「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」へ

 森本学園問題が、メディアを騒がしている。『日本会議の研究』を著した菅野完氏と、日本会議の大阪支部役員でもあり、森本学園の理事長である籠池氏とが、記者会見の場でのやりとりをきっかけに、同志ではないものの、腹を割って話せる関係となり、籠池氏は日本会議のバッチを外すまでの心境の変化をするまでに至った。そして、本日、籠池氏が、自宅に野党4党の責任者を招き入れ、自分の率直な思いを語り、天敵扱いでもあったであろう、共産党までをも含む4人と一緒に、写真に納まることとなった。




 昨日は、籠池氏が、日本外国特派員協会で記者会見を行う予定であったが、なんらかの圧力によってであろう、中止に至り、東京の菅野氏の自宅に身を寄せるという展開になっていた。それをききつけた、日本の記者クラブメディアの連中が、菅野氏の自宅前で、文字通りの「メディアスクラム」を組み、同じ取材活動をするものの、フリーの身である菅野氏を質問攻めにするという事態が発生した。


籠池氏 会見延期の理由は 03/15 16:45
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00352502.html


 FNNが、ノーカットの41分動画を公開していてくれたので、私も一部始終をみることができたのだが、ここでの菅野氏と記者クラブの記者連中のやりとりというのは、自分の頭で考え、足で行動し、倫理観をもって胸を張って生きるものと、無自覚に空気をつくらされ、ストーリーにあった話をみつけようとするだけの、よれば大樹の陰の雑魚連中とのやりとりとして、印象に残るものであった。なにか、歴史的に大事なことが起きていると思わされるワンシーンだったと思う。この印象は私だけのものではなかったはずだ。そして、本日の自宅に野党議員を招き入れる流れに繋がったのではないかと思っている。さらに、23日の国会の場での「証人喚問」に、籠池氏が出席することになった。籠池氏は、朝日の報道を端緒にして世論の状況が一変するや否や、安倍や稲田から「あんな奴知らない」「しつこい」「会ったこともない」と冷酷無惨に切られてしまった。彼はこの2日間の中で、日本会議のバッチをはずすにまで至ったが、幸いにも、一人になるということにはならず、日本会議的とはことなる連帯の中に掬い取られることとなった。だが、この日本会議を否定した上で成り立つ連帯は、単に批判者の連帯という類のものではない、しっかりとした歴史的で、創造的な基礎があるはずのものである。
 森本学園問題では、私のこれまでの「人間-天皇」論から、批判的に論じておく必要があると思っていたので、本日は、教育勅語の論点から繙いて、ツイートしながら思考を紡いでいった。今のタイムリーな時点でブログ記事としておく必要も感じるため、以下、再録しておく。途中、イタリックは、私のメモである。



『「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無知をさらしているだけ』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50764

大本営発表』で話題になった、辻田氏によるまとめ記事だが、簡潔で要を得ており、よくわかった。


【国会ライブラリー】参議院本会議決議本文
第2回国会 昭和23年6月19日 参議院本会議 

教育勅語等の失効確認に関する決議
http://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/ketsugi/002-51.html
「教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する」


教育基本法(平成18年法律第120号)について
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/__icsFiles/afieldfile/2014/12/17/1354049_1_1_1.pdf
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない


これが、今生きている教育の理念的な基本である。現行憲法がその基礎にあることになる


第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


十分に練られた内容である


教育基本法 前文
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである」

「我々は、この理想を実現するため、
・個人の尊厳を重んじ、
・真理と正義を希求し、
・公共の精神を尊び、
・豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、
・伝統を継承し、
新しい文化の創造を目指す教育を推進する」

「ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」



 今現在、教育勅語の替わりになる基本的な文章があるとすれば、この、教育基本法前文が、それに相当するだろう。教育の問題は、どんな社会を目指すかと一体で、国の憲法に直属している。言っていることはいいが、教育勅語のような、皇室神話は入れずに、「個人」の尊厳を、日本の「土人社会」の中に、どう基礎づけるか、それが問題になる


教育基本法 第一条
「教育は、
人格の完成を目指し
平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた
心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」


個人、さらに深くは、人格の形成、完成を目指すとしている。と同時に、「社会の形成者としての必要な資質」を作る。ここに個人と社会の紐帯が表現されているとみれなくもない。そして、どのような社会かといえば、「平和で民主的な国家」、さらに、前文にあるような「民主的で文化的な国家」「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」とある。おそらく、「人間−天皇」としての象徴行為として、今上明仁天皇は、こういう社会的な理念を大事にされてはきたはずである。


対して、教育勅語は、
神話「朕󠄁惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ�噐ヲ樹ツルコト深厚ナリ」
臣民「我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ」
国体「此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」



 語る主体は、徹底的に、「朕」であり、国民という概念よりも「我が臣民」であり、平和文化国家に紐帯された個人の人格の完成という目標はなく、忠孝的な一体感と、その醸し出す情緒が、「我が国体」という名のもとで、追求されていく。特定の天皇神話と歴史(あくまで天皇自身が言明したように架空のもの)にもとづく「我が国体」の伝承、荘厳、発布が、教育の目的であれば、架空の「我が」に属すると主張する勢力による「国体」の私物化とでもいっていい情緒を生じることになる。その政治的対応物として、情緒的に「お国の為に」として、進んて被私物化されていくような臣民とその財産、行為がでてくるわけである。靖国は、さらに、そのために命をも被私物化させる、情緒的な仕組みといえる。

 日本社会における権威の源をどこにおくのか。それが、天皇を元首とした「我が国体」の護持という所におくか、日本の歴史文化を象徴する「人間‐天皇」と共にある「国民による国体」の護持という所におくのか。その辺が、国家神道の旧新の違いということになるだろうか。個人と社会の間で、最終的な目的、アクセントをどこにおくのかというのは、政治行政の目的をどうするかという点で、明文化するにあたっては非常に難しい。戦後は、個人の人格においたが、父性が失墜し、家族や社会の崩壊という危機も生んでいる。

 私は、「人間−天皇」という所で止揚しながら、縦の線で、日本人の社会的なアイデンティティーと歴史的連続性、個性を保持しながらの、横の線では、各人の人権尊重を可能とするような社会への移行が可能ではないかと考えてきた。「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」への移行である。朕が人間-天皇に下り、臣民が国民に上る。臣民が国民に上る、その自覚と意識が伴わなかったら、ある勢力によって、都合よく人間-天皇が朕に格上げされ、国民が臣民に格下げされていくだろうと思う。その裏で、「天皇」の名の元での国体のプライベート化が生じてくる。菅野氏がメディアスクラムに対抗する姿をみて、米国の威を後ろ盾に安倍という人物を通してあらたに出現しはじめた「朕」に拮抗しうるような、「国民」の姿を垣間見た気がするわけだ。日本国憲法も、教育基本法も、「国民の不断の努力」によって、はじめて可能となるし、そう書きつけられている。シールズがこれを強調したが、実際そうだと思う。これが崩れると、臣民に、つまり、誰かに命令されながら徳を収め、利用され搾取されながらも、蛇に睨まれたカエルの如く、何も言えなくなってしまう者に、なっていく。

 「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」への移行。つまり、朕が人間-天皇に下り、臣民が国民に上る、これが、戦後日本の国体の在りかである。新たな「朕」に吸収されないためにも、もっと、「国民」が、この、やや見えにくくなってしまったが確かに存在している国体の在りかを自覚した方がいいと思う。これは、与野党政治家各位も含めてだ。特に、日本会議に属するような極右政治家以外で、象徴天皇制を認める政治家は、与野党かかわらず、この戦後の国体の在りかについてのフォーマットを自覚すべきだと思う。それによって、単なる批判者ではなく、社会の主体的な創造者としての意識と位置を、確保できるだろう。共産党も、象徴天皇を受容するなら、これは、可能である。ある意味、籠池が、共産党政治家も含む、野党政治家と一緒に、立ち上がっている、この姿は、「朕-臣民-国体」から「人間天皇-国民-国体」への移行の萌芽をみる思いがある。さらに、これがしっかりと力を得るためには、外国勢力のみならず、国内勢力からも、この国体の「国防」を考える必要がある。小林節先生のいうごとくに九条の精神を生かして部分改変しながら、自衛隊をこの線で合憲化し、憲法の枠の中で、それ相当の地位を与えていけばいいと思っている。

 米軍が日本に駐留しているという理由の一つに、再び日本が、大日本帝国化して、アジア諸国を侵略して回るのを抑止するための、抑止力としても正当化されているという歴史的経緯がある。つまり「朕-臣民-国体」を復活させようとする限り、米軍は日本にますます駐留する、支配する、その名目を、アジア諸国から得ていることになる。日米同盟は、それとして認めるとしても、日本が瓶のふたのように米国から抑え付けらえ監視されないと、アジアで生きていけないような、ならず者国家ではないのだと、日本国民みずから示していくためにも、日本会議的な「朕-臣民-国体」から、日本国憲法による「人間天皇-国民-国体」への歴史的移行を、「この道しかない」として、歩んでいく必要があろう。


【関連記事】昭和天皇の『新日本建設に関する詔書』‐神権否定と国民への主権禅譲
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20151031

スコセッシ監督による『沈黙』、あるいは『沈黙の声』

 遠藤周作原作-スコセッシ監督による、「沈黙ーサイレンス」、を鑑賞してきた。最後のエンドロールは、自然の音、虫の声、雷鳴、風邪の音であった。エンドロールが終わりきるまで、だれも席を立たなかったが、なんとなく、そんな深い持続するような余韻を残すような映画であった。平日だったので、観客もまばらだったが、全員が席をたたないというのは、珍しい現象であろう。
 この映画が与えた意味はなんであるのか、最後の沈黙のエンドロールを呆然とみていくわけだが、その答えとしては、映画の有料パンフレットに書かれていたスコセッシの一文が一番適切であろうと思う。「ゆっくりと、巧みに、遠藤はロドリゴへの形勢を一変させます。『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話です。つまり、神の愛は彼がしっている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在するということです」
 たぶん、これは、イエスその人を超える「主」というレベルの存在のことを、問題にしているのであろう。小説「沈黙」は、遠藤周作なりの、『ヨブへの答え』なのかもしれない。沈黙が、実は決して沈黙ではないのであると。実際、遠藤自身も、決して、否定的な意味で「沈黙」を強調したかったのではなく、「沈黙の声」という意味をこめて、この題名を受け取ってほしいといっていたようだ。「神は沈黙しているのではなく語っている」と。遠藤がつけた原題は「向日の匂い」であったという。「屈辱的な日々を送っている男が、あるとき自分の家のひなたのなかで腕組みしながら、過ぎ去った自分の人生を考える。そういう時の<ひなたの匂い>があるはず・・言い換えれば<孤独の匂い>」と。編集者がインパクトがないといって、「沈黙」を提案して、変えられたのだとのことである。『ヨブ記』は旧約の主との関係の中での理不尽さと、人の憶測のレベルを、まったく超えた運命の采配というものを書いているが、この『沈黙』は、新約の中で、イエスとの関係の中での同じような理不尽さを書いたものといってもいいのではないか。遠藤作品で私が唯一読んだ『深い河』も、同じような主題であり、より、救いがないかもしれない。『深い河』の読後感として、遠藤周作は、最終的にキリスト教を、屈辱的な宗教として受容しきれなかったのではないか、と私はなんとなく思っている。

 そういう所から一歩さらに進んだ場所に、親鸞歎異抄第二章の言明があるといえる。


「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」


 そういうあきらめの場所からの信と行という世界が、佛教、特に浄土真宗には開かれている。天国に入ることをそもそもの初めから諦めた、「屈辱」を覚悟の上での、佛教的には「苦」を自覚の上での、それでもの信であり行なのである。そこに来て初めて、新約的な「神の国」への希求からの解放と、より余裕のある「隣人愛」的な活動が可能のなるのではないか、と感じている。映画の中では、フェレイラとロドリゴが、南無阿弥陀仏の称名の流れる寺で、再開し問答するという場面がある。私にとっては、誠に象徴的な場面であったのだが、その寺のモデルは、現在も存在している浄土真宗の「西勝寺」であり、歴史上のフェレイラがサインした「キリシタンころび証文」があるという。


「ながさき歴史散歩 小説の舞台を歩く」
http://tabinaga.jp/history/view.php?category=3&hid=270&offset=3


 フェレイラは、強制と脅迫の内に改宗させられたのであろうが、結果としてのその心はいかほどであっただろうか?対して、キリスト教から、浄土真宗への道を、より、自発的に歩んだ神父として、ジャン・エラクルがいる。おそらく、遠藤をも、スコセッシをも超えている道であろうが、そういう道もあることを、『沈黙』とさらには、『深い河』からの大きな道として提示もしておく。


『十字架から芬陀利華へ : 真宗僧侶になった神父の回想』
ジャン・エラクル著 ; 金児慧訳
国際仏教文化協会, 1992.9

トランプ大統領のアクティングアウト

安田菜津紀 ‏@NatsukiYasuda · 1月17日
  イラクの友人との会話。
  「アメリカの大統領、トランプさんになるね」
   「そうだね。でも憎まない。だって僕は本当のムスリムだから」
  と彼は穏やかに答えた。
  「自分たちを誹謗中傷する人間でも、
   決して憎まず受け入れるのがイスラムの教えなんだ」
   なんだか自分が、恥ずかしくなった。


 イラク人からすれば、ブッシュJr.よりもトランプの方がずっとかわいいだろう。なにせ、一方は大層な自由を叫びながら、イラクに濡れ衣を着せ悪の枢軸呼ばわりをし、侵略、略奪、大量虐殺を行った。ジキルとハイドであるが、結果的にブッシュのアメリカがやったことは、そういうことだった。一方は、そんなことはもうしないというが、入国審査を90日でみなおさせてくれ。その間待ってほしいと。自国の安全を図る気持ちもわかるが、トランプのアメリカというか、米国自身が公式に謝罪するのがまず先ではなかろうかと思う。それは、ドイツがやって、欧州に受け入れられたようになのだが。
 私は、前からオバマにもツイートで謝罪をすすめていた。あの2003年の無茶苦茶の原点を忘却して、イスラム過激派だ、テロ対策だいっても、皮相な波風しかたちつづけないような気がしてならない。まず、イラクに謝罪してから、もうしません、で、申し訳ないが、すぐには過激派はなくならないだろうから、自国の安全のため、入国審査みなおさせてください、だろう。国際社会ではなく、一般社会での筋の通し方はそいうものだ。一般社会のように、イラク君と米国君の人権が尊重され、法が遵守されるならば、イラク戦争は、莫大な賠償金が発生する事件であろう。それを可能にするような「国際法」「国際裁判」という公法公罰が無力化しており、その代りに、テロとテロとの戦争いう報復合戦、私刑合戦が演じられるようになってしまった。確かに、2001年の9.11は米国にとって巨大な悲劇であったが、それだからといって、イラク戦争が正当化されてはならない。



2015-08-15 安倍談話よりも、8・31イラク戦後5年オバマ談話を世界は要している
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20150815


【1月31日 今日の赤旗】(本紙ワシントン電)難民の受け入れ停止やイスラム圏7カ国からの入国禁止を命じた大統領令をめぐり、首都ワシントンなど米各地で29日に抗議集会。差別・排外主義的な政治を許さない「米国の姿を示そう」との声が、大きなうねりに


  トランプ騒動をみるにつけ、大層な米国の理想とやらをいう前に、十字軍とかいって、イラク滅茶苦茶にしたの謝罪してほしいし、自国の安全を図るのも、そこからじゃないかなあと思う。もし本気でやるなら、同盟国の日本人としては、相応の付き合いをしていくつもりである。もし、アメリカが謝罪できない、罪を公にみとめられない、そうなると、どうなっていくのか。どこか滑稽なトランプ大統領のアクティングアウト的な政策と一連の騒動というは、その一つのシナリオをみているような気がする。ただ、彼はまだ謝罪をするまでにはいたっていないものの、「イラク戦争は米国にとって、最悪の決断だった」といいきる人間である。そのような人間が米国大統領になったということについては、私はかすかな希望を感じている。

 反TPPの姿勢も含め、彼の現状にたいするアクティングアウト的な政策実行が、どういう化学反応をもたらし、どこに国際社会を転変させていくのか。アメリカが、国民国家を重視する姿勢を対外的に出すということは、日本も同じ姿勢を出していく非常にいいチャンスなわけである。食料自給率や、安全性の法律について、相手を尊重するとともに、こちらも尊重されるような、隷米偽装保守的ではない意志表示をすればいいと思う。もし、本当に米国が、これまでのごとく、他の国を転覆させたり、隷属させたりせずに、異文化を尊重しながらの"Deal"をしてくれるようになる、というのならばだが、私は大歓迎だ。

 しかし、安倍の歴史認識の皮相さから帰結してくる、米国との和解という名の一体化が進むのではないかというシナリオがある。アメリカ・ファーストに、ジャパン・ファーストが、交渉軸として果たして立ちうるか、それとも、アメリカ・ファーストにひたすら隷属することになるのか。つまり、トランプのアクティングアウトに、振り回され操作されてしまうのか、冷静に自国と国際社会や世界がどうあるべきかの原理をもって、他国と連携しながら、前に進めるか。安倍がトランプとの初の首脳会談で「米国のインフラ開発にGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)の投資資金を活用する方向で調整」という一報が入ることからも、先はそんなに明るくはなさそうである。民主党政権が崩れてからの8年で喪失した、戦後日本の国家の独立性の基盤は大きいかもしれない。安倍の歴史認識の起点である、サンフランシスコ講和による日本独立ということの帰結が、実のところは、どうなるのかをみることになりそうである。



【参考記事。俯瞰的に考える基盤を与えてくれると思う】
「リメンバー・パール・ハーバー」と「アメリカ・ファースト」は戦後秩序を破壊する「日米合作」か――安倍総理真珠湾訪問と「戦後レジーム」の行方(神子島健 成城大学非常勤講師 学術博士) http://iwj.co.jp/wj/open/archives/357288


 「すなわち、歴史問題を重視しているようでありながら、むしろ過去のうち現在の自分の立場にとって都合のいい部分のみをつまみ食い的に用いることで、実際のところ歴史の軽視、ないし無視でしかないということである。この歴史への向き合い方、否、向き合わない態度は、首相に限らず、マスメディアと日本社会のマジョリティの態度であると言えよう。そして、それはかつて敵として戦った日米が軍事同盟の「絆」で強くつながっている(対米従属の果てに在日米軍自衛隊が「直属」するまでに至ってしまった)、ということの正当化に結びついている」


「米国も、敗戦国の戦争犯罪人を裁いた戦争法規、主に今日言うところの国際人道法を、戦後の国際秩序の中で、具体的にはベトナム戦争イラク戦争などにおいて、あたかも米国(だけ)は縛らないかのように振舞い続けている、ということである」


真珠湾を日本が攻撃する前、すでにヨーロッパで起きていた戦争に巻き込まれることを嫌う米国内の孤立派(isolationist。米国内では伝統的にかなりの力を持っていた)、のスローガンこそが、「アメリカ・ファースト」、まさにトランプが言っているものと同じであった。(当時の米国内で参戦に反対していた組織が、America First Committee)ところが、そこで真珠湾に対して日本軍による奇襲攻撃を受け、「リメンバー・パール・ハーバー」に変わったのである。同組織は真珠湾への攻撃を受けて解散を決めた。
 この指摘をふまえて、想像力をはたらかせて考えてみよう。「アメリカ・ファースト」から「リメンバー・パール・ハーバー」に変わった米国が主導し、第二次大戦後の国連の体制の基盤を作った。今回安倍総理が「リメンバー・パール・ハーバー」の意味をひっくり返した後に、トランプのアメリカが「アメリカ・ファースト」に戻ろうというのだ。これは何を意味するのか?」

我々は、祭りの「カミ」とどう向き合うのか

新日本風土記スペシャル 神を守り 人が集う〜ユネスコ無形文化遺産 山・鉾・屋台行事
http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/24793/1025096/


ユネスコ無形文化遺産に登録決定 山車が登場する33の祭り】東北〜関東編
http://www.nhk.or.jp/archives/michi/articles/500/1407.html

ユネスコ無形文化遺産に登録決定 山車が登場する33の祭り】北陸〜西日本編
http://www.nhk.or.jp/archives/michi/articles/500/1408.html


 新年1月3日、NHK総合テレビで、日本各地にある「山車(だし)」祭りの特集を、午後7時までやっていた。ああいう祭りの雰囲気の延長に、神道政治連盟や、日本会議があるんだろう。山車の通行で、両者がにらみ合いになると、お互いに「協力を」といい合いながら、最後には、ぶつかり合う。その勇壮さを、「カミ」にみせるのだという。
 あの番組では、「カミ」という言葉が、妙に多用されていた。「日本はカミの国」と言って、森元総理はかなり批判された記憶があるが、そのカミと関係はなくはなかろう。山車のキャラクターは、伊達男もあり、あるいは、巨大な動物像もあり、原始的な心の活動性を象徴しているとは思う。大きいもの、強いもの、畏怖させるものをまつる、素朴なアニミズムの世界だ。しかし、ああいう祭りでは、もちろん、心身の障害者は山車の上には登れないだろうし、参加するためには、しきたりや、それを体現化してた人々の掟みたいなものを受け入れ、心を一つにしていく必要がある。「カミ」に関連するポジティブな集団的な感情を背景に、同時に原始的でネガティブな排除の感情の上に成り立っている。
 そして、そういう世界は、「国家神道」や、先の大戦での日本軍のお祭り騒ぎのような無茶苦茶に、直結するものであろう。戦艦大和も、ゼロ戦も、「山車」みたいなものだし、その「山車」は神風で負けないのだと、戦局を偽っていい方に祭り上げる態度も、「カミ」の威厳を傷つけるような事実を隠蔽、排除しながらしか、集団的な凝集性、祭りを保てないことにもつながる。無邪気に情報をねじまげるような潜在的雰囲気、それがドライブしていく感情論理の圧倒的な優位さを感じさせるので、正直言って神社系の祭りというのは苦手だが、妥協していかないと社会生活を送りにくくなるという現実も、一方である。結局、こういう「祭り」的なものと、どう妥協するのか、それとも別の「カミ」の秩序に入り、原始的な「土人的」な「祭り」的な秩序、力を否定するのか、そういうことが、遠藤周作の「沈黙」でも問われていることもである。つきつめて考え感じていれば、遠藤の「沈黙」「サイレンス」の葛藤世界は、現代でもまったく生きている。政治的には、昔の「アカ狩り」から、今の、「サヨク」への侮蔑まで、踏絵を要求するような雰囲気というのは、あるものである。当時は「転び」といわれたようだが、現代では「転向」という。
 国家神道に吸収されていくようなアニミズム、これは暴走を止める原理を持たず、容易に歴史修正主義的ともなるカミ的な政治秩序にもなっていくが、これに巻き込まれずに生きていくためには、どうすればいいのか。代替的な、何らかの言葉、身体的な技法、あるいは、集い、伝統、祭り、文化、そういうものを、どう見出すことができ、自分の内に養うことができるのか。結局は、そういう問いかけになると思う。それに加え、いかに、地域の「カミ」と「動物神たち」と和解しながら、つきあっていくか。排除ではなく、相補的なものとして、原始心性を、みずからの中にも生かし受容しながら、反知性的にならずに方向づけていくか。そういった課題は、キリスト教でも、佛教でも、あるいは、イスラム教でも、それらが伝播していくなかで、世界各地の「土人」の人々の中で、いろんな試練にあってきた、あるいは、現在進行形で、試練にあっているものと思う。そういう課題を、自覚しながら生きていくのと、「廃仏毀釈」「伴天連追放」、あるいは資本主義のかかえる問題を無視して「赤狩り」しながら生きていくのとで、どちらが人間として生きる価値があるのか。そういう問いかけでもある。


遠藤周作 マーティン・スコセッシ 
『沈黙-サイレンス-』 公式サイト
http://chinmoku.jp/

「人間の権利は教えられない。権利は現実の経験によって獲得される」

ピアジェ「人間の権利は教えられない。権利は現実の経験によって獲得される。そして、その体験された経験の後でのみ、その権利は一つの教訓として同一視される。それゆえ、組織された子供の集団の中で、子供自身による活動によって、人間の公民精神の習得の延長として理解される」

ピアジェの教育学』p261 三和書籍(2005)より


 人権観念の発祥の地、西洋でも、実際の所はこうである。なおさら、形だけでもキリスト教国でもない、佛教も実質普及していない、日本で、「人権は天賦のもので、大事にしなければなりません」と言葉でいっても、その観念に実体はともなわないだろう。初等教育で、人間の権利という観念を、実践的に獲得させていく必要があると思う。教育の一つの目標とすべきだろう。
 立憲主義とか、民主主義というのも、また、同じであろう。それは、歴史的に獲得されたもので、決して天賦のものではない。初等〜中等教育で、ピアジェもいうごとく、学校内自治といったような実習をともなって教えられなければ、平方根微積分の知識が教育されなければ簡単に社会から失われるように、立憲民主主義も消失するだろうと思う。それを支える、ジャーナリズム、知る権利というものも含めてである。これらは、決して天賦のものではないが、そういう方向に発展していく種は、人間精神にはあるということだ。それを、土に埋めて、水と肥料をやらないと、そういう天賦の可能性も育たないし、守旧的な権力者によって、雑草として刈り取られれば、失われてしまうだろう。社会的な価値認識なので、これを国家として育成することは、大変でもあるとは思う。

 現在の、人間-天皇の象徴としての働きと、これらの人間精神に与えられている天賦の可能性の、実習をともなうような教育が両輪となれば、基本的人権の尊重と、立憲民主主義という社会的な仕組みは、はじめて生きてくるかもしれない。これらは、市場競争的な価値とは相反するが、積極的に、基礎的な土台となる価値として初等〜中等教育で、熱心に育まれるといいだろうと思う。市場的価値、つまり、自己や対象を商品化していく価値によった仕組みは、前者の土台の上に、その土台を崩さないようにしながら、築かれるべきだろう。「公」と「私」の領域の区別と、相補。話は飛ぶが、これは、経済学的仮説の失敗を跡づけた『ゾンビ経済学』の結論的な勧告でもある。

神権的神体の亡霊に臨席する首相・閣僚

【IWJ検証レポート】改憲への熱情の底にひそむ「国体復活論」〜安倍政権を思想的に支える日本会議神道政治連盟、そして伊勢神宮の「真姿」とは――宗教学の第一人者・島薗進氏(上智大学教授)に訊く 2016.6.18
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/310114


 IWJが島薗先生に日本会議や、復活しつつある国体論について取材した記事がでていたので、自分の認識の確認の意味でも、読ませてもらった。初耳情報として、生長の家が宗教団体として確立されていくときには、特に右派色はなく、戦争に向かう時代の流れのなかで、国家神道的教義を受け入れていった「時期」があったということ。だから、自民党から距離を置くと宣言している、現在の生長の家の方が、より元の姿に近いのだろうということである。
 伊勢神宮がやっている『真姿顕現運動』も初耳であった。


島薗 「『真姿』とは何かというと、これは『国体』のことなんですね。つまり、伊勢神宮は、皇室の祖神であり、天照大神から直接指示を受けた天孫が地上に下り、この日本の国を歴史のはじまりからずっと一貫して支援している、と。そしてこれが世界に例のない優れた日本の伝統である、と。こういう考え方が神宮の『真姿』という言葉に表れているわけですね。こうした考え方にもとづき、天皇を地上につかわせた神をお祀りしている伊勢神宮を国家的な施設に位置づけていく、というのが『真姿顕現運動』です。しかし、現行の日本国憲法は、伊勢神宮に関して、民間の宗教の一つというふうに位置づけています。右派は、憲法を改正して、これを否定したいということなのだと思います」



 要は、江戸末期〜明治維新期に作られた神話である、アマテラスー天皇系を、国体の本体として復活させようという運動である。これは、実際に、立候補もしていない伊勢がサミット開催地として指定さるという、これまでにない不自然な決定があり、その上、G7首脳が伊勢神宮に招き入れられるということもあった。また、2013年の式年遷宮における、神体を移すクライマックスとなる祭事「遷御の儀」に、安倍とともに、麻生ら閣僚8人が臨席したということであるが、これでは、とても私的参拝とは言い難いものである。安倍政権において、政治権力を、伊勢神宮の神体とその神話に、再度つなげようとする動きが、明らかに胎動し、行動としてでてきているといってもいい。しかし、戦後に誕生した、我々と共にあると宣言した「人間−天皇」は、その神話に存在の根拠をおいてはいない。安倍ら閣僚の行動は、現行憲法による秩序に加え、「人間−天皇」を脇に置き、過去の神権的神体という、今は亡き亡霊に寄り添い、呼び出しているようにみえる。



島薗「ですから、現在の安倍政権の動きに対しては、危ういものであるととらえているようです。自民党の候補者に対して、全日本仏教会がだんだん推薦をしなくなっている、ということも聞きますね」


 昭和史の過ちを背負っている仏教系の団体としては、今のところは健全な流れだが、それが保ち切れるかどうかが試されている。



島薗「天皇に敬意を持つ、神道の伝統に愛着と誇りを持つことと、安倍や日本会議が考えている、戦前体制と不可分な、伊勢神宮を中心とした国家的政治性を持った神道は、明らかに違う。そこのところをよく気をつけて、見ていただくとよいのではないかと思います」


 これについては、警告してもしすぎることはない。本年4月に逝去された、島薗先生のたぶん師匠筋にあたる、安丸良夫の『神々の明治維新』(1979年 岩波新書)を読むと、この辺りの歴史的事実が、あからさまに指摘されており、目から鱗がおちる。



【関連過去記事紹介】
「日の丸」象徴をレイシズム尊皇攘夷的興奮から救出できるか?
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/2013520
「水戸学の中では、「会沢正志斎」が、尊王攘夷思想形成に重要な役割を担っている。やおろずの神の中のアマテラスを、「天祖」として位置づけ、神道一神教化してゆく。小島毅の『靖国史観』ちくま新書刊 に経緯は詳しい。複数の学者が、この「天祖」は、彼の造語といっていいといっているので、そうなのだろう」


 アマテラスを「天祖」として最上位に持ってきてみたのは「会沢正志斎」という江戸末期の一人の男である。実際、昭和天皇も、アマテラス−天皇の神権神話は「架空の事」とカミングアウトした。1946年1月1日に、そこで誕生した「人間−天皇」を象徴とした立憲民主主義的な政体が、今の日本の国体になっている。これを積極的に受け入れ発展させずに、歴史否定的、復古的になっていくと、昭和前史と同じ轍に入っていかざるをえないのではないかと危惧を新たにしている。
 そうならないためには、象徴天皇制の立憲民主主義的な政体が、外部の脅威を、どう的確に受け止め、自己の国体をまもりつつ対応していくのか、特に、外交的安全保障的な具体論が、必要となってくると思っている。現実的には、昨年の安保法制への反対運動から生まれた「市民連合」の「市民」が、この部分において、安倍の通した安保法制に代わって、どう責任を持って考えていけるのか、行動していけるのかが問われている。これは、一「市民」にとっては、難しい課題であるが、もし、いやしくも「主権者」を主張するのであれば、思考停止せずに、考えるべき、本来的な課題であろう。

平成28年、2・26に寄す

加藤典洋氏「日本は陳腐化すると愛国と信仰になる。すこぶる予言的な本である」

中島岳志島薗進『愛国と信仰の構造』http://goo.gl/Z72ilS
紹介文 「国家神道、祖国礼拝、八紘一宇愛国心と信仰心が暴走をはじめ戦前の日本がなだれこんだ全体主義。その種がまかれた明治維新から第二次大戦まではおよそ七五年、戦後七五年が近づく現代日本



 この島薗、中島両先生の問いかける問いに対して、宗教的な道を探っている現代人としては、象徴天皇制=人間-天皇を、いかに死守できるかだろうと思っている。天皇の元首化も、人間天皇の非人間化への道であり、追っては、天皇の名のもとでの、国民の非人間化への道でもある。魑魅魍魎な政治、世界にあっても、我々の人間性を支えてくれている人間-天皇が日本に存在できる世が、長く続いて欲しいものだ。

 戦後の日本の積極的な到達点として、人間-天皇がある。人間-天皇と共に歩む日本人というイメージだ。現憲法の中心に、この象徴天皇制をみたい。そこから、立憲主義的な政体や、人権理念がでてくる。九条は小林節先生のいう形で変更が必要だろうと考えるが、天皇を再元首化したら、日本の歴史、昭和史の否定であろう。


 人間-天皇と、服従ではなく相互尊重の気持ちで、共に歩み、また、その歩みを専守防衛で、自分たちで守ってゆくこと。焼け野原に生じた日本の初心であり、戦後に獲得した日本の歴史的到達点だろう。経済とか三菱とか財閥とか、あるいは、アメリカとか中国とかソ連とか、そういうの以前の赤心だと思う。

 そこから、明治維新時から胎動していた日本における立憲民主主義政治と、さらに、基本的人権の尊重が自然にでてくる。日本の企業、経済活動も、この中で育まれたものである。この文脈で、日の丸を新たに国旗として象徴させ得るのではないか。君が代も再解釈できそうにも思わなくもない。そういう地点からいえば、ヘイトデモで、「日の丸」を振り回すのは、間違っているわけである。日本を取り戻すでもなんでもなく、貶め、喪失してしまっている。日の丸を象徴している立場の今生天皇は、あきらかに、心を痛めておるだろう。



【過去記事紹介】
2015-10-31 昭和天皇の『新日本建設に関する詔書』‐神権否定と国民への主権禅譲
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20151031

2015-06-25 「人間-天皇」と、日本人の人権天賦 国家神道の新約化
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20150625

2014-09-07 「人間天皇」とともに、新しい日本の歴史をつくろう
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140907

2013-05-20 「日の丸」象徴をレイシズム尊皇攘夷的興奮から救出できるか?
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130520