神権的神体の亡霊に臨席する首相・閣僚

【IWJ検証レポート】改憲への熱情の底にひそむ「国体復活論」〜安倍政権を思想的に支える日本会議神道政治連盟、そして伊勢神宮の「真姿」とは――宗教学の第一人者・島薗進氏(上智大学教授)に訊く 2016.6.18
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/310114


 IWJが島薗先生に日本会議や、復活しつつある国体論について取材した記事がでていたので、自分の認識の確認の意味でも、読ませてもらった。初耳情報として、生長の家が宗教団体として確立されていくときには、特に右派色はなく、戦争に向かう時代の流れのなかで、国家神道的教義を受け入れていった「時期」があったということ。だから、自民党から距離を置くと宣言している、現在の生長の家の方が、より元の姿に近いのだろうということである。
 伊勢神宮がやっている『真姿顕現運動』も初耳であった。


島薗 「『真姿』とは何かというと、これは『国体』のことなんですね。つまり、伊勢神宮は、皇室の祖神であり、天照大神から直接指示を受けた天孫が地上に下り、この日本の国を歴史のはじまりからずっと一貫して支援している、と。そしてこれが世界に例のない優れた日本の伝統である、と。こういう考え方が神宮の『真姿』という言葉に表れているわけですね。こうした考え方にもとづき、天皇を地上につかわせた神をお祀りしている伊勢神宮を国家的な施設に位置づけていく、というのが『真姿顕現運動』です。しかし、現行の日本国憲法は、伊勢神宮に関して、民間の宗教の一つというふうに位置づけています。右派は、憲法を改正して、これを否定したいということなのだと思います」



 要は、江戸末期〜明治維新期に作られた神話である、アマテラスー天皇系を、国体の本体として復活させようという運動である。これは、実際に、立候補もしていない伊勢がサミット開催地として指定さるという、これまでにない不自然な決定があり、その上、G7首脳が伊勢神宮に招き入れられるということもあった。また、2013年の式年遷宮における、神体を移すクライマックスとなる祭事「遷御の儀」に、安倍とともに、麻生ら閣僚8人が臨席したということであるが、これでは、とても私的参拝とは言い難いものである。安倍政権において、政治権力を、伊勢神宮の神体とその神話に、再度つなげようとする動きが、明らかに胎動し、行動としてでてきているといってもいい。しかし、戦後に誕生した、我々と共にあると宣言した「人間−天皇」は、その神話に存在の根拠をおいてはいない。安倍ら閣僚の行動は、現行憲法による秩序に加え、「人間−天皇」を脇に置き、過去の神権的神体という、今は亡き亡霊に寄り添い、呼び出しているようにみえる。



島薗「ですから、現在の安倍政権の動きに対しては、危ういものであるととらえているようです。自民党の候補者に対して、全日本仏教会がだんだん推薦をしなくなっている、ということも聞きますね」


 昭和史の過ちを背負っている仏教系の団体としては、今のところは健全な流れだが、それが保ち切れるかどうかが試されている。



島薗「天皇に敬意を持つ、神道の伝統に愛着と誇りを持つことと、安倍や日本会議が考えている、戦前体制と不可分な、伊勢神宮を中心とした国家的政治性を持った神道は、明らかに違う。そこのところをよく気をつけて、見ていただくとよいのではないかと思います」


 これについては、警告してもしすぎることはない。本年4月に逝去された、島薗先生のたぶん師匠筋にあたる、安丸良夫の『神々の明治維新』(1979年 岩波新書)を読むと、この辺りの歴史的事実が、あからさまに指摘されており、目から鱗がおちる。



【関連過去記事紹介】
「日の丸」象徴をレイシズム尊皇攘夷的興奮から救出できるか?
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/2013520
「水戸学の中では、「会沢正志斎」が、尊王攘夷思想形成に重要な役割を担っている。やおろずの神の中のアマテラスを、「天祖」として位置づけ、神道一神教化してゆく。小島毅の『靖国史観』ちくま新書刊 に経緯は詳しい。複数の学者が、この「天祖」は、彼の造語といっていいといっているので、そうなのだろう」


 アマテラスを「天祖」として最上位に持ってきてみたのは「会沢正志斎」という江戸末期の一人の男である。実際、昭和天皇も、アマテラス−天皇の神権神話は「架空の事」とカミングアウトした。1946年1月1日に、そこで誕生した「人間−天皇」を象徴とした立憲民主主義的な政体が、今の日本の国体になっている。これを積極的に受け入れ発展させずに、歴史否定的、復古的になっていくと、昭和前史と同じ轍に入っていかざるをえないのではないかと危惧を新たにしている。
 そうならないためには、象徴天皇制の立憲民主主義的な政体が、外部の脅威を、どう的確に受け止め、自己の国体をまもりつつ対応していくのか、特に、外交的安全保障的な具体論が、必要となってくると思っている。現実的には、昨年の安保法制への反対運動から生まれた「市民連合」の「市民」が、この部分において、安倍の通した安保法制に代わって、どう責任を持って考えていけるのか、行動していけるのかが問われている。これは、一「市民」にとっては、難しい課題であるが、もし、いやしくも「主権者」を主張するのであれば、思考停止せずに、考えるべき、本来的な課題であろう。