感興のつぶやき 1

 「感興のことば」という経典があって、原文では「ウダーナヴァルガ」、ブッタが感興をおぼえた時、ふと口にした言葉をあつめたものであり、岩波文庫で、中村元訳ででている。私は、別に覚者でもなんでもないが、宗教的な深みに根をはろうとするような性質(たち)なので、こうこう「感興のことば」というものを発したくなったブッダの気持ちもわからなくもない。ツイッターで、そういう言葉をつぶやきたくなる時があるのだが、意味もあろうかと思って、ひろいあげて、たまにブログに記録してみたい。


金子大栄bot 
言葉のリズム感がいい。浄土系宗派だけに開かれた、仏教の真相、ペシミズムがいい。リズム感のあるペシミズムは、ショーペンハウアーも語れないが、共通する響きがある。
「天文、地理、歴史。いろいろな事を知っているが、それがいざという時に役立つかというと、何も役に立たぬ。こういう風にして修養するのである、こういう風にして腹立たぬようにするのである、こういう風にして反省するのである、という風にいろいろの事を知っているが、むかむかとして来た時に、さあ反省、さあ修養――何も役に立たぬ。」


ペシミズムを受け入れることは、生き生きした若い自我の死になるが、それを受け止め、新たに転生させるのが、本願の構造である。そんな支えがないと、ペシミズムを、金子のようにユーモアをもって語ることはできないし、受け入れがたいだろう。それはあるがままの姿も、受け入れがたくなることでもある


クリシュナムルティは、あるがままを、ただ、ただ観察しろと諭した。瞑想の本質でもあるが、それは、嵐の吹き荒れる大海に、装備のない小舟で、俊敏に立ち回ることを要求される。瞑想をするには、本願の大船、大乗が必要になると思う。そこまで迷い込んできた人であれば、意外とそれでなんとかなる。


禅浄一味の世界だが、それは、本来の仏教の在り方でもあったはずである。仏教というのは、四苦八苦を、人間であることをやめないで生き抜く法であると思っているが、そのための行、日常の時間である。