8時間労働の提唱者としての思想家マルクス

 昨年の今頃、NHKラジオ第2で『思想史の中のマルクス』という講座をやっていた。本来、マルクスヘーゲル系の哲学者であり、経済学者ではないはずだ、彼を経済学的ではなく思想史的なところから、理解しておくべきではないかと、以前より思っていたので、自分にとっては非常に興味深い内容にみえ、本屋でテキストを買って、後半部分から聴講した。講師は、鈴木直氏。マルクス入門としては、わかりやすく、最適なものだったと今でも思う。彼は、東京経済大学教授で、筑摩書房の「マルクスコレクション」で資本論を訳している。が、専門は、経済学ではなく、ドイツ思想史となっており、期待どおり、ヘーゲルの流れから、いかに、マルクスが目前に広がる悲惨な現実のからくりを説明する概念を獲得するにいたったかという点から、話してくれた。


 マルクス時代に起きていた問題と、同じような対立構造から生まれるような問題が、現在でもおきている。労働組合の形骸化、派遣労働者の常態化、さらに、昨年から再び話題になっている原則8時間労働制の条件付き撤廃、最たる例は、いわゆるブラック企業の跋扈だが、全体の流れは、多くの論者も指摘するように、原始的な資本主義社会に、回帰しつつある方向にある。その極点ともいえるTPPに至っては、多国籍企業家が、農協、皆医療保険などの共助的な国内組織や、あるいは商品の安全基準、食糧自給目標、最終的には「国家」の法を含むが、これらを「規制に守られている既得権益」と糾弾して、ドリルで穴をボコボコ開け始めるまでにいたりうる。これは、どの程度の人が気付いているかわからないが、共産主義とは、まったく正反対の形の、資本家群による国民主権制に対する「革命」といってもいいものである。


東洋経済 関連記事】
今の年収1千万以上限定で同意の上での残業代ゼロ法案が、そもそも、どういう要請、理念から発しているのか、その方向性はなんなのか、詳細に報告している。


「ヒラ社員も残業代ゼロ」構想の全内幕
http://toyokeizai.net/articles/-/38399
   官製ベア・残業代ゼロ・解雇解禁の「点と線」
   風間 直樹 :東洋経済 編集局記者
「この場で関係者に示された長谷川ペーパーの「原案」には、あいまいさのかけらもなかった。現在の労働時間制度は工場労働者を想定した仕組みであり、ホワイトカラーには適さない、それに代わる新たな労働時間制度として「スマートワーク」なるものを創設するというものだ。このスマートワークでは、対象者の範囲に業務や地位の限定を設けず、本人の同意と労使の合意に委ねることで、幅広い労働者の利用を可能にするとしている。実際そこで図示された対象者のゾーンには、「ヒラ社員」の最末端、つまり新入社員まで含まれている。本人の同意と労使合意さえあれば、どんな業務内容の新入社員でも労働時間規制が及ばず、残業代なし、深夜・休日割り増しなしで働かせることができる。」


 マルクスが、フランス人権宣言の中の光の裏にある影をみていたというのは、この講座をきいての発見であった。個人の王権からの解放と、自由・人権の謳歌は、一方では、「自分の利益を最大化してゆく経済学的主体」という、潜在的に共同体、生態系バランスを無視するに至るエゴイストが、堂々と、倫理的瑕疵なく、社会の主役として登場できる場所が確保されるようになったということだ。それが、資本家、企業家の自由、人権と、プロレタリアートの自由、人権の相剋という社会経済的な問題となって結実していく。フランスに遅れて民主主義革命を臨んでいたドイツの中で、マルクスは、目前にひろがるこの問題の、根本的な構造を追及するために、哲学的頭脳をもちながらも、哲学から一歩踏み出して、「商品」「市場交換」「労働力の商品化」「物象化」「物神性」「価値」「資本」などの経済学的な概念を徹底的に深めていった。「ライン新聞」の一編集者であった彼の目の中には、農村や家業を追われ、自らの歴史的資産を奪われた労働者側の自由・人権を確立するためには、どうすればいいのかという主題が、もともとの研究動機としてあったということだ。フランスの人権宣言に匹敵する内容のものを、ドイツの思想の蓄積の中から、より根本的原理的に、つくろうとしていたというところは、この講座を聴講して、はじめて知った視点であった。少し引用しておきたい。


テキストp63
「市民であれば、自らの家族、伝統、文化、共同体を通じて自分の存在を確認し、主張することができます。しかし、農村を追われ、共同体の一員となれないままに都市の下層労働者と化した人々は、そうした歴史的資産をいっさい奪われています。『歴史的な資格に訴えることができないゆえに、人間としての資格に訴える以外にない階層・・・プロレタリアート』彼らは、みずから抽象的存在であるがゆけに、「人間」という抽象的普遍性に訴えるほかないのだ、とマルクスは言うのです」


「物事を徹底しなければ気の済まないドイツに革命(引用者注 フランスで起きたような市民革命に匹敵するもの)を起こすには、革命もまた根底から行うほかはない。ドイツ人の解放は人間の解放なのである。この解放の頭脳は哲学であり、その心臓はプロレタリアートである」


テキストp67
マルクス「ドイツの哲学とドイツの現実との連関を、あるいは自らの批判と自らの物質的環境との連関を問おうとする哲学者は誰もいなかった」
ヘーゲル左派はもともと、ヘーゲル哲学の観念論的な残滓を批判することから出発したはずでした。ところが彼らの内部議論は、ある意味ではヘーゲルよりもさらに観念論的に退行していました。それは、ヘーゲルにはまだ存在していた経済社会についての批判的分析が欠落していたからです。マルクスエンゲルスからみれば、今や空中楼閣に対置されるべきは、生産と交易を通じて対立を産出し続ける市民社会の経済的運動でした」



 このテキストの中から、ひとつ、現代日本に通じる問題と、同じ問題にマルクスが向き合っていた例として、74頁に引用されている、資本論第一巻第8章の労働日についての章の一句を引用してみる。JR西日本福知山線脱線事故と、まったく同じ構造の問題が書かれている。


「一つの鉄道大事故が何百人もの乗客をあの世に送り届けた。鉄道労働者たちの不注意がこの事故の原因だった。彼らは異口同音に陪審員たちの前でこう説明する。10年から12年前までは、自分たちの仕事は一日8時間にすぎませんでした。ここ5,6年の間にそれが14時間、18時間、20時間に延長され、行楽列車の時期には労働時間は中断なく40時間から50時間になることがよくあります。私たちとて普通の人間にかわりなく、超人ではありません。ある時点が来ると自分たちの労働力は支障をきたすようになるのです。麻痺が自分たちを襲います。頭は考えることをやめ、目は見ることをやめてしまいます、と。申し分ないほどに『立派なイギリスの陪審員たち』は彼らを『殺人』のかどで陪審裁判に送るという判決をもってこれに答えた」


 マルクスが考えたのは、この現実の構造なのである。共産主義はまた別の問題を引き起こしたが、彼の資本主義批判は、現代の労働者階級の人々、つまり賃金労働者である正規、非正規を問わずのサラリーマンが、いやな歴史を繰り返さないためにも、是非、理解されるべき概念に満ちていると思う。今、歴史的にはマルクスの主張にも沿って導入した8時間労働という、労働者を守るための「岩盤規制」に、安倍のドリルが容赦なくハリの穴をあけ始めてた。現政権は、基本的に、労働者の安全よりも、会社の利益を、さらに投資家受けを、できうる限り上限化したがるような支持勢力を持つ政権だから、こういう流れは続いてゆくだろうと思う。この8時間労働制の立役者の一人としてマルクスがいることが、どの新聞にも論評されていないのが不思議だが、資本論刊行前年の1866年8月、国際労働者協会の文書で、彼はこういっている。(大月書店『賃労働と資本』p32より引用)


「労働日の制限は、それなしには、いっそうすすんだ改善や解放の試みがすべて失敗に終わらざるを得ない先決条件である。それは、労働者階級、すなわち各国民の多数者の健康と体力を回復するためにも、また、この労働者階級に、知的発達をとげ、社交や社会的・政治的活動もたずさわる可能性を保障するためにも、是非とも必要である。われわれは労働日の法定の限度として8時間労働を提案する」


 これで、どれだけの労働者が守られ救われてきたか。この論理自体には、共産主義は関係はない。私は、人権や自由を価値として訴える者が、それを経済学的な方向から深めて考察したマルクスを、むやみに否定するのが、今一つよくわからない。彼の業績を批判的に継承することが、資本主義と呼ばれている、競争的な原理の働かざるを得ない貨幣を介した市場経済を、人間社会が受け入れてゆく上では必須であるだろうと思っている。マルクスを忘却することは、ノイマンが『意識の起源史』の巻頭言としてあげた、ゲーテの「三千年の歴史から学ぶことのできぬ者は、無知のまま闇にとどまり、その日暮らしをするがよい」という警句そのものの現実に、人間社会が襲われることにつながるだろうと思う。