IWJ『饗宴Ⅳ』参加記


 品川駅東側に隣接する「グランドホール」にてのIWJ主催の年末恒例イベント、饗宴Ⅵに参加した。日刊IWJの報告によれば、約300人ぐらいの人数だったとのことだ。後ろの席が足りなくなって、どんどん列を足していくような盛況だった。

 IWJシンパ的には、この一年は激動の一年であったといえるが、この一年がいったい何であったのか、そして、それがどこに向かいつつあるのか、あるいは、それに抗してどう動いていくべきなのかを多彩な識者たちによって総まとめしてくれたような内容であった。今回、初めて参加したのだが、シンポの進行の仕方が独特で、各シンポジストが10分といった短い限定時間でまず発表し、一回りした後、また3分発表で一回り、さらに、最後に2分で一回りし、総括するというもの。相互の視点を提示させあいながら、論を深めていくというという意味で、非常におもしろい形式だったと思う。全3部で、総勢16名の、私にとっては筋の通った気持ちのよい話を、代わる代わるに聴きとおせるいい機会となった。以下、中途半端にとったメモを記録しながら、コメントもつけていく。


テーマ1 『米国経済覇権の終わり? AIIBの衝撃とTTP「砲艦外交」の正体』

内田聖子
第3のビールに、今年一月からすでに、遺伝子組み換えとうもろこしが入っている。表示の仕方が、かわってきた。すでに日本は、遺伝子組み換え食品の表示において、覆い隠す方に後退している。日本でも「しっかり表示しろ」という運動を起こさなくてはならなくなっている。」
「TPPの条文言語は、英語、スペイン語、フランス語で、日本語はない。つまり、英語の条文がそのまま日本の国に適応されることになる。日本語は「現地語」の扱いとなる」


田中宇
「アサド政権の実質存続が決まったようだ。また、サウジアラビアイラクに大使館をつくるという動きがあるが、これは25年ぶりことである」
岩上「詳しくは、メルマガで」


富岡幸雄
グローバリズムの結果、法人税が半分になってしまった。外国にある会社は、外国に支払っている。法人の利益が減ったというのではなく、課税される所得ベースが4割位になった。税金を取る方も、自分たちのころにくらべれば厳しさがたりず、「去勢されている」ようだ。」


 富岡先生は90歳で、目前で登壇されているのが奇跡のような方である。タックスヘイブンや、強引な節税手法、徴収する方が企業に甘くなっていることなど、元国税実査官らしく、厳しく指摘されていた。結局は、累進課税をしっかりやれば、格差はなくなっていくという、ピケティ―式のわかりやすい常識的な議論につながる。そのための、公的な力、公正な徴収権が、毀損されていっている現実があるということだ。調査してみると、政権与党が企業献金を受け、それに比例して、特定業界への徴税の厳しさを緩和していっているという。つまり、逆からいえば、税金徴収を利権として、政治家が企業にそれを「売っている」ということだ。その代わりに、「稼いだ人に収めてもらう」という税金の基本理念からはずれた消費税に、どんどん依存するようになる。富岡先生は、中曽根内閣の売上税を止めた方ということだ。腹の据わった「公」の権力のありかたを、身体で知っている貴重な方であったと思う。



テーマ2 『違憲の「戦争法」強行可決から「明文改憲」による緊急事態条項導入へ 属国のファシズムを阻み、立憲民主主義を救い出せるか』 



 第二部の緊急事態条項が今年のメインテーマで、そのことが意外なほどの危機感をもって語られていった。緊急事態条項は、甚大災害時に効率的に行政を施行する上で、必要なこともあるのではないかと思っていたが、阪神大震災の被災者でもある永井幸寿氏が詳しく話されていたが、現行法でも、緊急立法措置もあるのだという。さらに、現憲法は、ナチスの悪用した歴史的経緯から、この条項を意識的に排除していたのだと。確かに、考えてみれば、政府の権力を限定した上で、国民と政治家が対話していくという立憲主義の根幹を無にするような条項ともいえる。あえて憲法に書き込む必要はなかろう。


升永英俊
ナチスドイツでは、国会放火事件の後、緊急事態命令がでて、1945年の敗戦まで、実に13年間つづいた。放火事件は「共産党の仕業」として政敵を粛清するために実質的に大きく利用された。約5000人が、司法手続きなく逮捕、予防拘禁され、行方不明者も多い」「自国政府の暴力的な実力行使を前にすれば、言論というものは萎縮する。私もそうなるだろう。そういうことになる可能性があるのだという危機感を、自民党改憲案に感じる必要がある」


 こうみると、「ナチスの手口」の根幹は、狂言テロか、あるいは半ば誘発されたテロによる、国家緊急事態の発令ということであろう。これが発令されれば、立法権が実質的に内閣に付与されることになる。ただし、既に日本では、平成25年12月6日の深夜に可決された「特定秘密保護法」に始まり、極めて限定されたメンバーからなる「国家安全保障会議」あるいは、日本のシビリアンコントロールを実質的に受けない「日米同盟調整メカニズム」によって運営される可能性が高い、本年9月19日未明に可決された「安全保障関連法案」などが、すでに出来上がっている。この2年間で、国会で内閣の決定する事項について、特に、外交安全保障や危機管理に関することについては、検証したり議論する力が、削がれてきた。今年は、安保法制を審議する国会で、それが明確に見せつけられた一年になってしまったと思う。
 
 このことについて、青井未帆先生は、非常にクリアに言語化してくれる。つまり、「日本の政治は日本の中で決められているのか?」「安保法制の国会審議でみられたように、自国の実力組織をコントロールするという意識が、日本の政治家に非常に薄い。政治権力は、憲法の外にあると考える必要があるのではないか」と言う。そして、そのような「実力組織は何を守っているのか?」「日本人がコントロールできるのか?」という疑問となっていく。特に、日米の軍-軍関係が主体となって決めていくであろう日米同盟調整メカニズムの存在は、「日本の政治が、つまり、シビリアンコントロールが限定され、国外に実質的な権力の所在がある」という明言にいきつく。虚心坦懐に、この一年の政治をみていけば、そういう結論になるのだろうが、これを受け入れるのは、容易ではない。しかし、それがつきつけられた一年でもあったと思う。

 結局、2012年の野田内閣による尖閣諸島国有化と、それに反応した中国国内での反日デモと、ショッピングモールや日系企業の「焼き討ち」ともいえる「破壊行動」が、日本の今にとっての「国会放火事件」に類似する機能をもう持ってしまっていて、その安全保障環境の変化から、日本人が「米国に守ってほしい」という安心感をより得るために、米国が要求するTPP交渉に譲歩を重ねに重ねて、経済主権を献上し、さらに、日米同盟を深化させるという安保法制によって、防衛や外交の主権を失ってしまったといえるのではないかと思う。
  


テーマ3 『「戦争」の過去・現在・未来 安倍政権の目指す「戦争遂行国家」その帰結は!?』



 上記の問題認識は、第3部のテーマにもつながる。私は、以前より、尖閣問題が、この一連の追いつめられてきた状況の鍵であると思っていて、最終的には、領有権を棚上げに戻さないかぎり、このトラップからは日本は抜け出すことができないだろうというのが持論でもあったが、これとまったく同じ見解を、孫崎先生もされていたので心強かった。今の今になって、「尖閣棚上げ論」と公言する識者は、なかなか少ないが、そのあからさまな同志をみつけた気分であった。つまりは、これができなければ、日本は覇権衰退しつつある米国の戦略の一部をになう「駒」として、今後も、扱われ続けることになろうと思う。テーマ1で話題にされていた、英語の第2公用語化も、それほど非現実的な話ではないと思う。

 日本のなんとなくずるずる続いている「国家緊急事態」、つまり今年、お題目のように言われ続けた「安全保障環境の変化」、「国民の生命、財産を守るため」、「米艦に保護されたお母さん、子どもを守るため」という状況を、明確に作り出したのは、北朝鮮の暴発というよりも、尖閣諸島問題である。その主体は、ナチスでも安倍でもなく、米国の戦略である。孫崎先生は、台湾が中国側に吸収されていくことを米国は見越しながら、地政学的に、日本に対しては「中国と紛争でもやっとけ」という意向を持っており、それにまんまと、民主党政権がのっかったのだと表現していた。これは、今も、「尖閣諸島は我が国の領土だ」という国威発揚的情緒と引き換えに、多くの日本人が乗っかっているし、それが、安倍政権を支えている「岩盤規制」になっている。

 
 他に、志葉玲氏のイラクでの取材や実体験からくる認識も、私のものに非常に近かった。つまり、すでに、日本がイラク戦争に率先して参加してきた2003年から、イラク人は日本に対して、非常に憤っているのだ。「日本は、なぜアメリカのやりかたについていくのか」ということだ。ファルージャ攻撃の実体を語られれば、それを日本が支援していたということをイラク人が知っているわけであれば、そう思われることも仕方はないと思う。その10年に渡る怒りが、今年2月のエジプトで2億ドル発言で、トリガーがひかれたということだという。その安倍は、この8月末の安保法制国会でも、山本太郎の質疑に対して、「イラク戦争は正しかった」といっている。次の「国会放火事件」にあたるような過激派のテロも、このような安倍の態度から誘発されるかもしれない。「テロ」の問題は、決してイスラム教が悪いわけではないと私は、思っている。


 孫崎さんの話では、早稲田でシンポジウムをやって1500人集まって、会場から溢れるぐらいですごかったが、学生が来ないのだと。それは、京都大学でやっても同じだという。今年のIWJ饗宴参加者も、若い熱気に溢れているとはいえず、40前半の私なんかは、若い方の部類であった。シールズ奥田君もきてはいたが、IWJ記者、原君と同様、若さは目立っていたようにみえた。本年の9.19のカマクラ採決で、政治的に何か一線を越えた世界に日本が入ってしまった実態があるのだろう。抵抗運動が諦めとともにそこで終わる人と、さらに形を変えながらでも続く人の差がでてきている。若者は、続くだろうか?熱が冷めて、今度はスターウォーズに夢中になり、属国の企業戦士、あるいは、兵士になっていくだろうか?

 グランドホールの3階に上がるエスカレーター横に掲げてあった『「国民」非常事態宣言!露になった「ナチスの手口」国家緊急権を阻止せよ!』の立て看板も、内容については会場に入ってしっかり識者の話をきくとよくわかってくるが、通りすがりの膨大な人たちにとっては「なに気張ってるの」と映るかもしれない。私も入場時にはそう思ってしまった。安保闘争が終わった後の、大学に残る立て看板のようにだ。「アベ政治は許さない」を続ける人と、そうでない人での生活のリアリティーがまったく別なものに分岐していっているのではないかと思う。これは、丁度、福島原発事故後の被曝の現実を追ったイアン・トーマス・アッシュのドキュメンタリー『A2-B-C』を、3名の入場者でポレポレ中野で見た後に感じた感触と似ている。チェルノブイリと同じレベルの健康被害が現実に起きる確率が高い状況が、隠蔽され日常化し、学校でも公園でも高汚染スポットが放置されてる。これと丁度同じように、日本人の基本的人権国民主権、つまり立法自主権といったものが、恣意的で未熟な外交防衛関係によって脅かされ、制限される可能性が高いにもかかわらず、その危険性が隠蔽され、当然のように日常化されていく。9.19以降も危機感をそれぞれのやり方であっても持ち続けるものと、強行されて以降は押し黙ってついて行くものとの、リアリティーの差だ。原発事故の健康被害でもそうだが、「直ちに健康被害」が起きるわけではなく、国会内で騒動は起きなくなったが、「直ちに言論弾圧、思想犯逮捕や戦争」が起こる(一部、限局的に起きているが)わけではないが、長期的な視点でみた危機感を持てるかどうかだと思う。これは、IWJなどのメディアが作り警告するリアリティーと、マスコミが作るリアリティーの差にもなる。9.19以降、これが広がっているのだろうと思う。岩上さんと、孫崎さんが、「マスコミはもう期待できない」と、断言した調子で言っていたのが、印象的であった。これは、2年前よりも、強い断言となってきているように思う。そして、テーマ2で弁護士の水上貴央氏が言っていた、「まずは、民主主義ができる、日本で市民革命が起きると思えばいいんです。起きます」というポジティブ思考にも、ちょっとだが、勇気づけられた。現在の立憲政治が、半ば崩壊した状況にたいして、国民を「弁護」し、希望を持たせてくれるような発言であった。




【参考記事】
12月20日 日刊IWJより
■“王様は裸だと君は指摘する(できる)だろうか?” 「ジャーナリストとは、職業の名ではなく、生き方の呼び名」
岩上さんの講義録が収録された『「今を伝える」ということ」』 (成文堂)12月20日販売

 岩上さんは第4部のジャーナリズムの使命と未来に登場、「『王様は裸だ』と君は指摘する(できる)だろうか」と題し、記者クラブなど、大企業や官庁と癒着でつながる日本のマスメディアのあり方を批判しながら、これからの「ジャーナリズム」の在り方を提示していきます。私が惹かれたのは、岩上さんが、コミュニケーションを例にこの問題を説明する部分です。考えてみれば、私たち人間が言語を介して他者と関わろうとするとき、情報の流れは双方向になるのが自然ですね。例えば友人でも家族でも、誰か一人がずーっと喋っていて、片方は黙ったまま何も言わない、頷くだけ、そんな関係性があったとしたら、極端な場合、ちょっと大丈夫かな・・となるのではないでしょうか。
 でも、大手のメディアと個人(読者、視聴者)の関係こそ、実はまさにそれなのだと岩上さんは指摘します。メディアから流れてくる情報を、個人が一方的に受け取る。そこに、個人から発信される矢印はありません。完全に一方向のコミュニケーションです。では、報道における双方向のコミュニケーションって、どんなものでしょうか。岩上さんはその答えとして、ネットメディアを通じた「ジャーナリズム」の在り方を挙げるのですが・・・。岩上さんが話す、「万民ジャーナリズム」とは?


以下sarabandeコメント
 戦争の問題、つまり、開戦に至る外交上の問題、開戦後の戦場での問題も、さらには、平時の政治上の問題も、結局は、このコミニケーションの双方向性の確保と、その上での統治権力の構築をどう正当に、現実的に行うことができるかに帰すると思う。とくに、戦争の実態を詳しく知らない安倍内閣以降(これは饗宴Ⅵシンポの中でも繰り返し実例を挙げて語られた)、これができないで、一方的となってきた。
 国民に主権を置く立憲民主主義には、これのそれなりのやり方があるし、それを大前提としてすべての国民が尊重しないと、途端に機能はしなくなり、立憲民主主義を壊す政権を生んでも知らないでいるようになる。



【参考過去記事】
2013-10-26 『日本は、今、ハニートラップならぬ、尖閣トラップに嵌まっている』
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20131026

2014-06-13 『日本国憲法の精神に立ち還るために、尖閣再棚上げを要する』
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140613

2014-05-21 『A2-B-C』へのエール
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140521