プチ断食レポート

プチ断食1回目 

 1月半ばの朝、ぎりぎりで職場に向かう途上、朝食をいつも買うパン屋が、「まことに勝手ながら、しばらくお休みさせていただきます」とあり、やむなく朝食抜きとした。数か月前より、なんとなく味覚に違和感があり、食欲も、食べ始めればあるのだが、食べなければ意外とそれですみそうな、半ば減退した感じになっていたことや、読みかけの導引の本に、10日に1日の断食が、体によいと書いてあるのを最近読んだこと、それから、老化予防のサーチュイン遺伝子というのが、空腹感をしっかり感じることで活性化されることなど、そんな諸々の思いが駆けめぐり、思い切って昼も抜いて、夕食のみとしてみた。
 食を抜こうという気持ちを保とうとしていると、立ち寄ったコンビニで、から揚げその他の食品が、客に向かって「俺も俺も」と自己主張をしながら、所せましとならんでいる光景が、これまでにない、新鮮な違和感をもって見えてきた。俗から離れた所、商品社会から離れた所、そういう場所に、俺は一時的にでも立っているんだぞという、自覚である。「異邦人」のような、不安な違和感ではなく、もう少し新鮮な、肯定的な、違和感であった。それから、食をいただくありがたさが、確かに感じられるようになる。家畜のように、毎日毎日、決まった時間に、機械的に食事をするということだと、食事が、ほかの生き物の生命を奪って、それをいただいているという実感がうすれ、単なる栄養補給という面が、意識の中で大きくなってくる。食事を抜くことで、あらためて、「食」を見つめる視点もリフレッシュされる。また、プチ断食前の食事を真から欲しないような味覚の曇りが、晴れるようになってくる手がかりが得られる。数か月前は、亜鉛が足りないのかとおもって、サプリメントを飲んでみたりしたのだが、むしろ、プチ断食をすることで、味覚も回復する部分があるようである。
 最後に、これがむしろ重要と思うが、なんらかの精神安定効果が確かにある。イスラムラマダンをはじめ、キリスト教、仏教各派でも、断食や、食への戒を敷いているのが、うなずけるものであった。たぶん、宗教的にいうと、「悪霊」や「魔」を退ける効能があると感じる。仏教では「餓鬼」と言葉もあるが、断食は、それを意志をもって、思考ではなく身体をもって退ける象徴的な行為であり、嘘やごまかしが入り込む余地がない。断食中の心ありかたに、それが反映してくる。妙な邪念が、自然に寄り付かなくなるという感じ。
 釈尊は、苦行を否定したところで見性を得ていることから、仏教では基本的に激しい断食行はないが、日常的に粗食を徹底している。ただ、釈尊の悟りの前の、5年間だったか、その程度の期間の苦行の段階で、相当の断食行はやっていたであろうと思われる。イエスや、モーゼも、40日間の断食をしているとされており、宗教的な立場を創出するような段階では、創始者のやむにやまれぬ心的要求から、一定期間の断食行が意味を持っているようにみえる。現在のキリスト教では、メソジストが、創立当初から定期的な断食をしているということであり、カトリックでも、聖日に合わせて一日に一食のプチ断食がある。イスラム教徒のラマダンは、いまでも立派に宗教的な意味をもちつづけている集団断食行だが、日の出から日没までのプチ断食程度のものである。ただし、期間は1か月と長い。
 身から、心や魂への働きかけが重要であり、その習慣、文化を復興すべきだと思っている私にとっては、いい経験だった。



プチ断食2回目

 1週間後、再び夕食のみの小断食をやってみた。やはり、情緒安定作用がある。心身医学で、「断食療法」というのがあるのもうなずける。幼少期より三食きちんと食べること、残さないことを教育されてきた「食べる」という絶対的な行為を、相対化できるようになる。だからこそ、新たに食べることに、新鮮さがでてきて、丁寧にもなる。
 具体的には、一日夕食のみとする。夕食までは、水分、果物や野菜ジュース、及び、プリン一個におさえる。この程度だと、ラマダンとか、カトリックの斎戒レベルのプチ断食であり、大した苦行ではない。さらに夜間を経て、翌日の朝まで食事をたつと、空腹状態で睡眠を経なくてはならないので、もう一つ山がある行になるだろうと思う。そこまでやらないでも、断食の新鮮さは感じられる。
 プチ断食を経験すると、どのくらいの食事量、水分量が必要なのか、経年劣化しつつある身体と対話しながら、新たに再調節するいい機会になる。日々の飲水、摂食を、大胆に必要な分にまで落とし込んでゆくと、そのへんの水道水が、ああうまいと感じる瞬間があるし、夕食のメインディッシュをふろふき大根にしても、うまみ、有難みを十分感じることができるようになる。この味覚の鮮やかさは、泊りがけの禅会に参加しているときの、朝の粥のうまさに似ている。逆に、当たり前のように飽食におぼれていると、こういう味覚の冴えは、失われていくのだろう。「空腹が最高のスパイス」とは、確かにその通りである。金はいらない。
 そう思うと、正月に参詣した臨済宗方広寺派管長(97歳)の書いた色紙が、味わい深いものとなる。「知足」のみ買って飾っているが、あとの2つは、「無事」「百花」であった。仏教的な境地、生活感を端的に言い表している。「知足」を無理にではなく、自然に修習できるようになる中で日常が「無事」となり、そこで周囲を見回してみると、感覚するものが新たになり「百花」とでもいいたくなる。泊りがけの禅会で、30〜40分ぐらい坐禅してへとへとになって僧堂をでたあとに、周囲の自然、庭を見渡すと、音と光が、驚くほど鮮やかにみえることがある。プチ断食も、食に関して、同じような構造で、鮮やかさがよみがえるのだろう。結局それは、生活の意味を、深いところで新たに、豊かにしてくれるような素になるかもしれない。本を読んで「空」だ「無我だ」と考えているだけでは、この感覚は得られないだろう。「行」というもの、それを日常化することの重要性をしめしていると思う。身心にとって、むしろ自然なあり方、意味の回復作業である。