ドニゼッティ『リタ』 ミニ講演 in 浜松

 浜松にて、ドニゼッティのオペラ、リタを鑑賞する機会を得た。といっても、室内楽的オペラで、ピアノ伴奏と、ソプラノ、テノールバリトンのみ。クラシック界では、「オペレッタ」という分類の作品上演はほとんどきかないが、今回のような全長60分程の、一話もののドラマのような喜歌劇は、もともとの「オペレッタ」とでもいうべき領域に入るのではないだろうか。こういう通常かからないような演目、領域での手作り企画で、浜松ならではの発信だろうと思う。ただし、出演者はプロだから、学芸会的な雰囲気はなく、歌唱の質も、十分高かった。2012年12月の東京アートオペラの試みもそうだったが、真近で歌手の表情、演技、息遣い、身振りをみれるのも、この規模の歌劇上演ならではであろう。

 ドニゼッティは、名前しか知らず曲をきくのは初めてだったが、いい意味で、イタリアオペラのエッセンスを、くどすぎず適度に継承した出来であって好感が持てた。と思って、調べてみると、ドニゼッティの活躍した時代は、19世紀前半で、ベートーベン以後、ブラームス以前の古典派からロマン派にいたる過渡期にあたる。同年代の作曲家として、シューベルトシューマンベルリオーズロッシーニがいて、ヴェルディは半世紀後、プッチーニはさらに後に位置している。だから正確には、ドニゼッティの音楽は、ヴェルディオペラ音楽のむしろ、前段階にあるような位置だ。「くどすぎない」というのは、古典派的な音楽のお行儀をいい意味で保っているという印象だったのだろう。

 劇の内容は傲慢女を押し付け会う元夫と現夫という、極めてシリアスなものだが、コメディタッチで仕上げられており、エンディングも救いが滲む。どこに解決音をもってゆくのか、心配になりながら見ていたが、うまくコミカルにもってゆく。ヴェルディと同世代を生きたドイツ、ワーグナー楽劇では、こうは行かない展開だが、逆に真を突いた展開かもしれない。日常の中に、新たな解決音をもたらし、関係性を新たにしてゆく。現実のドロドロした関係を戯画化し茶化すことで、また、その中から結末をもっていくことでの救いというものもある。個人的にも勉強させていただいたが、休日の午後に気軽に聴くのにはちょうどいいぐらいの演目かもしれない。

 中島実紀、冨田祐貴、加藤大聖、御三名の若手歌手が、とにかく生き生き歌い、演じてくれていた。客席通路を通って、歌舞伎か能のように登場するなど、室内オペラならではの演出もあり、これもごく自然になされる。こういう、上質な音楽劇の形式は、もっと流行ってもいいのではないか。2年前の東京アートオペラもそういった音楽劇だったが、今回はより大衆的であることに、抵抗なく演出構成されている。60分の短いオペラの後で20程の長いアンコールがあり、そこではオペラ歌手による昭和歌謡メドレーと、最後はドニゼッティの乾杯の合唱で締められていた。大野和士は、イタリアオペラの歌は、演歌と共通する精神があるていっていたが、それを、まったく自然に地で日本的にやっている感じであった。イタリア風吉本新喜劇と、歌謡ショウともいえる。アリアは字幕つき、合間のセリフは日本語だからストレスなく頭に入る。伴奏はピアノのみ、植村美有だった。最初は緊張されていたようだったが、劇に入り込むと、極めて安定した演奏をしてくれていた。一時間以上の長丁場で余裕で弾ききるスタミナもたいしたものだろう。予想外に出来がよかったので、いってよかったとは思う。東京(9月12、13日 成城Casa Mia)でもやるとのことである。男女の極めてリアルな力関係に悩んでいる人には、いい喜歌劇であると思う。このポイントは、洋の東西、古今を問わない。


P.S. 歌劇「ブラックジャック」の本チラシがはいっていたが、ブラックジャックをオペラ化するという企画も、浜松が持ち出して、宮川彬良に委託、承諾させたという経緯を知り驚いた。規模は違うものの、今回の「リタ」と似たような経緯だが、音楽の街とやらまいか精神、起業精神の合体だろうか。作者は浜松を離れているとはいえ、確実に、何らかの新しいものの「器」にはなっている。