ノイマン『意識の起源史』からみた現代 2

 『意識の起源史』序文を読み直すと、思わずうならせるような表現に満ちている。以下に、引用させてもらいたい。



「意識の発達段階および段階相互の元型的関連を発見することと共に、本書が最終的に意図しているのは、人類と個の治療である」


「自我意識がこれらのシンボルの源泉である人類層や文化層に出会うことは、語の本来の意味で「教育的」bildendなことである。意識はイメージBilderと教養Bildungを獲得し、自らの地平線を広げ、多くの内容を手に入れることになるが、この内容は新しい落差、すなわち新しい問題と同時に、新しい解決をも布置するものである。単なる個人的内容が、超個人的内容と結びつき、人類の集合的な性質が再発見され、活動し始めるならば、新しい洞察の可能性と生の可能性が開かれることになり、それによって、病める現代人の個人主義的に狭隘化し麻痺した人格が克服されるであろう。」


「我々の目標は、自我の無意識に対する、すなわち個人的なものの超個人的なものに対する真の関係を示すことにつきるものではない。我々はまた「こころ」に対する誤った個人主義的な解釈もまた、無意識的な法則性の表現であることを理解しなければならない。この無意識的な法則性が一般に、現代人の自我意識に働きかけて、自分自身の役割と意味についての誤った解釈へと駆り立ててきたのである。この誤った解釈が、すなわち超個人的なものを個人的なものに還元する解釈が、もともとは意味深い傾向でありながら現代人の自己意識化の危機の中で「背理」へと転化してしまった傾向に、いかに由来しているかが明らかになって初めて、本書の課題は果たされるであろう」


「超個人的な内容が、個人主義的な心理学の示す事実だけに還元されると、個人のこころと生とは、恐ろしく貧困化するばかりでなく、−それだけならまだ私的な次元にとどまる問題であるがー集合的な無意識の流れをせき止め、人類にとって有害な結果をもたらすことになる」
コメント)これは、「個人主義的な心理学」のみではなく、「個人の利益を最適化するように行動する経済人、を仮定してつくられる経済学も、まさしくそうであろうと思う。投資家的な安く買って高く売ることを至上とする人間を基本にした社会、市場原理主義的、資本主義的な、外的、内的な問題の還元の仕方でもある。


「心理学が個人の心の深層を探ってゆき、ついには集合的な層につきあたると、人類を滅ぼす大衆的(これは、烏合の衆的なといった意味)現象にうちかつための種の治療・文化治療にまで発達していかなければならない、という課題の前に立たされることになる」
コメント)ノイマン、大きなお世話だ、と思うか、まさしく、そういう所まできつつあると思うか、まあ、それぞれの経験によろう。


「自我の無意識に対する関係、および、個人的なものの超個人的なものに対する関係は、個人の運命を決定するのみならず、人類の運命をも決定する。この対決の舞台はしかし意識である」
コメント)これは、ものすごい至言であると思う。意識の場をおいて、その対決の場は、他にない。どこか特別な、神聖な場所にあるわけではなく、あくまで、個々に割り振られた意識の中にある。そういう場所として、個々の意識を見直すことには、価値がある。