ノイマン『意識の起源史』からみた現代

 大学時代に、ノイマン『意識の起源史』なる本を、こんなに深い過酷な心についての認識が有り得るのかと思いながら読んでいた時期があった。いつか、2回目、繰り返し通して読む価値があると思いながら、ページを繰っていたが、結局今まで、読み直していなかった。この本では、英雄が龍を倒して、宝物やパートナーとなる女性を得て、立ち上がってゆくという、よくある世界の神話をまとめてゆくことが、縦糸になっているが、その縦糸の周りに、英雄になり損ねる場合や、英雄になって敗退する場合、など、さまざまな露骨で残虐なイメージを持つ神話も、並べられている。しかし、ノイマンは、単に英雄神話の自我確立では終わらず、その最終形態としては、英雄が敵にバラバラにされたあとに、女性神によって再生され変容してゆくという神話である「オシリス」を置いている。ノイマンは西洋的「俺様」化する自我に限界を見ているし、実際限界があるのだが、それも反映したものでもあろう。
 現代は、神話の世界など縁もゆかりもないような、科学技術の時代になっていると表面的には思われがちだが、心や社会が、深い所で動いている原理、あるいはなかなか動かない原理というのは、決して、科学技術の発展とともに、簡単に変わってしまうものではないと思われる。ショーペンハウアーは「意志」と表現し、フロイトは「無意識」と呼び、そしてユングは、より集合的、人類史的なものとして「根源的イメージ」あるいは、「元型」と述べた。人類の心の動き、働くパターンであるともいえる。「元型」は、洋の東西を問わず、文化と時代を超え、世界に伝承されている共通性のある神話があり、それが夢や精神病症状の中にも垣間見られることから、想定されたものである。
 ノイマンの『意識の起源史』は、このユングの開拓した、広大な領域を、非常にわかりやすく体系化してくれた書物である。この体系化、順列化が気にくわない学者もいるようで、くわしく調べるとユング派内でいろいろあるようだが、ノイマンのアプローチには、ユング自身が序文で太鼓判を押しているから、大筋で間違ってはいないと私も思っている。
 ちなみにノイマンは、ユダヤ系ドイツ人であり、wikiによれば、「1934年、ドイツ国内でのユダヤ人迫害の動きによってイギリス委任統治パレスチナへの移住を余儀なくされ、テルアビブで精神療法医として開業した」とある。巻末に付された「大衆人間の形成と再集合化現象」は、表立っては書いてはいないが、ナチズムの分析にもなっている。しかし、ノイマンは、ナチズムを特殊なものとはみておらず、それを生んだメカニズムを、意識-無意識の分裂と再集合化という現代の時代精神の問題として、取り上げている。『意識の起源史』は、大著といっていい部類に入るので、読み通すのは時間もかかるが、この10頁たらずの巻末付録を読んでみるだけでも、ノイマンの到達した地点の物々しさがわかると思う。これは、深層心理学による現代の時代精神についての「黙示録」といってもいいと思う。
 本日も、自民党が、原発事故の警告などなかったかのように、原発推進、さらに輸出まで謳った、原子力協定を取り決めてしまった。自然、生命への障害、あるいは技術的限界という暴力的といってもいい「警告」を無視して、経済、金の名目で、分裂化した意識が、これまでと同じ路線にもどって歩みだす。古代は、マツリゴトが、この自然からの警告を、柔軟に政治に反映させる権能を持っていたはずであり、都知事選における細川、小泉の「意識」は、まさしくそれであった。英雄の活動を補償し、新たにするような、オシリス的意識ともいえよう。しかし、科学技術は、人を自然から解放するとともに、意識の驕りを生み、母なる自然との隔絶、その警告の「鉄面皮」の無視と、それによる「快楽」「強欲」を常態化させ、固着させている。それが、さまざまな悲劇を生み出してゆく時代になっているのだ。地球温暖化問題も、その最たるものであり、かつ、豪雨、竜巻、台風などの極端な事象として、人間に「補償」を暴力的に迫ってくるものでもある。
 以下は、この1週間ほどで、ノイマンに関連したツイートを時系列にそって、並べておく。



1.刀と自我

秀吉が、刀狩りなどやるから、ひきこもりが増えたのだ。武蔵がいうように、刀によって治まるものがある。それは、むしろ、内面的、象徴的な、「治」である。


ノイマンは、自我の確立には、蛇との戦いが必要になると、意識の起源史でのべているが、さすがに丸腰では支配される。蛇は、ヤマタノ大蛇でもあるし、ゴルゴ的女性でもあるし、あるいは、嘘と脅し、暴力で支配搾取しようとしてくる者どもでもある。


ガンジーは、これを丸腰を武器にして、逆にやったが、彼はハンストという刀を使ってはいた。アメリカは、銃社会となり、別の堕落が問題となっている。武器をどう生かすかは、個人的、集合的な神話的問題でもある。




2.「大衆人間の形成と再集合化現象」より引用

ノイマンの、「意識の起源史」は、大学時代にこそこそ読んだのだが、いまひもといてみるに、深刻で本質的な時代精神の認識を開陳している。フロムよりも、より深刻で徹底的な認識かもしれない。現代の世界情勢にぴったりくる。


ノイマン「元型的規範が崩壊すると、個々の元型が人間を掴まえて悪鬼のようにくいつくしてしまう。こうした移行現象の徴候が典型的に現れているの地はアメリカであるが、西洋のほとんど全体も同様である。」


ノイマン「彼らの鉄面皮や狡猾さは是認され称賛されているが、彼らの張ったりの源泉は、せいぜい彼らが彼らをとらえた任意の元型的内容に憑依されていることぐらいである」


ノイマン「憑依された人格のエネルギーは巨大である。というのは、彼は一面的な原始性の中にあり、人間を人間たらしめる分化を何一つなしとげていないからである。」


ノイマン「『野獣』崇拝はなにもドイツだけにかぎったことではなく、一面性・はったり・問題意識のなさ・が賛美されているところ、あるいは人類発達史の複雑な成果がすてられ野蛮な略奪能力に道をゆずったところでは、どこでも、この崇拝が支配している」←今もここ。


ノイマンの処方箋「意識的に無意識の方を向くこと、人間意識が責任をもって集合的無意識の力と対決することは、これからの課題である。」


ノイマン「いかなる外的な世界変化もいかなる社会的変化も、人間の「こころ」の中の魔神や神々や悪魔をしずめることはできないし、これらのものが意識の構築するものをその都度破壊するこのを阻むことはできない。」


ノイマン「もし、これらのものが意識や文化の中に自らの居場所を獲得しないならば、人類に安らぎが与えられることは決してないであろう。しかし、こうした対決への準備は、いつでもそうだが、英雄や個別者によってなされている。」


ノイマン「彼とその変容は、人類がならうべき規範であり、意識が無意識の試験管であるように彼は集団の試験管なのである」
ノイマンの処方箋は、英雄頼みではある。おどろおどろしい言い方になるが、集団が野獣が生み出す「空気」の中で無意識化してゆくプロセスが進んではいる。その構造を、まずは見抜くことだ。


一つ追加しておくと、細川、小泉連合の訴えたあの姿が、野獣的なるものへの英雄の戦う姿であり、語りうる物語性の回復への衝動であった、と思う。




3.元型的組織体の間の抗争と発展

ノイマン「すべての体系組織、そして体系化された特定の内容群と対応するすべての元型は、自らを維持しようとする傾向を持つ。この傾向は、心的には、自我がこの体系に憑依され、その勢力圏に堅く閉じ込められた状態を体験するという形で現れる」


ノイマン「こうした体系から離脱したり、自由な行為へ移行するのが可能となるのは、ただ、自我意識体系が停滞した体系よりも多くのリビドー量を使えるとき、すなわち、自我の意志が停滞した体系・たとえば元型から、自らを解放できるほどに、十分強くなった時だけである」「だけ」か


ノイマンは、この元型の組織的内容群を、東西の神話からあつめて、今の心の中で起きていること、社会の中でおきていることへの理解と自覚を深めようとする。外面的な科学信仰の結果、この領域は、野放しにされていると思っている。「自由」「平等」「人権」を真に獲得することの困難さの説明でもある。


もうひとつノイマン「勝利のうちに同化する自我はしかし長い道程の末に初めてこの克服を成し遂げるのであって、《ただ一度の業によって》ではない。克服された神々を祀ることは勝利者の宗教においてもなお重要な意味を持っている」


ノイマン「こうしてたとえば『オレステイア』において古い母権的な女神たちから父権的な神々への交代は、単なるエリニュスの排斥ではなく、逆に彼女たちを祀ることによって終わるのである。類似の出来事はいたるところに見られる。」
これは、なんとなくわかる気がする。その辺までは来た。


ノイマン「意識の起源史」の巻頭に挙げられたゲーテの詩が厳粛である。

三千年の歴史から
学ぶことのできぬ者は、
無知のまま闇にとどまり、
その日暮らしをするがよい。



4.「非個人的なもの」としての英雄の手にする刀、自然科学と見性、あるいは、父性のありかについて。


父性というのは、自然の掟、限界を見抜くことであったりするのかと気づく。それは、内的自然でもある、心の掟、限界でもある。英雄の龍成敗に目が向きがちだが、それとは別の、徹底した認識に由来するものもある。これは、ナルシズムではない。ペシミズムとも違う。


ノイマンは、英雄の手にする刀を、「非個人的なもの」と表現していた。これが、ものすごく深い。ナルシスティックで、男根器的な、個人のものではないのだ。だから、逆に、そこに公的な権威が生じる。それは、個を超えた生命のもの、あるいは、心のものといえる。そこで、本来の父性が生じる。


父性は、母性よりも、正しい根源がわかりにくいが、母性のみでは、母性は守れない。「非個人的な」認識、あるいは、刀からなる父性があって、初めて、母性が十全に機能するだろう。


「非個人的な」認識で、それだからこそ公的な権威を持ち、自然に対して力を発揮するもの、それは、現代では、まさしく科学、あるいは科学技術である。これが、父性を代替してしまっている側面が一つある。だが、それでも、代替できない、科学の及ばない領域はまだまだ大量にあるといえば、ある。


徹底した限界の理解、それは、放射能にはかなわんこととかもそうだが、それを骨身にしみて、語り、行動に移すこと、これも立派な父性だと思う。明らめと諦めが表裏一体となる所であり、なにか扉が開かれる所でもある。「徹底さ」がないと、そこまでこない。禅の言葉でいえば「見性」でもある。



5.脱原発がドイツにできて日本にできないのはなぜか

ノイマンを、ちょっと読み返してみているが、意識の起源史、最終部分、付録の「大衆人間の形成と最集合化現象」が、一種の、現代への黙示録になっている。脱原発がドイツにできて、なぜ日本にできない、その理由もわかるものだ。ドイツはナチズムから学んだが、日本は靖国から学んでいないからだ。


ノイマン「個人においても無意識からの硬直した分裂や、無意識の補償努力の体系的な無視は、無意識を破壊的にしてしまう。そうなると補償作用は停止し、ユングが意識と自我に対する無意識の破壊傾向と呼んだものが現われて来る。」


ノイマン「この『お前がやりたくないないと言うなら、暴力を使ってでもやらせるぞ』は依然として場合によっては改心をもたらすことができ、それは『刑罰』が罪人を改心させるのと同じである。」
ここで、東日本大震災は、原発マフィアにとっては『暴力』『刑罰』に値したもので、当初はあった。


ノイマン「大衆現象における破壊的な崩壊もまたこうなる可能性を内に秘めているが、それはこの崩壊が意識化され、理解され、摂取され、されに統合されるならばの話である」
原発事故に至った必然性、事故の原因の解析、放射性物質拡散の長期的影響、それらを意識し、理解し、統合できればの話だ。


ノイマン「しかし、この状況を意識化するのに明らかに妨げとなる大きな危険は、再集合化の際に現れて自我を盲目にする幻覚現象にある。大衆状況の毒性作用とはまさにその陶酔的性格にあり、この性格は意識やそれから分離した諸判断中枢がすべて解体したことと関連している」


ノイマン「自我、意識、体系の無意識とのリビドー結合は『快感をもたらす』しかし、崩壊する際にも、すなわち自我意識が退行して沈下する際にも同じことが言える。」


安倍のジェスチャ―を伴った「アンダーコントロール!」は、「再集合化の際に現れて自我を盲目にする幻覚現象」の誘発であり、東京五輪決定は、無意識の補償作用から切り離された大衆にとっての、「陶酔的性格」になっている。そして、それが「大衆状況の毒性作用」となり、原発マフィアが再活性化する


神話レベルまでおりて、どこが解体され、それにともなって、どこに「快感をもたらして」いるのか。原発事故後の、原発推進、輸出攻勢という、日本の大衆状況のおぞましさを、しっかりと見極めるためには、こういう視点が必要になると思う。これは、個人レベルでも起こっていることでもある。



6.天皇の持つに至った「三種の神器」の『意識の起源史』的な解釈と、天皇人間宣言の受け止め方

20年ぶり外に!天皇陛下伊勢神宮に携えた「三種の神器」とは?
http://matome.naver.jp/odai/2139580229952131001
「意識の起源史」からすれば、天皇がこの鏡、勾玉、剣からなる「三種の神器」によって、日本人の「意識」を創りだし、現在も維持しているのだといえる。太陽神、智慧、刀の象徴だ。


英雄としての天皇が、「人間宣言」したということは、逆に、日本人一人一人が、主権を勝ち取るために、神話的に天皇が行ったことを、やり遂げる必要がある。「主権在民」と本当に向き合うことは、そういうことだと思う。マスメディアという大蛇と適宜、智慧と武器を持ち戦わないといけない。楽ではない


消費税8%で、庶民が増税前に買い物に走る絵が流れているが、小沢さんを支持してきたものとすれば、これは記載上のちょっとした「期ずれ」を、さも、贈賄のように報道され、それを見抜けず、庶民が叩きに回った結果だと思う。その数年間の歴史認識すら、できていないのだろうかと思いながら。


マスメディアと、その裏にある米国、この米国がジキルとハイド化していること、それを含めて、見抜いて、自分の限定されているが与えられた主権を行使すること。これは、古代天皇がやったにも等しいような、英雄的行為だと思うのだ。やり抜くには、象徴的神器が、確かにいる。丸腰ではできんことだ。


天皇人間宣言したということは、国民が、天皇宣言とまではいかないが、それに近い、責任、覚悟を持つべきだということでもある。天皇と人臣の間、その場所だ。それで、やっと、日本国が成り立つ。


古代日本が、鏡を神体として重視した心が、ちょっとだけ、わかるようになってきた。あれは、自己や世界を映すreflectするという意味で、高次化する認識の象徴でもあるじ、太陽の光を映す、といういみで、太陽神の神道らしい御神体でもある。


神道は、石や木、山や海そのものを祀るところがあるが、太陽そのものを祀ることはできない。それを、太陽光を映し返す鏡で祀るのだ。また、あれは正円形のデザインで曼陀羅でもある。禅僧なら、あれを仏教以前の円相とみるだろう。


神社の奥、中央に、寺では本尊のある場所に、円鏡がうやうやしく置いてある。なんでこんなものをと、奇妙に思えたのだが、あれは太陽神、天照そのものの象徴なわけで、三種の神器の一つにもなるわけだ。この光が、より人称化されたものが、仏教であり、キリスト教でもあるともいえる。光の元型の現れということだ。


靖国神道は、それを現人神として、直接個人を神体化し、政治的軍事的に、神道を利用するツールにした。平田あつたねは、キリスト教を参照にしているはずだが、ある意味、非常によくできた仕掛けでもある。



7.科学者の精神の由来する神話と、そこからの分裂の結果
 ー市場的精神の下への科学精神の解体 小保方博士のSTAP論文ねつ造問題をもたらしている元型的力動性ー 
 

理研が、ではなく、小保方さんはじめの責任ある著者陣が、早く認めるべきだろう。お前らは、それでも、「個人」か。くそになるか、みそに留まるかの分かれ道だ。

科学研究者の精神は、西洋的個人主義の最も進んだ姿だと思うのだが、それは、神のもたらしている摂理の探求という根からでている。データを捏造することは、目的に反するばかりか、それを冒涜することであり、そんな価値逆転したことはやらない。



精神の集合的根拠、地下茎を失ったアトム化した個人主義は、市場価値という場に解体的再集合化してゆく。その前には、嘘も方便になってゆく。その解体の過程で、小保方と数人の著者は、「快感」を感じていたはずだ。こういうのが、仮面の正体だろう。



小保方さん、若山さんへ提供した細胞が違っていたことも、ミスでかたずけるつもりなのだろうか。もう、弁護士をつけて、科学的な論争というよりも、法廷闘争モードなのだと思われる。バカンティが裏にいるはずだ。

科学的な正し、論文の適正さは別にして、いかにSTAP細胞があると素人レベルの市場参加者、投資家に思わせ続けられるか、関連株式や研究費貸付などを焦げ付かないようにするか、そういう戦略論になっていると思う。この殺意のあるなしに似た法廷闘争路線で、バカンティが粘るのではないか。


ウブな、知識人、思想家は、小保方徹底交戦宣言で、コロッといってしまっている。それが、彼女の魔力でもあり、あえていえば「元型的な」力でもある。


8.市場精神を象徴する元型としての「クモ」
 ネガティブな市場原理主義的精神のあらわす根源的イメージとして、私は、六本木ヒルズエントランスにそびえる、「蜘蛛」を提示したい。あれは、「ママン」と題された作品であり、作者ルイーズ・ブルジョワいわく、卵を抱いている母蜘蛛を象ったもので、「母性」を表現したかったとされている。
 ノイマンの「意識の起源史」を読んだものにとっては、これは、母性の象徴というよりも、その破壊的な影の面である「太母」元型であることがすぐにわかる。これが「意識の起源史」の最も厳しい領域だが、誰もこの辺に踏み込まないであろうから、ノイマン引用し、語ってもらおう。


ノイマン「呑みこむ口というこのシンボルに属しているのが、恐怖を呼び起こす子宮、ゴルゴとメデューサのヌミノースな首、ひげと男根を持つ女性、そして呑みこむ恐ろしい女としてのクモである。−−食いちぎる子宮、すなわち去勢する子宮は、地獄の口として登場し、メデューサの頭髪をなす蛇は、個人主義的に解釈された陰毛ではなく、このウロボロス的な母の子宮がもつ、噛みつき、傷つける、男根的な恐怖要因である。クモは性交の後で男性を呑みこむ女性としてのみならず、網を張って男性をとらえる女性一般のシンボルとしても、これらのシンボル集団に連なる」


付言しておくと、これは少年段階の自我にあらわれる女性性の特徴であり、まあ、女性一般がこうであるといっているわけではない。未熟な男性性をからみとって、餌にしている女性性があるということである。他方から見れば「男性が未熟だから、女性がこうなってしまった」という点で、あくまでも相対的な問題だ。自我を確立した男性の前には、太母は現れ得なくなる。


ノイマン「少年神は太母にとって幸福、光輝および豊饒を意味するが、彼女の方は少年神に対して、つねに不実であり、不幸をもたらす。したがって「気高きイシュタルがギルガメシュの美しさに目をとめた」とき、ギルガメシュがイシュタルの誘惑に対して、早くも次のように答えているのは正当である。」
以下、3ページに及ぶイシュタルに不幸にされた男性陣の話がつづき、最後に「今お前がわたしを愛しても、結局は彼らと同じ目に合わせるに違いない!」
「強靭な男性的自我-意識によってこそ、解体と去勢、破壊と呪縛、殺害と惑乱という太母の性格が次第次第に見抜かれてゆくのである」



メーソン蜘蛛1
http://to-chihiro.blogspot.jp/2010/10/blog-post_23.html
 このサイトをみると、この太母的なクモ像である「ママン」が世界のいたるところに配置されていることがわかるが、驚くことに教会の前、あるいは敷地内にも置かれているのだ。キリスト教的な精神も、この太母に試されているといえるかもしれない。かつ、不用意にも、そのあからさまな挑戦に気づいていないだろう。作者のルイーズ・ブルジョアが、男根の彫刻を抱えている写真ものっているが、これは、元型的にいえば、まったく偶然ではない。むしろ必然であり、予期さえされることである。去勢され男性的精神を失った男根そのものを、太母的な彼女は好み、抱えるわけである。
 このサイトのいっているフリーメーソンとの関係については、すぐには支持できないが、より元型的な、文化を超えた布置をもった、危ない、かつ、やっかな象徴であることは認めたい。



P.S. このような太母元型をあからさまに体現して表現しているルイーズ・ブルジョアという女性は、さぞ、男性ぎらいだったろう、若いころ遊び暮らして、生涯独身だったんじゃないかと思って、ちょっと検索をかけてみたら、別の物語がでてきた。



高松宮殿下記念世界文化賞
1999年第11回 ルイーズ・ブルジョア
http://www.praemiumimperiale.org/ja/laureate/sculpture/item/82-bourge
ブルジョアの創作活動は一貫して、少女時代に受けた心の傷を癒すための行為であったと自身が語っている。「父の破壊」(1974)、「ヒステリーのアーチ」(1993)、「蜘蛛」(1997)など、その造詣はフェミニズム・アートとしても注目を集めている。


アートで自己を治癒する
ルイーズ・ブルジョアカタルシス
http://www.tagboat.com/contents/select/vol27.htm
父の愛人との同居生活。歪んだ家庭生活の痕跡は、ブルジョアに深い影を落としました。彼女にとってアートは、抑圧された感情を解き放ち、解消するものでした。・・・暴君としての父の残像は、この世がいかに男尊女卑であるか、という嘆きの言葉にもあるように、その想いはジェンダーというコンセプトにつながってゆきます。


 彼女は、しっかり結婚されて、添い遂げている。だが、幼少時代の、不倫をしてはばからない暴君、父の記憶、それでも、なにもなかったように家ですごしていた、その外傷体験が、彼女の創作を内側から駆動していたようだ。「クモ」は、父性を示そうとする男性を呑みこむ太母、グレートマザーの根源的イメージだが、それが、父への攻撃性と、かつ、そこで、なにか守られているもの、そういう彼女にとっての母性のイメージになっていたのだろう。福澤諭吉にみるような「俺様化」した父性も破壊的な象徴ではあるが、その被害者としての女性が、生き残り、後に、父性的発達を試みる少年に対しての「太母」として、無意識的な攻撃を仕掛けてゆく。こういう所に、「太母」の出自があるのかもしれないと思われた。「父の死」という作品は、まさしく、この「太母」元型を体現しているものであろう。
 ここまで、意識が広がってくると、太母たるクモを殺す、魔女狩りするのではなく、封印して「祀る」、そういう作業にとりかかる気持ちがでてくる。この辺まで、ノイマンは述べている。