玉音放送から、日本国憲法前文へ

ここから、戦後は始まった 御文庫附属室と玉音原盤公表
http://www.asahi.com/articles/ASH7P45HGH7PUTIL02J.html


いわゆる玉音放送は、降伏の受諾、王権の自己制限(上にいる場所から、共にいる場所へ)による自己とその象徴する国の存続、国民への信頼エールと権利、自由の贈与という内容で、マグナ・カルタと類似している。法の支配は意識化されていないが、周辺国を撹乱する行動は捨てるように厳命している。


玉音放送の内容から、人間間にある崇高な働きを自覚し、武力による国際紛争の解決を放棄し、「国際社会で名誉ある地位をしめようと決意した」の、憲法前文までは、武力放棄というひとつの飛躍はあるものの、意外と深刻な齟齬はなく通じていることに注目したい。敗戦前に作成された玉音放送には、欧米人の教唆は入っておらず、敗戦後を世界の中で生き抜こうとした、日本人のスピリットから出てきたものである。以下、両者を、内容を区分けしながら、引用する。




1945年8月15日 昭和天皇による「大東亜戦争終結に関する詔書」(玉音放送)口語訳http://www.asahi.com/articles/ASH7G3JDXH7GUTIL021.html


私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。


1)ポツダム宣言の受諾宣言とその理由 私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。

 そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。

 しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。

 これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。



2)戦没者、戦傷戦災者への哀悼と平和への誓い

 私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。

 考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。



3)日本国を維持することができ、国民を信頼し共にあることができること
 私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。



4)これから、どのように国民があるべきか。 戒めと勧め     
 感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。

 まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。

 あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。




日本国憲法前文


1)国政の権威は、国民に由来する。自由を確保し、政府による戦争行為がないように決意
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。



2)恒久平和の祈念   

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 
 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。



3)日本国民の誓い

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。



以上引用。




 玉音放送から、日本国憲法前文へというつながりを意識しながらその内容をみてみると、敗戦時の昭和天皇から、平成天皇に引き継がれていった思いというのが、にじみ出てくると思う。その要点は、やはり、帝国憲法下での政府が、軽率な感情の高ぶりによって争いごとを繰り返し、日本を破滅の淵に導いた未曽有の歴史的経験から、今後、政府が戦争行為をすることを抑止する強い意志を示すことである。


玉音放送
「感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである」


日本国憲法前文
「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」
「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」



 この前文の部分は、拉致問題を起こし、ミサイルを日本海に発射する北朝鮮にたいして、「平和を愛する諸国民の公正と信義を信頼」などできないといった批判、日本国憲法の非現実的な部分として引かれることが多い。しかし、それによる安全保障を可能にするのが、「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」ことである。また、そういう肯定的な理想はつかみにくいかもしれないが、その自覚というのは、否定形でいえば、玉音放送にある、上記の「最も戒める所」である。こう理解することで、憲法前文の平和への祈念が、押し付けでもなんでもなく、日本人にとって陥りやすい、感情の高ぶりと節度ない争いの繰り返し、世情の混乱と、外道への頽落、世界からの孤立を避けるための、現実的な目標であると落とし込むことができるだろう。
 少なくとも、安倍のような、いたずらに根拠のない周辺国の脅威を煽り立てることや、歴史的な事実をなきもののようにあつかい、周辺国と不協和音をギリギリとたてつづけることは、日本の戦後の国是にとって、やってはいけないことであることは確かである。こうみていくと、ナルシスティックな誇りのために近隣諸国との対立を煽る安倍や百田、石原などが出現した今こそ、過去の日本破滅からのメッセージでもある、玉音放送日本国憲法前文の価値がためされているともいえよう。

 そして、玉音放送には、国が残ったこと、国民を信頼し、自分が国民と共にあることができることへの、素直な安堵感があるが、これは、主権在民象徴天皇制人間宣言と人権天賦につながるとみることができる。


玉音放送
「私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる」


日本国憲法前文
「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、・・ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」



P.S. この日本国憲法をリアルに持続可能にするために

 以上、日本国憲法前文を、玉音放送とのつながりからみることで、その内容を、日本国自身の歴史的発展の賜物としてとらえることができることを示してみた。さらに、これを現実的に発展させるためには、小林節先生のいうような、過去の侵略戦争の過ちを憲法にまで書き込み、繰り返さない誓いの上での、自国防衛のための国防軍を保持できるようにすること、もう一つは、ドイツ基本法の戦う民主主義理念のように、政治家公務員のみではなく、国民にもこの憲法遵守義務を課し、国の形として、たえず民主主義と反戦的な外交安全保障を戦い取っていくということ、この2つが入ると、「もはや戦後ではない」日本国の歴史が始まるだろうと思う。
 その上で、スイス的な徴兵制がはいれば、より、平和主義や人権尊重という点で、実体感がともなうと思う。なんとなれば、国防と持続的な平和というのは、「スイス民間防衛」にみるように、国民の平時の意識のありかたにかかっているからである。
 米国との安全保障条約のありかたは、日本国を現実にどうしていくか、それを徹底的に考えれば、おのずと答えも出てこようと思う。最初から、軍事外交的におんぶにだっこありきでは、「国」というのは、結局、形だけになってしまうんじゃないだろうか。