喪の作業ができななくなった宗教団体はどこに行くのか

戦争法案を熱弁する公明党 遠山清彦(公明)7/16 衆院・本会議
https://www.youtube.com/watch?v=jtyn1Ym-pr4

 最初の方は、さもありなんぐらいの調子だが、最後の7分以降の「日本の安全保障に野党も国会議員として責任を持て」という部分で絶叫になり、確かにただ事ではない雰囲気を感じさせる。野党のもっともな批判は、彼の前では「無責任」になり感情的に否定される。演説内容は、あくまでも自衛権の拡張ための法案であると述べ、集団的自衛権の具体的な内容については曖昧にしている。


 7,8年前から、池田大作はもう亡くなっているのではないか、代替わりの混乱を恐れ、発表せずにいたら、そのタイミングを失してしまったのではないかと思っていた。今回の安保法制での学会内の混乱においても、彼の発言がみられないということであれば、私の仮説は、実証されたものとしておきたい。もし生存していたとしても、この場面で意志表示ができない、言葉を発せれないのであれば、宗教団体の会長としての存在を全うすることはできない状態にあるといわざるをえない。会員は、池田の言葉を待っているのではないか。あるいは、もういないと察していながら、執行部に付き合っているのか。


 たまに中華料理屋などに転がっている聖教新聞をみると、「大躍進」「華麗な活躍」「平和の大道」「名誉博士」など歯の浮くような美辞麗句が並ぶとともに、「邪道日顕」など悪魔化してこきおろす影となる内容が入るのが定番である。こういう調子、空気の中では、なかなか、会長の死という喪の作業をすすめていくことも難しくなるだろう。それは、国家神道をひきつぐ日本会議が、敗戦と天皇人間宣言を受け入れられない姿ともかさなるようなものがある。そういった喪の作業のできなさ、ごまかしは、靖国神社にみられるように、人の死を「英霊」として祀って、軽んずることにもつながるものとなる。本来、戦死者がおびただしく出たということは、悲しみ、悼み、そこから、反省すべきことなのに、そういう回路が失われ、逆に美化されてしまう。


 しかし、仏教系の宗教団体において、トップの死去を受け止められない、喪の作業が共同でできない、というのは、ある意味、かなり致命的な欠陥でもないかとは思う。「生死」に決着がついていないから、誤魔化しているともみれるからだ。会員の、ひきのばされた、気の抜けた悲しみには、幹部は、どう対応するのか。説明するのか。
 

 自民党に結局ずるずる引きずられ、題目のような高揚した演説をして誤魔化してしまうというのも、そんな会長の死か、あるいはそれと同等の状態を目前にして、決着のつけられなかった幹部たちのあらわれのような気がする。どこかで、「池田大作」®の権威で学会をまとめるのも、限界を露呈するだろう。実際、今回の安保法制について、創価学会内からも異論を唱える人々が出現しはじめており、デモの中で「ファシズムに抗する」と書かれた学会旗を挙げる姿がみられたり、先日の報道特集でも、公明党のやりかたに不満をもらす会員のインタビューが、匿名でだが、流されていたようである。ただ、不思議と、「池田大作はどこだ?」という声は、彼らからも挙がらない。この問題は、会員にとっても、安保反対の声をあげる以上のタブーなのかもしれない。



【過去記事紹介】リヒャルト・シュトラウスの「Metamorphosen」
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130327
戦中のドイツ国民的作曲家自身による「第三帝国」への哀歌であり葬送曲でもある。日本人作曲家にもこれに匹敵する「大日本帝国への哀歌」であり「葬送曲」ともなるような作品を作ってやってほしい。