我々は、祭りの「カミ」とどう向き合うのか

新日本風土記スペシャル 神を守り 人が集う〜ユネスコ無形文化遺産 山・鉾・屋台行事
http://tvtopic.goo.ne.jp/program/nhk/24793/1025096/


ユネスコ無形文化遺産に登録決定 山車が登場する33の祭り】東北〜関東編
http://www.nhk.or.jp/archives/michi/articles/500/1407.html

ユネスコ無形文化遺産に登録決定 山車が登場する33の祭り】北陸〜西日本編
http://www.nhk.or.jp/archives/michi/articles/500/1408.html


 新年1月3日、NHK総合テレビで、日本各地にある「山車(だし)」祭りの特集を、午後7時までやっていた。ああいう祭りの雰囲気の延長に、神道政治連盟や、日本会議があるんだろう。山車の通行で、両者がにらみ合いになると、お互いに「協力を」といい合いながら、最後には、ぶつかり合う。その勇壮さを、「カミ」にみせるのだという。
 あの番組では、「カミ」という言葉が、妙に多用されていた。「日本はカミの国」と言って、森元総理はかなり批判された記憶があるが、そのカミと関係はなくはなかろう。山車のキャラクターは、伊達男もあり、あるいは、巨大な動物像もあり、原始的な心の活動性を象徴しているとは思う。大きいもの、強いもの、畏怖させるものをまつる、素朴なアニミズムの世界だ。しかし、ああいう祭りでは、もちろん、心身の障害者は山車の上には登れないだろうし、参加するためには、しきたりや、それを体現化してた人々の掟みたいなものを受け入れ、心を一つにしていく必要がある。「カミ」に関連するポジティブな集団的な感情を背景に、同時に原始的でネガティブな排除の感情の上に成り立っている。
 そして、そういう世界は、「国家神道」や、先の大戦での日本軍のお祭り騒ぎのような無茶苦茶に、直結するものであろう。戦艦大和も、ゼロ戦も、「山車」みたいなものだし、その「山車」は神風で負けないのだと、戦局を偽っていい方に祭り上げる態度も、「カミ」の威厳を傷つけるような事実を隠蔽、排除しながらしか、集団的な凝集性、祭りを保てないことにもつながる。無邪気に情報をねじまげるような潜在的雰囲気、それがドライブしていく感情論理の圧倒的な優位さを感じさせるので、正直言って神社系の祭りというのは苦手だが、妥協していかないと社会生活を送りにくくなるという現実も、一方である。結局、こういう「祭り」的なものと、どう妥協するのか、それとも別の「カミ」の秩序に入り、原始的な「土人的」な「祭り」的な秩序、力を否定するのか、そういうことが、遠藤周作の「沈黙」でも問われていることもである。つきつめて考え感じていれば、遠藤の「沈黙」「サイレンス」の葛藤世界は、現代でもまったく生きている。政治的には、昔の「アカ狩り」から、今の、「サヨク」への侮蔑まで、踏絵を要求するような雰囲気というのは、あるものである。当時は「転び」といわれたようだが、現代では「転向」という。
 国家神道に吸収されていくようなアニミズム、これは暴走を止める原理を持たず、容易に歴史修正主義的ともなるカミ的な政治秩序にもなっていくが、これに巻き込まれずに生きていくためには、どうすればいいのか。代替的な、何らかの言葉、身体的な技法、あるいは、集い、伝統、祭り、文化、そういうものを、どう見出すことができ、自分の内に養うことができるのか。結局は、そういう問いかけになると思う。それに加え、いかに、地域の「カミ」と「動物神たち」と和解しながら、つきあっていくか。排除ではなく、相補的なものとして、原始心性を、みずからの中にも生かし受容しながら、反知性的にならずに方向づけていくか。そういった課題は、キリスト教でも、佛教でも、あるいは、イスラム教でも、それらが伝播していくなかで、世界各地の「土人」の人々の中で、いろんな試練にあってきた、あるいは、現在進行形で、試練にあっているものと思う。そういう課題を、自覚しながら生きていくのと、「廃仏毀釈」「伴天連追放」、あるいは資本主義のかかえる問題を無視して「赤狩り」しながら生きていくのとで、どちらが人間として生きる価値があるのか。そういう問いかけでもある。


遠藤周作 マーティン・スコセッシ 
『沈黙-サイレンス-』 公式サイト
http://chinmoku.jp/