義務教育における選挙教育の重要性・必要性

阿修羅掲示板では、不正選挙についての話題が、この1週間ほど持ちきりであったが、岩上安身がメールマガジンで、選挙不正疑惑について鋭意執筆中とのことで、期待している。彼なら、単に状況証拠のみの邪推と、実際の証言や証拠に基づく推論とを分別しながら、しっかりと現時点で論じきれることを論じてくれると思う。もし、不正の疑惑が、正当なものであるのなら、すべての票を、選挙管理委員会で、衆人監視のもと、時間はかかっても手作業で数えなおせば、事足りることであり、まったく難しいことではない。
 選挙は、現代日本社会での「政(まつり)ごと」に残る、権力を生み出す唯一の「神事」といえる。公正さについては、絶対不可侵でなければならない。1日、2日は結果が遅れても、それほど問題になることはないのだから、時間はかけても、投開票はすべて手作業で、すべての国民に公表可能なようなものにしなくてはならない。投開票の過程に、たとえひとつたりともブラックボックスとなるような、機械、業者、管理者権限などがあってはならない。
 また、日本が、やむをえなくではなく、本気で、民主主義による国家運営を目指すならば、選挙権を獲得していった苦難の歴史とともに、それを行使する義務があることを、小学高学年ぐらいから教え込むべきである。これは、日本国憲法を教え込んでゆく過程の中に位置づけられるだろう。義務教育を終了する中学3年次にでも、実際の選挙にあわせて、学校で模擬投票を行うぐらいの、主権者としての「しつけ」が、本来は必要である。日本社会の根本原理である、日本国憲法は、現代社会の動き方についての公理、教典のようなものであり、本来は義務教育の中で、暗誦させるほど教え込む必要があるのではないか。たぶん、そこまで本気でやろうとしないということは、立憲国家として、日本を形づくろうする教育者、政治家が少ないからか、あるいは、市民革命を経ておらず、実質的に敗戦によって与えられた現行憲法のありがたさが分からないからなのではないかと思う。しかし、その中でも小沢一郎は、議会制民主主義の原理を、憲法の条文にのっとって意識的に導入しようとしてくれている政治家である。これは、旧「国民の生活が第一」の政策要綱をみて、改めてそう思った。
 もし、義務教育の中で、選挙の重要性を教え込んでいかないと、苦難の歴史の結果獲得した選挙権、すなわち、政治の権力を生む本となるものは、いともたやすく、その元の所有者である大資本家、世襲権力者に奪い取られてしまうだろう。つまり、国民に分散された政治権力の再「原始的蓄積過程」だ。たとえ不正選挙はなくとも、現在の日本のように独占的マスコミによる言論空間の占拠が可能であれば、権力の再蓄積も可能となりえる。選挙運動は、力のある組織の動員力と、一色に染まってて独占化したマスコミの言論空間による無党派層の誘導により、ほぼ決してしまっている。
 マルクスは、資本主義発生の歴史研究から、大資本家を生む元の元のところに、ペテンや暴力があったと喝破した。進歩した現代は、そのような主体や動きとは無縁のきれいな社会であると考えるのは、むしろお目出度いぐらいの無防備な態度だと考える。テレビニュースや広告の語る言論、イメージ空間の中には、大新聞社や大企業といった語る主体の犯してきた罪といったものは、決して表面化しない。市民や消費者という、権力を生む選挙権を持ち、資本をうむ貨幣の所持者は、冷徹な資本主義社会の分析者マルクス亡き後、彼らに対してそうとう厳しい監視をしないといけないというのが、より現実的な認識ではなかろうか。
 最近は、投票所のマスコミ調査で、開票作業が始まる前から、当確をどんどんだし、選挙結果全体まで決めつけて報道してしまうということが、横行している。これは年々ひどくなっている。これなども、選挙権保持者にたいする、NHKも含めたマスコミによる主権侵害ではないか。単なる視聴者ではなくて、主権者である画面の向こうの国民に対する無礼さへの自覚が、現在のマスコミは、かなり麻痺してきていると思う。本来、開票過程は、衆人公表のもと、最後の一票まで手作業で数え終えたのちに、その結果を、うやうしくNHKも含めたマスコミは、選挙管理委員会からいただいて、その後で報道するぐらいの、厳粛さが必要である。国家にとっての代表者を決める、神事なのである。そのような過程を経て生まれた権力が、はじめて日本の官僚をコントロールし、外交の責任を任せられることができるとしたほうが、主権者にとって納得感があろう。
 前回の選挙は、マスコミが争点を選択して情報提供し、その中でも、北朝鮮のロケット発射を相手国軍歌とともに大々的に垂れ流して、国防という争点を極端に高め、極め付けに、マスコミが開票前から結果をフライングで公表していった。堕ちに堕ちた民主主義だと思う。これらの選挙にかかわる投開票や、報道プロセスにふんだんにあるブラックボックスは、民主主義の中で個人に拡散していった権力の「原始的再蓄積過程」の入り込める装置として、あまりに、あまり隙だらけである。