浜松祭り考

  今まさに、浜松祭りで、街中はにぎわっている。本日の中日新聞静岡版19〜21頁で写真を含め特集を組んでいるが、19頁の練る若衆の写真をみるとよくわかるように、若衆=ヤンキーと、そこからなりあがったボス的ヤン爺、そして、その歴史としきたりに同調する女性、巻き込まれる子供たちの祭典である。
  揶揄するような表現をしたが、いい面も確かにあると思う。20頁記事にでているヤハマの中津川さんは、初子の時に祝う凧をあげてもらった。今年の祭りで自分の子供の念願の凧をあげ、「顔を覚えてもらうと面倒をみてくれるし、怒ってももらえる。人をおもいやれる大人になってほしい」と、子供の成長への願いを話す。この浜松祭りの繰り出す、メインストリームに乗れる否か、ヤンキー的伝統の中に入りこめるかどうか、それが、浜松で気持ち良く生活できるかどうかの試金石になる。生粋の浜松人エリートを知っているが、彼らは不思議とこの風習の中で生息可能なのである。まあ、乳児の頃からやってるからこそだろう。この祭りの集団的体験は、先にブログであげたノイマンの「大衆」ではなく、コミットメントして責任を持ちかかわるという意味での原始的で歴史的、土着的な集団性がある。
  個人的には、この祭りに当事者として巻き込まれたことがなく、旅人目線で眺めているのだが、多分、この年になってそうであれば、なじめんものと思って諦めている。郡上八幡の郡上をどりは、旅行にいったとき、旅人の分際で喜んで混じって踊ったものだが、どうも浜松祭りは近くで毎年やってるが混じる気にはならない。郡上をどりには、歌があり踊りがあるが、浜松祭りは、単調な信号ラッパの音形と、激練と称せられる掛け声と身体のぶつかり合いからなる。より未分化であるが、より誰でも、どんな能力のひとでも、同じ資格で参加できる所がある。なにかを競い合うわけではないし、たいした練習も熟練も技もいらない。阿波踊りも、単調そうだが、なんらかの技術、腰と手の使い方があり、踊りの中に抑制と秩序がある。激練には、それはなく、より一体化してゆき、集団的な高揚感と、外からみたら勇壮さが感じられる。押しくらまんじゅうを、ヤンキー風にしたものだが、ラッパの音も含めると暴走族的なノリになってゆく。
  ただ、暴走族と異なるのは、その未分化な集団的高揚感が、ボス的なヤン爺によって、うまく、コントロールされている。この祭りのあり方は、浜松にある、どんな素上、能力のものでも、一緒に「やらまいか」というノリにつながっているんじゃないかと思っている。このノリに入るなら、学歴出身関係ない。スズキは浜松的企業のひとつだが、永遠の中小企業オヤジを自称する、ヤン爺的ボス鈴木修の下で、こういったノリで仕事をしているのだと思う。社員の出身大学は、旧帝大系のエリートでございといった者は、例外に属する、と思う。彼らはスズキには好き好んでこないだろう。
 二流、三流、あるいは、無流の者が、ヤンキー的ノリと一体感で、東京ではなく、世界を目指して頑張っている街が、浜松といえるかもしれない。これまで長く付き合ってきた街、浜松のよさをみつけようと、あえて、浜松祭りを美談にすればそうなるのかなと、数年前、考察したものだ。


【参考】
浜松祭り2013 鍛治町激練り
http://www.youtube.com/watch?v=4mjhzSZ8v8s
徐々に渦をまくようにして中心部に隊列が集まってゆき、1分40秒から、浜松祭りのテーマ、その後、鍛治町万歳の万歳三唱、3分40秒ぐらいから、ヤンキー風おしくらまんじゅうの「激練り」となる。浜松近郊で育つと、この激練り自体は学校の授業で体験できる。祝祭的な発散とともに、ヤンキー的雰囲気のなかで個が消滅してゆくプロセスで、町の一年の一体感、相互の互助精神が、これで再生産されるのだと思う。山本七平流にいえば、空気と水の洗礼だ。
 だから、浜松祭りは、浜松において、立派な宗教行事になっているのだと思う。浜松という場において、日本社会の基本フォーマットの再生産をしていると思う。浜松祭りが終わるとすぐに、来年の祭りを考えている奴らを、無宗教とはいわせない。




郡上八幡2013・8・15徹夜踊り3日目『春駒』完全版 午前1時台
http://www.youtube.com/watch?v=BxTtMKFR3XU
  古いきれいな街並み、清流の流れる街に憧れ、郡上八幡に旅行に行ったときがあったのだが、たまたまそれがお盆で、この郡上踊りをやっていた。その時まで、こういう祭りがあるとは知らなかったのだが、街頭で盛んにやっていて、踊りも簡単だったので、この『春駒』で輪に加わらせてもらった。集団的な高揚感、音楽と身体性という点では、激練と共通するが、はるかに節度と構造、個人の場が保たれている。昔ながらの日本の盆踊りの洗練された形だろう。この祭りなら、私にも積極的に出たい、一体化したいと思わせるような、空気があった。
  だが、一方で、浜松のような強烈な産業体は、郡上八幡には起こっていない。浜松は、工業の街になる前から、繊維業の街として、工場で多くの人をつかって生産するということに適応できていった場所であった。反面、ブラック企業的な、記録にならない、歴史に残らないような、女工哀史もあったであろうし、今でも労働者問題はあるだろうと思う。私の知る、浜松祭りを生きる生粋の浜松エリートも、このブラックな面には、意外とというか、かなり鈍感である。だから、逆に、この祭りは、一種の「施餓鬼」、もとい、「お布施」になっているのではないか、被使用人の人々にも一体感と生きる喜び、相互扶助の精神、誇りを感じてもらえ、一年間を使用人であるエリートのために、自ら尽くしてもらえるような、そんな機会にもなっているのではないか、そして、長年浜松で何代にもわたって生きてきたエリートは、祭りの構造と役割もわからぬまま、そのエリートなりの生き方、バランス感覚を身に着けているのではないか、そんなところまで考える年になってしまった。象徴的だが、浜松祭りの法被(はっぴ)は、ブルーカラーで統一されており、街の表示以上の個性はない。郡上をどりとは異なり、それぞれが自由に浴衣(ゆかた)や着物を着ることは許されていない。だが、この日には、エリートクラスもブルーカラーを羽織って、場合によっては酒、食をふるまい、一緒に練りに入る。まあ、そんな息苦しくも意地らしい祭りだ。