立憲国家の防衛論 試論

 安倍が、国民を正当に代議する議員にではなく、より誘導、扇動しやすい国民に向かって、5月15日、午後6時から、地上波をほぼジャックして、「集団的自衛権」の説明を行った。私の基本的立場としては、平和憲法があるからといって、あまりにナーバスに法的解釈で自縛武装して身動きができなくする必要はなく、小沢さんの言うように、国連憲章にのっとって、安保理の裁定が下され、世界全体で危機に対処するまでの、自然な自衛権として、日米安保の枠組みで、限定的な形で運用できるのではないかとは思っている。しかし、靖国参拝を続け、また、尖閣国有化を当然視し、教科書も改訂しようとしているような、周辺危機を煽り続ける安倍には、この問題を正当にあつかう権利はないし、また、アメリカとの集団的自衛権を、限定的な自然権としてではなく、ことさらに、おおっぴらに肯定するような真似は、するべきではないと思っている。
 そんな思いから、ツイートを重ねていったものがたまったので、記録しておく。自然な感情から出てきた非専門的な試論であるが、むしろ、こういう所からの議論が、平和憲法を護持してゆく日本という国の防衛を、現実的にどうしていったらいいのか、考えるための礎になりそうな気がしている。




1.5月17日


wiki自衛権
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E8%A1%9B%E6%A8%A9
国連憲章第51条の自衛権に関する条文がでている。安保法制懇によると、国連憲章日本国憲法ができる数年前にできたものだとのこと。日本も、国連加盟国として、憲法とともに、国連憲章の文面も参考にすべきだろうと思う。


「第五十一条 この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」
この集団的自衛権という用語は、国連憲章で初めて出てきたもだという


wiki引用「自衛権は国家の「固有の権利」と規定される。ただ、国際連合加盟国による集団安全保障体制の下では、その権利の行使は、国際連合安全保障理事会(国連安保理)の措置がとられるまでの時限的な権利とされている」小沢さんは、この原則論を言っている。


wiki引用「集団的自衛権は、国連憲章において初めて明記された概念で[14]、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利」と定義されることもある」
安倍の紙芝居とは、意味合いが異なるような気がする。


安倍は、日本のお母さん、子供、おじいちゃん、おばあちゃんが、米国艦船で保護されているときに、他国から攻撃された場合とだしていたが、これでは、目的としては日本国の自衛権であろう。


本来の、集団的自衛権であれば、日本人が保護された米艦船の、「米国人と米国艦船」を助けるために、それが攻撃された場合に、助太刀をするということになる。米国が攻撃された場合、米国人の財産、生命を守るために、自衛隊が駆けつける、そういう目的のものである。


日米安保を、より相補的に、日本も、なにかあったとき、911のようなことがあったとき、米国を守る、アフガニスタンに行くというのが、集団的自衛権の本来の姿であろう。なんでそれを言わないのか?白々しい紙芝居でごまかすのか?


さらに、米国が「イラクアルカイダ~」と嘘を百回言って真実の危機とし、「大量破壊兵器」を演出して、イラクに対しても自衛戦争の拡張しはじめれば、日本の自衛隊も、国連安保理が紛糾していても行く。それが、集団的自衛権の本来の姿であるし、危険性でもある。なぜ、それを安倍は議論しない?


安倍の出した例を考えれば、反撃すべき正当な理由があるわけだから、「攻撃されれば」、最低限度の自衛的反撃をすればいいだろう。もし、あえて、限局的な集団的自衛権としてとらえたとしても、それは、今でも可能であろうと思う。それを、安保理に事後的に「報告」すればいいのだ。


法制懇は、国連安保理が、拒否権もあるため頼りにならないという前提で、集団的自衛権に訴える必要があるという文脈となっているが、そうなると、イラク戦争の時に、確実に自衛隊は参戦していたことになる。無実のイラクの「おかあさん、子供、おじいちゃん、おばあちゃん」を虐殺していただろう。


平和憲法が、本来の自然権としての集団的も含む「攻撃された場合の」自衛権までも、否定するようなものであってはならないと思う。それこそ、法解釈のための法解釈であり、平和憲法のむしろ原理主義化、毀損につながるだろうと思う。


平和憲法を生かすためには、武力による自衛(個別的、集団的な)を、最小限度にして、即時に安保理に報告し、国際的な調停が有効に機能するような仕組み、むしろ、これを強化する方向に向かうべきが、本筋である。


アメリカとの集団的自衛権体制に、あくまでも限局的ではなく、安保理を超えて本格的に入ることは、嘘の情報によって大義なき自衛戦争、巧妙な侵略といってもいいが、それに日本の自衛隊が組み込まれるということである。それでいいのか、本気で考えないといけないと思う。


パウエルの首席補佐官だった、ウィルカーソンは言う。「こういった誤った情報による戦争は今後も繰り返される。われわれはまったく学んでない。米国は唯一の超大国だからイラク戦争のようなことはやるべきでないが、またやるかと聞かれれば、『絶対にやる』と言える」


これは、新恭メルマガからの引用で、5月8日の報ステでながされたインタビューだということだが、今の、日本の集団的自衛権容認へむけての、アメリカ側からの、「こういうことになるぞ」「今度は一緒にやるぞ、一応、テレビで言っておいたぞ、お前ら、決めといてあとから逃げるなよ」という、念押しのメッセージだと思う。



2.5月18日


東大で、真顔で鼻血肯定論はなかなか出せないかもしれんが、だが、ここを突破できるかどうかは、核兵器を否定する論理を手に入れられるかどうかの分かれ道になる。非核で自衛する日本の安全保障の上でも、むしろ、核廃絶のために、鼻血研究を積極的にやればいい。


安部の集団的自衛権の説明は、自国民の保護にすりかえられており、本来の定義とは異なり、問題だ。本来は、アメリカ人の生命と財産を守るために、日本人の自衛官が命をかけるということだ。


日本が、集団的自衛権を行使するなら、日本の平和憲法に準じるぐらいの憲法を持つ国との間でやるのが、本来のあり方だ。平和憲法と正反対の性格を持つ国、アメリカとの集団的自衛権行使は、本格的にやるのは、無理がある。


だから、アメリカと集団的自衛権をやるなら、米国憲法に、9条と同等な条文をもうけるように、オバマに要求する必要がある。そのくらいの覚悟が、米国民にありますか、と問えばいい。平和外交の格好の機会になるだろう。


アメリカが、「ちょっと憲法9条は勘弁してくれ」というなら、歴史的に証明可能な、パレスチナ問題、イラク戦争、そして、ウクライナで裏でやっていることについて、弁明させ、「もう世界を混乱させ、自分たちが攻撃の対象になるようなことは、今後いたしません」と安保理で確約をとらせればいい。


それで、初めて、日本国憲法と法に則って、任務を遂行すると誓った自衛官全員に、同盟国アメリカがやられているから、全力で守ってこいといえる気持ちになる。


集団的自衛権の問題は、平和憲法をもっていたら、一歩たりともできないという不毛な原則論よりも、同盟国がどのような憲法を持ち、行動を共にすることになる軍と情報機関がどのような素行をしてきたのか、それが、平和憲法の理念を踏みにじるものではないのか、それを問うべきだ。


残念だが、アメリカは、平和憲法に則る日本国の軍隊が、気持ちよく集団的自衛行動に入れる国ではない。暴力団の鉄砲玉みたいにされかねないだろうし、日本とアメリカの関係を、「矛と盾にする」というガイドラインになってゆくというIWJ報道がもあった。同じ集団的自衛権をやるにしても、ドイツとなら、気持ちよくやれると思う。本来、こういうレベルの議論があってもいいんじゃないかと思う。立憲国家の防衛を語るというのは、そういうことではないか。