宮本武蔵『五輪書』

1.『五輪書』との出会い


 図書館で、太極拳関係の本をみてみようと武術コーナーに赴いた所、たまたま眼に入った、宮本武蔵の『五輪書』の解説本を手に取って開いてみると、頭にすんなり抵抗なく入り、3時間ぐらいで読めそうだったので、メモを取りながら読み通してみた。その翌日に、職場でモンスターと対決する破目になりそうなので、そういう本に眼が行ったというのもあった。宮本武蔵は、最近は『バガボンド』とかいう漫画で、大分、知名度、人気度が高いようだが、現代に至ってもそれだけ注目されるだけあって、時代や分野を超える卓見が散らばっていた。
 武蔵の二刀流は、左右の腕での刀二本という意味のみならず、精神と身体、右足と左足のさばき方など、相補的な形で与えられている心身の資源を、勝負のためにフルに活用するということにもつながっているようである。これは平素の鍛錬としても「まづ武士は、文武二道といって、二つの道をたしなむ事これ道なり」とも述べている。兵法は、競争、スポーツでは決してなく、生きるか死ぬかの真剣勝負の世界の理を説いたものであり、そういった場で、一つの道、見方、手段に固定してしまうことが、むしろ「死ぬる手」として、象徴的には、太刀の持ち方や構え方の項の中で忌避されている。
 この、一見、中心のない柔軟な立場をとる中に、どこに道理を求めるかというと、「刀の道理」に沿った動きをするとか「兵法の道理に沿えば負けはない」とか述べられる。これは、目前の脅威感に圧倒されつつあった自分にとって、メタファーとして非常に参考になった。自分がその場で使える道具立てや、それに内在する動き方の理法、また、全体の場を導こうとする目的の明確化、意識化などにつながることである。こういう「観」や「道理」が、一貫して五輪書では重視されている。観については、特に、勝負において「敵の心を見」ることの大切さが説かれ、それに合わせて、あるいは操作しながら、自分の勝ち「拍子」を構成してゆくことが言われている。武蔵は「いづれの巻にも拍子の事を専ら書き記す也」と述べているように、この「拍子」が、彼の兵法の中心的な道理になっている。リズムというのは、きわめて抽象的普遍的であるとともに、きわめて具体的な現象としてあらわれているが、これを兵法の軸に据えた武蔵の眼目には、読んでいて敬服してしまった。
 これは、もちろん楽器演奏にも、非常に参考になるだろう。楽器の道理を知り、構えを妙に固定せず、演奏の流れに柔軟に対応できるようにして、観客の心に眼をつけながら、自分が楽曲から感じ取った拍子を提示してゆく。また、さらに言えば、『五輪書』は、特に、有象無象のオーケストラ団員相手を、自分の拍子に従え、自分の感得した音楽を作りあげてゆく指揮者にとって、非常に有益な心得に満ちていると思う。武蔵は、一乗松の、100人弱を相手に一人で戦ったという現場から、二刀流を作っていったそうだが、『五輪書』には一対一の勝負のみではなく、一対多の状況をも想定して書かれている所がある。勝ち負けは、必ずしも数ではないと武蔵はいうのである。
 実際に、相手にしたモンスターは、こちらが身構えていたほど、好戦的にはなっていなかった。時間を少し置いたのがよかったのかもしれないし、相手にまともに向き合い、その場の目的を外そうとしなかったのがよかったのかもしれない。競争ではない「戦い」をここまで意識してしまったのは、これまでなかなかないことであったので、いい経験にはなった。ひるがえって今の日本をみていると、「戦わないと奴隷になる」というのは、文明化したとされる21世紀にあっても、また、平和憲法をもって「平和の誓い」をしている日本にあっても、実は、避けがたい厳粛たる事実なのかもしれない。では、なんのために戦うのか?
 パブロ・カザルスも戦う芸術家であったし、京都大学原子炉実験所助教小出裕章助先生も、原発を廃止するために生涯を通して戦っている。さらに言えば、イエスも、官僚的な律法学者と戦ったし、釈尊も、ソクラテスもまた戦っていた。こうみると、自分にとって尊敬に値するような人々の戦いは、「道ならぬもの」を振り払い、道を成就させるために、戦ったのではないかとみえる。では、道とはなにか?
 これが、人それぞれだから厄介になるし、だから、個々人の、あるいは集団間の戦いを生じる元になる。今回の体験からは、弁証法的に、潜在的ではあっても戦い→止揚の中から、これまで閉ざされていた、ある具体的な方針、道が生じた。これは、一定の感情の蓄積もとで起こる、機をとらえた創造行為でもあったのかも知れない。



2.現在の兵法  
   核兵器の脅威と、マスメディアの圧倒的な拍子、あるいは、それに抗し、新しい拍子を作ること


 現在の兵法を考えると、最上位に人間的な武術や感情のレベルをはるかに超えた、「核兵器」が位置している。その脅威が、歴史的に広島、長崎において、証明されてしまった後の時代にいる。だから、非常にいびつな、弁証法的な創造的変革の道に対して固く閉ざされた社会となっている。核を使用された歴史をもつ日本社会は、そのいびつさが、最も強いのではないか。イラクアフガニスタンともに、米国に対する地位協定を拒否する気概が残っているが、今の日本、日本国民には、残念ながらその気概がない。武蔵なら、この壁に対して、どのように兵法の道を作るのだろうか?
 まず、今の日本の、物事が起きる「拍子」をつくっているのが、圧倒的に、未だに、マスメディアであることが指摘できる。前回12月の衆院選自民党「勝ち拍子」は、マスメディアによる自民党圧勝という、かたよった世論調査の発表で、一気に形作られた。また、政治的に相手を攻撃する拍子も、検察と司法記者クラブメディア合作の「関係者報道」の連続がある。これは、前々回の衆院選前に、小沢代議士秘書への、一の矢、二の矢、三の矢と繰り返すような「拍子」が造られた。マスメディアの作る拍子に対して、大多数の日本人はまったく無防備であり、それにたやすく巻き込まれてしまう。したがって、日本を現在おかれているような奴隷的状態から取り戻すためには、このマスメディアの打ちならす一方的な「拍子」を打ち破り、これに対抗するような、新たな拍子を作ってゆく必要があるだろう。かろうじてその可能性があるのが、ネットメディアであると思う。そこで生まれた「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」は、新聞報道による検察側の既定路線に、タイミングよく異議を唱え、これまでにない市民による検察組織への告発活動を行なった。また、検察マスメディア批判デモ、原発再稼動反対デモなどのデモ活動も、新聞テレビが呼びかけた運動ではなく、ネット内の議論の中から発生した運動であり、新しい「拍子」の出現であった。他にも、世界に眼を向ければ、ジュリアン・アサンジュが、ウィキリークス活動により、これまで各国政府によって隠蔽されてきた、政府の信頼性正当性を脅かすような情報が表にだされるようになったということもある。
 アサンジュは、「True democracy is the resistance of people armed with truth against lies.」と言っているが、そこには彼なりの、True democracy という戦うための道理と、その実現のための「兵法」がある。似たようなことは武蔵も言っていて「我が兵法においては、身なりも心も直にして、敵をひづませ、ゆがませて、敵の心のねぢひねる所を勝つ事肝要也」とある。ただ、小沢と同じように、アサンジュも、マスメディアによる人物破壊報道にあい、現在はロンドンにてエクアドル大使館に、半ば幽閉されているような身となっている。このような中で、正々堂々たる兵法が語れなくなると、「テロ」という手段、突発的な「拍子」が生じるようになるのかもしれない。
 核兵器による不条理を強いる秩序、マスメディアによる一方的な勝ち拍子の形成に対して、なかなか、効果的な兵法は、すぐにはないかもしれないが、敵を知り、戦おうとする主体性を保つことはできるだろう。