ラシュコフスキー凱旋公演 in 浜松

  本日、昨年のピアノコンクール優勝後、再来日して演奏行脚をしているラシュコフスキーが浜松でコンサートに出演した。地元信用金庫主催のファミリーコンサートで、ラシュコフスキーはメインゲストといった感じである。生誕200年記念のヴェルディのオペラアリアもプログラムに載せられていた。
  久しぶりに、動くラシュコフスキーご本人をみることができた。演奏曲目は、チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番。彼の、ダイナミックに、打ち鳴らすようなピアノ表現が、ここぞというところで効果的に聴かれたし、細かく、ピアノにいたるような、かつ、ゆっくり静止してゆくようなパッセージでも、緊張感が途絶えず、仕上げの美しさが冴えていた。優勝後、数々の協奏曲も含めたコンサートの経験を経てきたからか、演奏に若干の余裕もただよってきているようであった。凱旋公演としては、十分なんじゃないだろうか。ただ、昨年本選の時の都響井上道義との一期一会な、コンクールの本番感の中から奇跡的に生まれたような演奏が、やはり、すごかったのだなとも思われた。あと、ちょっと批判をすれば、前々回優勝者であるチョ・ソンジンのピアノにあるような優美さがあればと思ったりした。wetさをさらに洗練させた、graceさである。ソンジンは、また別種の才能のあり方なので、比べてもまずいかもしれないが、あえて言うと、そういうところである。20世紀のクラシックギターの巨匠、セゴビアには、有り余るテクニックとともに、このgraceがあった。かつ品のいいwetが十分あった。ラシュコフスキー君にこういう美質が、さらに加わってくれば、歴史に残る名ピアニストになりうると思う。
  それと、こちらの感情移入かもしれないが、同じステージで昨年11月のコンクール体験を思い出すような、さらに、「よく自分を選んでくれました」と浜松への感謝の念を込めたような、そんな演奏の雰囲気を感じとることができた。報恩的な音楽とでもいおうか。傲慢不遜な天才ピアニストではない、苦戦を経ての20代最後での優勝という彼だからこそ、にじみ出てくるような、演奏の雰囲気と、そこから聴こえてくる音楽の暖かさというものもあるのかと感じさせた。最後のカーテンコールでの挨拶も、ややぎこちないが、それでまずはいい。 This is mede in Hamamatsuである。
 
 
  ラシュコフスキー出演は後半で、前半は、ヴェルディのオペラアリア集。早くラシュコフスキーを出せと思いながら聴いていたが、聴いているうちにはまってきた。オペラの人の声と演技の魔力というものがある。特に、「オテロ」より柳の歌、アヴェマリア(デズデモーナ メゾソプラノ)には、感銘を受けた。夫の根拠のない嫉妬心が、殺意にまで発展していったことにたいして、純に祈りを捧げる妻のアリアだが、いくら夫婦が仲良く身近にいたとしても、「思考」という罠にはまると愛がこうももろく崩れるものか、かつ、相手の暴走する「思考」に対して、なすすべがないながらも、祈りを歌う女性の心持のいかに純なことか。
  以前、「音楽探訪」でヴェルディオペラアリアを聴いたときもそうだったが、自分のからみもつれた心持ちが、音楽、オペラアリアを通じて新たなところに開いてくれたような、そんな体験であった。こういうことが、自分の問題にとって、いいことなのか、結果的に悪いことなのか、それはわからんが、感情的体験と解決感という事実がある。カタルシスではなくて、オペラの題材としてあらわれるような戯画的な状況に身をよせることによる、自己の陥っている、あえて言えば原型的な状況の客観化と、現実のあらたな受容の仕方ということである。ワーグナーができなかったような、より卑近な形でのもつれの解決というものを、イタリア人ヴェルディは意図せずやっているのかもしれない。


指揮 海老原光
管弦楽 浜松交響楽団
ピアノ イリヤ・ラシュコフスキー
メゾソプラノ 上田由紀子
  

参考リンク 
この時代のセゴビアの演奏には、ものすごいエスプリがある。ギター音楽がクラシック界に有無をいわさず認められていった現場であると思う。ユーチューブがあることで、この御威光に触れることができた。

Segovia - variations on Mozart's theme. (作曲ソル)
http://www.youtube.com/watch?v=2eBnfzngq9Y
 
Andres Segovia J. S. Bach - Prelude in Dm BWV 999 .
http://www.youtube.com/watch?v=VmTnLcOYEGE  (最初に動画乱れあり)