本来の神道を探る

1.旧来の神道の在り方


 ちょっとした夏休み、2泊3日で、浜松から、伊那まで国道152号(秋葉街道、信州街道)で北上し、木曽を経て国道19号(中山道)を通って帰還する小旅行を行った。国道152号は、日常的に浜松の街中で利用する道路であるが、ここを延々と、水窪を超えて、静岡、長野の県境を超えて、北上していく。静岡と長野がつながっているという意識は、地図上のシェーマだけで、実感としてはほとんど持てないわけだが、実際に道がつながっていて、何とか来れるものだと実感できた機会となった。東西の境界線、中央構造線に沿って、小川に沿い、山間の小道を走る。長野側のこの道沿いは、戦国時代には、大鹿村南朝側の宗良親王後醍醐天皇の皇子)が地元豪族の庇護を受け潜伏し、以後30余年に渡って信濃宮方(南朝)の本拠地となったり、信玄が西進してきたり、東西の力が拮抗する所だったようだ。それなりの歴史がある。

 静岡長野県境の兵越林道は、すんなり行けるが、大鹿村に入る蛇洞林道は、かなりくねりにくねった峠道であった。30分以上は、ほぼ周囲になにもない、一車線の山道を走り抜ける覚悟がいる。だが、これを越えることで浜松と信濃が、本当に道でつながっていることを実感できる。さらに、分杭峠を越え、高遠を左にまがり、伊那谷に入っていくと、天竜川も可愛らしい川になってしまっていた。浜松での天竜川の心象風景と、この地域のそれとは、大きく異なるはずである。

 近世の故郷のさらに先、中世以前の故郷を実感することがてきたと思う。ここまでみずから足をのばし、走ることで、これまでなかった自分の心象風景か積み重なってくれる。今回の旅での収穫として、神仏習合のポイントまで遡れたことがある。伊那の方は、諏訪大社があるから、その影響圏での根付いている所があるのだろう。意外と当地はジンギスを食べているが、食肉する上での自然への対し方として、鹿頭部を地中に埋め、そこに社を作って祀ったりしていたようである。千鹿頭神社というもので、長野の神社名鑑にはすでにのらず、辰野の地元で生き続けている神社だ。あれは、非常に古式然した社で、周囲の自然、民家とともに、私には、ごく自然に、好意的に受け入れられるような在り方をしていた。2拍手で、手を叩いてきたが、神社で自ら真に手を叩くのは、生まれて初めてであったかもしれない。


千鹿頭神社
http://yatsu-genjin.jp/suwataisya/jinja/tatunotikatou.htm


 また、鎌倉以前の阿弥陀佛を本尊としていた寺に、三宝荒神が鎮護神として祀られるようになり、さらに神鏡を付して神社として発展し、戦勝祈願する場所でもあったりする。また、古い中山道ぞいの神社の脇には、南無阿弥陀佛と彫られた数多くの石碑があったり、薬師如来の賽銭箱があったりする。神仏習合の姿であるが、明治期の神道原理主義運動での神仏分離で、こういう古来近世までの日本人の素朴な心的な姿が、多くの場所で弾圧改変されていってしまった。日本の有史以前からあるような、文字化教義化されない自然的な態度としての、動物的感覚の延長にあるような「神道」の上に、さまざまな、外来渡来も含む文化や歴史的史実が接続され、日本的に生かされていったという方が、本来の日本神道の在り方であったのだろうと思う。

 
 神道、神社、そして、祭りというのを、どう扱うかが、自分の中で、定まっておらず、というか、国家神道日本会議への忌避感、嫌悪感、さらに、身近な祭り集団への溶け込めなさから、ネグレクトしていたが、今回の伊那への遠征で、自分の中に受け入れてゆける通路ができた感じである。日本という風土の意識的な受容でもある。本来の神道を、軍事と国家に染め上げてしまい、その上、メタメタに敗北させたという点で、明治神道は、日本の神道をイメージとして毀損した。しかし、神道自体は、そんな歴史とは別個に、日本の自然と暮らしの中に、息づいており、今も生きているものである。荒ぶり、恵む日本的自然、これには、そこに棲む人間自身の精神も含むが、そういったものへの畏怖や感謝や願いなど、そういうものを、多様な形象や名称のカミとして受け止める社が、神社であろう。


 日本社会や精神的風土の中で、仏教的なものを生かす上では、神仏分離は、かなりのトラウマだったし、いまでもその傷は、すでに忘れ去られながら、その重症度を理解もされずに、開いたまま放置されていると思う。丁度、旧約を持たない新訳は、どこか根がなく、浮いてしまうようなものだ。とにかく、800年はゆうに続いていた、神道と仏教との間の良好な関係性を、土俗的な場所で発見できたのは、まったく期待していなかった今回の旅の収穫であった。これを毀損してしまった明治精神は、日本にとって、重要な歴史的補償機能を欠いた危ういものであろうと思う。



2.神の生きる世界と、仏の在る世界


 基本的に神道は、世間的な勝者になるための、成功するための、うまくいくための世俗的なものだが、仏教は、逆に、生老病死、四苦八苦と、苦しみの点から、宿命や業、限界点の視点から、出世間的に、人間存在を認識の次元から見直したものである。穢れと不潔を忌避した上で、浄明正直(浄く明るく正しく直く)になろうとする神道のみだと、地域人間社会において、いずれ、傲慢と差別、犠牲と無慈悲を生むようになり、人道、あるいは、医療や福祉などというものは生まれないだろう。江戸期までは、地域社会、風土に、神とともに佛がいてこその人間社会であったはずだ。


 また、戦勝祈願し出陣する、というのは、豊作祈願、大漁祈願と、精神的には変わることはない。平家物語の頃から、その延長線上に自然にでてくる。ただし、相手が、植物でも野生動物でもなく、人間である点が、大きく異なる。戦いでの敗者は、食べられた鹿のように祀られることもなく、無惨にも打ち捨てられ、忘れ去られる。勝者による物語だが、仏教では、「祗園精舎の鐘の音」でそこから始まる。勝ちも負けも、リアリズムに徹してに認識できる出世間的な視点がある。「平家物語」の厳しい記述も、神道とは別世界のエートスがある。日本会議の源流となる宗教家に、日本は負けていない、負けた天皇は偽物だというものがあるようだが、それは、国家総動員でやっていた神道は、自身の負け、不浄不明不正不直、を切実に自ら認めたところで、原理的に終わるからであろう。負けた後、みずからが間違った後の物語と、その後の発展を、なかなか神道内部からはでてこない。皇国が敗北し、天皇が「人間宣言」した後の神道というのが、なかなか構想できないということである。先ごろでた安倍の「70年談話」の語りぶりも、米国を軍神にした国家神道のリベンジのようなものを感じさせる。
 ちなみに、私は、国家神道の新約化ということで、構想はした。ただし、これは神道的な無反省の上にこそなりたつ氏神的な自然宗教からは、一歩外に、世界にでた、人権意識や、世界宗教につながるものになる。ここから、どう世界につながるか。こういう日本の道もあるのではないか。


【過去記事紹介】「人間-天皇」と、日本人の人権天賦 国家神道の新約化
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20150625


【参考書】今ほど、この本が読まれるべき時はなかろうと思う。
安丸良夫著『神々の明治維新神仏分離廃仏毀釈』 (1979年 岩波新書
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_good/good0405.html


以下、編集者のお勧めコメント引用


 しかし、以上のことは、ほんの一例にすぎず、本全体としては、明治維新の時に行なわれた「神仏分離」「廃仏毀釈」を通じて、この時代に日本人の精神史に根本的といってよいほどの大転換が生まれたということを主張したもので、論旨のみごとな展開にほとほと感心しながら読みました。

 国家が認定する神(神社)だけが生き残り、民衆が信仰の対象にしていた地域のさまざまな神々が切り捨てられていく政策とその実施状況が克明に述べられ、過剰同調型の社会に合うよう日本人の精神が転換していった有様が活写されています。

 明治維新が日本人の精神史にとってなんだったのかを考える場合には必読のものだと思いますし、特に、以下に引用する一節などは日本の近代史を考える時にいつも頭の中に入れておきたいものです。



   近代社会への転換にさいして、旧い生活様式や意識形態が改められ、民族的な規模でのあらたな生活や意識の様式が成立してゆくのは、どの民族にも見られる普遍史的な事実であり、それは、近代的な国家と社会の成立をその基底部からささえる過程である。だが、日本のばあい、近代的民族国家の形成過程は、人々の生活や意識の様式をとりわけ過剰同調型のものにつくりかえていったように思われる。神仏分離にはじまる近代日本の宗教史は、こうした編成替えの一環であり、そこに今日の私たちにまでつらなる精神史的な問題状況が露呈しているのではなかろうか。


(新書編集部 平田賢一)