導かれるように歩き、みつけることのできた、柚野、興徳寺の見事な彼岸花。柚野地域は、そこここに用水路の水が豊かに流れて棚田を潤し、北東に雄大な富士に見守られた、なんだか、静岡らしからぬ、別世界のような場所だった。

富士川支流、芝川沿いの用水路に沿った小道。道端に古い石碑も点在し、古来の道としても利用されていたような雰囲気でもあった。住んでみたくなる雰囲気のある里山だ。そう思ったのも、決して私だけではないようで、縄文の昔からこの地域には、人が住みついていたいた跡があるのだという。現在、日本の代表的な里山の一つにも、数えられてもいる。

興徳寺から眺める富士山。ここまで左右対称で裾野が緩やかに広がる富士山も、珍しいかもしれない。少し東に行くと、驚くほど巨大で、かつ古い歴史を持つ大石寺がある。京都の東福寺あるいは、鎌倉の建長寺と同じぐらいの規模・歴史があるのだ。身延山から富士川流域でつらなり、日蓮宗系の仏教が広がる地域でもある。
蓬莱橋探訪

大いなる 川の流れに 身を寄せて
夕空望む 蓬莱の橋
大井川下流に、長く長くかかる、木製の橋、蓬莱橋。勝海舟が構想した、牧之原台地の茶畑化を実現しつつあった明治12年に、造られている。これが残っているのも、奇跡的だろう。近場にありながら訪れたことがなかったのだが、行って渡ってみて、ちょっと感動した。

幅2.4mたらず、手すりもあってないぐらいの低いもので、そんな木製の長い廊下のような道が、浪々とながれる大井川の上を、対岸にまで掛けられている。これは、スリルがあったし、「川の流れに身を寄せる」という近さを感じることができた体験だった。
丁度渡った時間が、夕日が沈むころだったので、薄オレンジ色の雲と空が、大井川の川面にも映え、ザーザーと目下を流れる音を聞き、若干のスリルをかんじながら、シャッターを切りまくった。とにかく、いい景色と、体験をさせてもらった。通行料100円也。
街側へ戻る時には、この景色と空を、川の流れを、なにか表現しておくか、という気になり、久しぶりに、歌を練る。897mを渡っているうちに、言葉を探し、推敲して、短歌にまとめたわけだが、作成した後の充実感を感じる歌となった。
韓国人徴用工の方々への賠償問題について
「徴用工」「女子勤労挺身隊」訴訟に対する韓国最高裁判決に寄せて 弁護士 岩月浩二氏による特別寄稿! 2018.12.29 7.13加筆
https://iwj.co.jp/wj/open/archives/438559
【日刊IWJより】日本は1965年の日韓請求権協定で、この問題に関しては解決済みであると主張していますが、1991年、外務省条約局長は「日韓両国の外交保護権(相手国の責任を追及する権利)を相互に放棄したが、個人の請求権は消滅していない」と答弁しました。
日本政府も昨年11月、初鹿議員(立民)の質問主意書に対し「91年答弁を含めて政府の見解は一貫したものだ」と回答、個人の請求権は消滅していないことを認めている。問題は、なぜ、安倍政権になってから日本政府のこれまでの一貫した外交姿勢をひっくり返し、事を荒立だてているのか、ということ。
【岩月寄稿文より引用】
現在の情勢を踏まえ、確認しておきたいのは、本件は民間企業の被害者個人に対する賠償問題であり、政府は直接の当事者ではないことである。日本製鉄は、賠償を命じた2013年のソウル高裁判決を受けて、判決が確定すれば、これに従うという方針を有していた。にも拘わらず、日本政府が介入して、判決が確定しても支払わないようにさせ、事態を紛糾させた。問題を困難にさせているのは、当事者である民間企業ではなく、もっぱら日本政府である。韓国非難一色のメディア状況だからこそ、もう一度、基礎的な事情の正確な理解が欠かせないと考える。
請求権協定締結直後の国会において、条約締結を担当した椎名悦三郎外務大臣は、次の通り答弁して、請求権と経済協力は無関係であることを力説した。いわゆる「独立祝い金」答弁である。
「請求権が経済協力という形に変わったというような考え方を持ち、したがって、 経済協力というのは純然たる経済協力でなくて、 これは賠償の意味を持っておるものだというように解釈する人があるのでありますが、法律上は、何らこの間に関係はございません。あくまで有償・無償5億ドルのこの経済協力は、経済協力でありまして、韓国の経済が繁栄するように、そういう気持ちを持って、また、新しい国の出発を祝うという点において、 この経済協力を認めたのでございます」(参議院本会議1965年11月19日)
【徴用工問題に関する日韓の交渉経緯】
戦時徴用訴訟 和解を拒否 政府、韓国側に伝達 - 産経ニュース https://www.sankei.com/politics/news/131230/plt1312300007-n1.html
ここで、深く事情を勘案し、今後のアジアでの日本の立ち位置を考え、和解の枠組みを作っておけば、流れは変わっていたと思う。
河野太郎氏の立論
https://www.nhk.or.jp/politics/articles/statement/10474.html
昨年11月3日街頭演説「1965年の国交正常化でいちばん問題になったのが補償や賠償をどうするかで、日本が経済協力として一括して韓国政府に支払い、国民一人一人の補償は韓国政府が責任を持つと取り決めた」と経緯を説明。
ところが、この一大重要事項が、請求権協定では、文書化はされていない。また、協定締結当時の解釈とも異なっている。岩月氏は、「となると、河野外相によれば、この「取り決め」について、書面化することなく、「韓国政府が責任を持つ」とする、口約束をしたというのである」
【筆者コメント】ここが、日本側の立論のアキレス腱になろう。日本国民に対しては、原発事故後の鼻血もストレスと強弁して忘れさられるのを待ったり、公文書も偽造してもうやむやにもできるかもしれないが、外国民となると、それもなかなか難しかろう。バカにしたり、威嚇したり、経済制裁は加えられるかもしれないが
2013年の韓国側の和解の打診のときに、しっかり本腰をいれて、対応すべきであった。それができるためには、村山談話、河野談話を、日本が真摯に受け止めつづけ、未来志向の外交として態度で示してゆく度量が必要であった。2012年からの安倍政権は、本質的な所で逆回転をしはじめていた。