「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」へ

 森本学園問題が、メディアを騒がしている。『日本会議の研究』を著した菅野完氏と、日本会議の大阪支部役員でもあり、森本学園の理事長である籠池氏とが、記者会見の場でのやりとりをきっかけに、同志ではないものの、腹を割って話せる関係となり、籠池氏は日本会議のバッチを外すまでの心境の変化をするまでに至った。そして、本日、籠池氏が、自宅に野党4党の責任者を招き入れ、自分の率直な思いを語り、天敵扱いでもあったであろう、共産党までをも含む4人と一緒に、写真に納まることとなった。




 昨日は、籠池氏が、日本外国特派員協会で記者会見を行う予定であったが、なんらかの圧力によってであろう、中止に至り、東京の菅野氏の自宅に身を寄せるという展開になっていた。それをききつけた、日本の記者クラブメディアの連中が、菅野氏の自宅前で、文字通りの「メディアスクラム」を組み、同じ取材活動をするものの、フリーの身である菅野氏を質問攻めにするという事態が発生した。


籠池氏 会見延期の理由は 03/15 16:45
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00352502.html


 FNNが、ノーカットの41分動画を公開していてくれたので、私も一部始終をみることができたのだが、ここでの菅野氏と記者クラブの記者連中のやりとりというのは、自分の頭で考え、足で行動し、倫理観をもって胸を張って生きるものと、無自覚に空気をつくらされ、ストーリーにあった話をみつけようとするだけの、よれば大樹の陰の雑魚連中とのやりとりとして、印象に残るものであった。なにか、歴史的に大事なことが起きていると思わされるワンシーンだったと思う。この印象は私だけのものではなかったはずだ。そして、本日の自宅に野党議員を招き入れる流れに繋がったのではないかと思っている。さらに、23日の国会の場での「証人喚問」に、籠池氏が出席することになった。籠池氏は、朝日の報道を端緒にして世論の状況が一変するや否や、安倍や稲田から「あんな奴知らない」「しつこい」「会ったこともない」と冷酷無惨に切られてしまった。彼はこの2日間の中で、日本会議のバッチをはずすにまで至ったが、幸いにも、一人になるということにはならず、日本会議的とはことなる連帯の中に掬い取られることとなった。だが、この日本会議を否定した上で成り立つ連帯は、単に批判者の連帯という類のものではない、しっかりとした歴史的で、創造的な基礎があるはずのものである。
 森本学園問題では、私のこれまでの「人間-天皇」論から、批判的に論じておく必要があると思っていたので、本日は、教育勅語の論点から繙いて、ツイートしながら思考を紡いでいった。今のタイムリーな時点でブログ記事としておく必要も感じるため、以下、再録しておく。途中、イタリックは、私のメモである。



『「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無知をさらしているだけ』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50764

大本営発表』で話題になった、辻田氏によるまとめ記事だが、簡潔で要を得ており、よくわかった。


【国会ライブラリー】参議院本会議決議本文
第2回国会 昭和23年6月19日 参議院本会議 

教育勅語等の失効確認に関する決議
http://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/ketsugi/002-51.html
「教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する」


教育基本法(平成18年法律第120号)について
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/__icsFiles/afieldfile/2014/12/17/1354049_1_1_1.pdf
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない


これが、今生きている教育の理念的な基本である。現行憲法がその基礎にあることになる


第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


十分に練られた内容である


教育基本法 前文
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである」

「我々は、この理想を実現するため、
・個人の尊厳を重んじ、
・真理と正義を希求し、
・公共の精神を尊び、
・豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、
・伝統を継承し、
新しい文化の創造を目指す教育を推進する」

「ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」



 今現在、教育勅語の替わりになる基本的な文章があるとすれば、この、教育基本法前文が、それに相当するだろう。教育の問題は、どんな社会を目指すかと一体で、国の憲法に直属している。言っていることはいいが、教育勅語のような、皇室神話は入れずに、「個人」の尊厳を、日本の「土人社会」の中に、どう基礎づけるか、それが問題になる


教育基本法 第一条
「教育は、
人格の完成を目指し
平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた
心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」


個人、さらに深くは、人格の形成、完成を目指すとしている。と同時に、「社会の形成者としての必要な資質」を作る。ここに個人と社会の紐帯が表現されているとみれなくもない。そして、どのような社会かといえば、「平和で民主的な国家」、さらに、前文にあるような「民主的で文化的な国家」「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」とある。おそらく、「人間−天皇」としての象徴行為として、今上明仁天皇は、こういう社会的な理念を大事にされてはきたはずである。


対して、教育勅語は、
神話「朕󠄁惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ�噐ヲ樹ツルコト深厚ナリ」
臣民「我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ」
国体「此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」



 語る主体は、徹底的に、「朕」であり、国民という概念よりも「我が臣民」であり、平和文化国家に紐帯された個人の人格の完成という目標はなく、忠孝的な一体感と、その醸し出す情緒が、「我が国体」という名のもとで、追求されていく。特定の天皇神話と歴史(あくまで天皇自身が言明したように架空のもの)にもとづく「我が国体」の伝承、荘厳、発布が、教育の目的であれば、架空の「我が」に属すると主張する勢力による「国体」の私物化とでもいっていい情緒を生じることになる。その政治的対応物として、情緒的に「お国の為に」として、進んて被私物化されていくような臣民とその財産、行為がでてくるわけである。靖国は、さらに、そのために命をも被私物化させる、情緒的な仕組みといえる。

 日本社会における権威の源をどこにおくのか。それが、天皇を元首とした「我が国体」の護持という所におくか、日本の歴史文化を象徴する「人間‐天皇」と共にある「国民による国体」の護持という所におくのか。その辺が、国家神道の旧新の違いということになるだろうか。個人と社会の間で、最終的な目的、アクセントをどこにおくのかというのは、政治行政の目的をどうするかという点で、明文化するにあたっては非常に難しい。戦後は、個人の人格においたが、父性が失墜し、家族や社会の崩壊という危機も生んでいる。

 私は、「人間−天皇」という所で止揚しながら、縦の線で、日本人の社会的なアイデンティティーと歴史的連続性、個性を保持しながらの、横の線では、各人の人権尊重を可能とするような社会への移行が可能ではないかと考えてきた。「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」への移行である。朕が人間-天皇に下り、臣民が国民に上る。臣民が国民に上る、その自覚と意識が伴わなかったら、ある勢力によって、都合よく人間-天皇が朕に格上げされ、国民が臣民に格下げされていくだろうと思う。その裏で、「天皇」の名の元での国体のプライベート化が生じてくる。菅野氏がメディアスクラムに対抗する姿をみて、米国の威を後ろ盾に安倍という人物を通してあらたに出現しはじめた「朕」に拮抗しうるような、「国民」の姿を垣間見た気がするわけだ。日本国憲法も、教育基本法も、「国民の不断の努力」によって、はじめて可能となるし、そう書きつけられている。シールズがこれを強調したが、実際そうだと思う。これが崩れると、臣民に、つまり、誰かに命令されながら徳を収め、利用され搾取されながらも、蛇に睨まれたカエルの如く、何も言えなくなってしまう者に、なっていく。

 「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」への移行。つまり、朕が人間-天皇に下り、臣民が国民に上る、これが、戦後日本の国体の在りかである。新たな「朕」に吸収されないためにも、もっと、「国民」が、この、やや見えにくくなってしまったが確かに存在している国体の在りかを自覚した方がいいと思う。これは、与野党政治家各位も含めてだ。特に、日本会議に属するような極右政治家以外で、象徴天皇制を認める政治家は、与野党かかわらず、この戦後の国体の在りかについてのフォーマットを自覚すべきだと思う。それによって、単なる批判者ではなく、社会の主体的な創造者としての意識と位置を、確保できるだろう。共産党も、象徴天皇を受容するなら、これは、可能である。ある意味、籠池が、共産党政治家も含む、野党政治家と一緒に、立ち上がっている、この姿は、「朕-臣民-国体」から「人間天皇-国民-国体」への移行の萌芽をみる思いがある。さらに、これがしっかりと力を得るためには、外国勢力のみならず、国内勢力からも、この国体の「国防」を考える必要がある。小林節先生のいうごとくに九条の精神を生かして部分改変しながら、自衛隊をこの線で合憲化し、憲法の枠の中で、それ相当の地位を与えていけばいいと思っている。

 米軍が日本に駐留しているという理由の一つに、再び日本が、大日本帝国化して、アジア諸国を侵略して回るのを抑止するための、抑止力としても正当化されているという歴史的経緯がある。つまり「朕-臣民-国体」を復活させようとする限り、米軍は日本にますます駐留する、支配する、その名目を、アジア諸国から得ていることになる。日米同盟は、それとして認めるとしても、日本が瓶のふたのように米国から抑え付けらえ監視されないと、アジアで生きていけないような、ならず者国家ではないのだと、日本国民みずから示していくためにも、日本会議的な「朕-臣民-国体」から、日本国憲法による「人間天皇-国民-国体」への歴史的移行を、「この道しかない」として、歩んでいく必要があろう。


【関連記事】昭和天皇の『新日本建設に関する詔書』‐神権否定と国民への主権禅譲
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20151031