聞く価値のあるラジオニュース番組たち

 この半年ぐらいは、夜はテレビニュースをみなくなってしまった。代わりに、テーブルに一人前の食事をならべながら、ラジオのニュースを聞いている。J-waveのJAM the worldと、TBSラジオのニュース探求ラジオDIGというのを聴いているのだが、そこには、 久米博のやっていたころのニュースステーションと、筑紫哲也のやっていたころのニュース23の雰囲気が、残っている。現在の、ニュース9の大越と、報道ステーションの古館、それから、ニュース23の男性アナウンサーと、ゼンバさん、彼ら、彼女らの声と、顔、話しぶりには、どうしても冷たさと、よそよそしさ、厚顔無恥さが、感じられてしまうようになった。
 「政治とカネ」のキーワードの次は、「決められない政治からの脱却」ということのようだが、何を決めるのか、どのような手続きで決めるのか、それが、無茶苦茶なのに、それを意図的に無視して、野田首相の決断力をたたえようとし、それに反対する、民主党増税反対派を、暗に賊扱いにおとしめる。また、小沢一郎への、週刊文春による無断での妻の私信の公開も、今のタイミングでの公開は、あからさまに政治的影響をねらった増税反対派、つまりは、民主主義や政党政治を守ろうとする勢力への、メディアによる攻撃といってもいい。
 逆に、本日のJAM the worldの中では、自民党が提案した国民会議について、実際は3党の政治家が方向性を決めると合意文書に明文化しているのに、なぜ、そんなものを作るのか、国民へのめくらましにすぎないではないかという、ごくまっとうな話題になった。「国民会議」と聞いて、原発の安全委員会や保安院のような、政治家に都合がいい、御用学者が選任されるに決まっているだろうと私もすぐ思ったが、東京新聞の副編集委員の方もはっきりとそう明言し、無意味さ、ばからしさを述べていた。普通の感覚、常識をもっていれば、こういう判断になる。私は、小沢元代表の方向性が、今の日本には必要だと思っているが、小沢氏の考え云々にはまったくよらずにも、今の政治の進め方は、一から十まで国民を侮蔑するような事の連続、不道徳の極みであることは、明らかである。(不道徳ということばは、JAM the worldの月曜キャスターが使っていた。よく言ってくれたと思う。)その普通のおかしいと思う感覚を、NHKを初めとするメディアが抑圧し、全く逆のメッセージを伝えている。「政治とカネ」の問題の時もそうであった。不動産の登記時期のズレという些末な問題を、何故にそこまで、過大にセンセーショナルに扱うのか、また、それが日本の政治を刷新するにあたって重要な課題のように扱うのか、まったく、タガが外れた報道の連続であった。
 テレビ朝日や、TBSのキャスターの言っていること、判断を疑い、批判するということまではできるかもしれないが、多くの日本人は、NHKのキャスターが言っていることを、真っ向から批判し、そのニュースの重要性の解釈に疑義をはさむことが、なかなかできないのではないかと思う。宗教のない平均的な日本人にとって、テレビメディアや、新聞が、家庭の中の「神棚」のようになってしまっており、そのご託宣に沿って、家庭の共通感覚、話題を作ることが、世間一般からはじかれないという、安心感を生み出していると思う。この問題、結局は日本人が、理性を押し込んででも保とうとしている「空気」や「世間」の問題があり、この風習に、テレビ、新聞メディアが付け入り、普通の感覚では、筋の通らない手順や結論を導き出しているという、日本の権力機構の問題に、行き着いてくる。
 NHKのニュースキャスター、大越を、画面の中で否定する人間がいないのが問題だと思う。実質的に、大越は、言いたい放題であり、言ったこと、特に「政治とカネ」についての過ちについての深い反省もない。小沢議員への謝罪もない。彼のような人間は、徹底的に、否定されるべきだと思う。日本の民主主義にとって、彼のようなキャスターは敵である。
 「人々の創造的な言語コミニケーション活動の発展が必要であり、そのためのさまざまな試みが求められている」崎山正毅が、「資本」という本の最終部で述べているが、ラジオニュースのキャスターや、そこで常識的な疑義をのべる編集委員の声、また、それに反応して、私も言葉をブログというツールで述べてみた。こういう活動が、たとえたいした力はなくても、必要なのだと思う。