昭和初期以降日本社会の「空気」による社会的感染症

 本日、届きたてのIWJウィークリー19号を斜め読みしたのだが、岩上の最後の後書きのところで、関東大震災時の朝鮮人が井戸に毒を入れたなどのデマ流布とそれによる虐殺事件の経緯について、朝日新聞社専務を経て自民党で大臣を歴任した政治家、石井光次郎の回想録(『回想八十八年』石井光次郎著(【写真URL】http://bit.ly/16vAYx4))をもとに書いている部分があった。山本七兵の「空気の研究」というのを、昨日から繙いており、そこで読んだ印象から、本日ツイートで連投したので、参考までに以下に記録しておきたい。空気に流されることを「恥」として、戒めていた文化が、明治前期まで日本にもあったのだということを、回顧しイメージするだけでも、なにか救いがある。逆に、大正デモクラシーから昭和にかけて、火事場で空気をつくって、それに大衆が集団感染して大変なことをしても、誰の責任も追及されずに済んでしまうような時代精神が台頭してきたことを、この関東大震災時のデマ流布事件の火元(そのキーパーソンが讀賣新聞中興の祖、正力松太郎)と、その後始末のありかたから、読み取ることができそうである。山本七平は、「空気の研究」の後書きで、「空気支配の歴史はいつ始まったのか?」と自問し、ツイートで引用したように昭和期にはいるころ、つまり大震災の頃と考察している。
 「空気」問題について、きちんと本をみておかんといかんと思ったのは、約1か月前、私が以前からフォローしていた想田監督と、出所開けの堀江氏(旧ホリエモン氏)のやり取りをみて、当日朝みた「空気」に関する社説の流れから、一連の実況解説ツイートを行ったのだが、これが、ご本人の想田監督に拾い上げられ、それが、お二人の議論というかジャブ応酬の行方を、別の次元で、抽象化しながら解消するきっかけになってしまったような気がするからである。ただ、ある種の生産的な視点というか、切り口を、荒削りではあっても、あの時に、期せずして提供することができたのではないかと思っている。山本七平は、正直、まともに向き合って読んでいなかったので、この機会に手に取っているのだが、かなり私の問題意識とかさなる論述をしているのに驚く。私は、「知的欠陥を伴う感情論理」と日本的空気について述べたが、それと同じものを、どうも山本は「臨在感的把握」と述べているようだ。この辺の比較考察も含めて、いずれブログに記事にはしたいとは思っている。
 今回は、讀賣という日本の代表的な「空気の素」製造会社の中興の祖でもある、正力松太郎が断罪されずに台頭してゆくような時代についての話である。これは、ある意味、世論が権力に直接つながるという、デモクラシー的政治状況のひとつのゆがみであり、陥穽でもあるのかもしれない。この辺は、構造としては市場での風説の良さが、時価総額企業価値につながる状況のなかで、堀江氏がうまく立ち回ってきたということにも似る。下村にはあったであろう、エリートの日本的な「恥」の意識、あるいは罪の意識、文化はどこに行ったのか?民主主義の戦術と、市場原理至上主義の中で、恥など、またそれに支えられた精神性など無用の長物として、圧殺されたのか?個人的には、それが殺されると、生きがいのある豊かな、まともな社会が成り立たなくなると思っている、のでこんなことをいろいろ書いている。




以下本日のツイート編集引用

 IWJウィークリー19号に正力松太郎大正12年震災時の「空気製造」の現場が書かれていた。
「警視庁の官房主事という立場で「朝鮮人が謀反を起こそうとしている、という噂をあちこちで触れまわってくれ」と、新聞記者たちを煽っていた、というのです。」讀賣のDNAだ。

現代風パロディ
「警視庁の官房主事という立場で「小沢一郎が謀反を起こそうとしている、という噂をあちこちで触れまわってくれ」と、新聞記者たちを煽っていた、というのです。」讀賣のDNAだ。



山本七平「空気の研究」後書きより引用
徳川時代と明治期初期には、少なくとも指導者には「空気」に支配されることを「恥」とする一面があったと思われる。「いやしくも男子たるものが、その場の「空気」に支配されて軽挙妄動するとは・・・」といった言葉に表れているように、人間とは「空気」に支配されてはならない存在であっても「今の空気では仕方がない」と言ってよい存在ではなかったはずである。ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに強くなり、いつしか「その場の空気」「あの時代の空気」を一種の不可抗力的拘束と考えるようになり同時にそれに拘束されたことの証明が、個人の責任を免除するとさえ考えられるにいたった」



 警察官僚出身で、当時朝日新聞勤務の石井は正力の「朝鮮人謀反」にたいする、下村宏(台湾総督府総務長官を経て朝日新聞)の次のようなごくもっともな判断を尊重した。「地震が九月一日に起こるということを、予期していた者は一人もいない。予期していれば、こんなことにはなりはしない。朝鮮人が、九月一日に地震が起こることを予知して、そのときに暴動を起こすことを、たくらむわけがないじゃないか。流言ひ語にきまっている。断じて、そんなことをしゃべってはいかん」と。しかし、現実は、正力の熱心に流したデマは、警察・軍を動かすにまでになり、7800人死亡となる事態となったが(日弁連報告書あり)、日本政府の公式な調査はない。「あの時の火事場の空気でやってしまった」これが大正末期で昭和に至らんとするときの事件である。



wikiで簡単な生育時代を確認してみる
下村 宏  第一高等学校― 東大 1875年(明治8年)‐1957年(昭和32年
正力松太郎  第四高等学校― 東大 1885年(明治18年)‐1969年(昭和44年)
石井光次郎  神戸高等商業― 一ツ橋大 1889年(明治22年)- 1981年(昭和56年)



 江戸から明治初期にかけての「武士道」的な日本エリートの在り方、「空気」にのまれること男子として良しとせずの在り方が廃れてゆき、替わって「空気」を作ってそれを利用して支配する似非エリートが昭和初期にかけて出てくる、一つの事件としてこの、関東大震災正力デマは位置づけられそうである。



Wikiをみると、この件、正力は「失敗だった」とコメントしている。謝罪ではない所が似非のキモにみえる。読売新聞社としての検証報道はあったのだろうか?
wiki引用「1944年(昭和19年)警視庁で正力が行った講演で、この風評流布を「失敗だった」と発言」