「人間の権利は教えられない。権利は現実の経験によって獲得される」

ピアジェ「人間の権利は教えられない。権利は現実の経験によって獲得される。そして、その体験された経験の後でのみ、その権利は一つの教訓として同一視される。それゆえ、組織された子供の集団の中で、子供自身による活動によって、人間の公民精神の習得の延長として理解される」

ピアジェの教育学』p261 三和書籍(2005)より


 人権観念の発祥の地、西洋でも、実際の所はこうである。なおさら、形だけでもキリスト教国でもない、佛教も実質普及していない、日本で、「人権は天賦のもので、大事にしなければなりません」と言葉でいっても、その観念に実体はともなわないだろう。初等教育で、人間の権利という観念を、実践的に獲得させていく必要があると思う。教育の一つの目標とすべきだろう。
 立憲主義とか、民主主義というのも、また、同じであろう。それは、歴史的に獲得されたもので、決して天賦のものではない。初等〜中等教育で、ピアジェもいうごとく、学校内自治といったような実習をともなって教えられなければ、平方根微積分の知識が教育されなければ簡単に社会から失われるように、立憲民主主義も消失するだろうと思う。それを支える、ジャーナリズム、知る権利というものも含めてである。これらは、決して天賦のものではないが、そういう方向に発展していく種は、人間精神にはあるということだ。それを、土に埋めて、水と肥料をやらないと、そういう天賦の可能性も育たないし、守旧的な権力者によって、雑草として刈り取られれば、失われてしまうだろう。社会的な価値認識なので、これを国家として育成することは、大変でもあるとは思う。

 現在の、人間-天皇の象徴としての働きと、これらの人間精神に与えられている天賦の可能性の、実習をともなうような教育が両輪となれば、基本的人権の尊重と、立憲民主主義という社会的な仕組みは、はじめて生きてくるかもしれない。これらは、市場競争的な価値とは相反するが、積極的に、基礎的な土台となる価値として初等〜中等教育で、熱心に育まれるといいだろうと思う。市場的価値、つまり、自己や対象を商品化していく価値によった仕組みは、前者の土台の上に、その土台を崩さないようにしながら、築かれるべきだろう。「公」と「私」の領域の区別と、相補。話は飛ぶが、これは、経済学的仮説の失敗を跡づけた『ゾンビ経済学』の結論的な勧告でもある。