スコセッシ監督による『沈黙』、あるいは『沈黙の声』

 遠藤周作原作-スコセッシ監督による、「沈黙ーサイレンス」、を鑑賞してきた。最後のエンドロールは、自然の音、虫の声、雷鳴、風邪の音であった。エンドロールが終わりきるまで、だれも席を立たなかったが、なんとなく、そんな深い持続するような余韻を残すような映画であった。平日だったので、観客もまばらだったが、全員が席をたたないというのは、珍しい現象であろう。
 この映画が与えた意味はなんであるのか、最後の沈黙のエンドロールを呆然とみていくわけだが、その答えとしては、映画の有料パンフレットに書かれていたスコセッシの一文が一番適切であろうと思う。「ゆっくりと、巧みに、遠藤はロドリゴへの形勢を一変させます。『沈黙』は、次のことを大いなる苦しみと共に学ぶ男の話です。つまり、神の愛は彼がしっている以上に謎に包まれ、神は人が思う以上に多くの道を残し、たとえ沈黙をしている時でも常に存在するということです」
 たぶん、これは、イエスその人を超える「主」というレベルの存在のことを、問題にしているのであろう。小説「沈黙」は、遠藤周作なりの、『ヨブへの答え』なのかもしれない。沈黙が、実は決して沈黙ではないのであると。実際、遠藤自身も、決して、否定的な意味で「沈黙」を強調したかったのではなく、「沈黙の声」という意味をこめて、この題名を受け取ってほしいといっていたようだ。「神は沈黙しているのではなく語っている」と。遠藤がつけた原題は「向日の匂い」であったという。「屈辱的な日々を送っている男が、あるとき自分の家のひなたのなかで腕組みしながら、過ぎ去った自分の人生を考える。そういう時の<ひなたの匂い>があるはず・・言い換えれば<孤独の匂い>」と。編集者がインパクトがないといって、「沈黙」を提案して、変えられたのだとのことである。『ヨブ記』は旧約の主との関係の中での理不尽さと、人の憶測のレベルを、まったく超えた運命の采配というものを書いているが、この『沈黙』は、新約の中で、イエスとの関係の中での同じような理不尽さを書いたものといってもいいのではないか。遠藤作品で私が唯一読んだ『深い河』も、同じような主題であり、より、救いがないかもしれない。『深い河』の読後感として、遠藤周作は、最終的にキリスト教を、屈辱的な宗教として受容しきれなかったのではないか、と私はなんとなく思っている。

 そういう所から一歩さらに進んだ場所に、親鸞歎異抄第二章の言明があるといえる。


「たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう」


 そういうあきらめの場所からの信と行という世界が、佛教、特に浄土真宗には開かれている。天国に入ることをそもそもの初めから諦めた、「屈辱」を覚悟の上での、佛教的には「苦」を自覚の上での、それでもの信であり行なのである。そこに来て初めて、新約的な「神の国」への希求からの解放と、より余裕のある「隣人愛」的な活動が可能のなるのではないか、と感じている。映画の中では、フェレイラとロドリゴが、南無阿弥陀仏の称名の流れる寺で、再開し問答するという場面がある。私にとっては、誠に象徴的な場面であったのだが、その寺のモデルは、現在も存在している浄土真宗の「西勝寺」であり、歴史上のフェレイラがサインした「キリシタンころび証文」があるという。


「ながさき歴史散歩 小説の舞台を歩く」
http://tabinaga.jp/history/view.php?category=3&hid=270&offset=3


 フェレイラは、強制と脅迫の内に改宗させられたのであろうが、結果としてのその心はいかほどであっただろうか?対して、キリスト教から、浄土真宗への道を、より、自発的に歩んだ神父として、ジャン・エラクルがいる。おそらく、遠藤をも、スコセッシをも超えている道であろうが、そういう道もあることを、『沈黙』とさらには、『深い河』からの大きな道として提示もしておく。


『十字架から芬陀利華へ : 真宗僧侶になった神父の回想』
ジャン・エラクル著 ; 金児慧訳
国際仏教文化協会, 1992.9