「8・15 安倍談話が語るべきこと - 三浦瑠麗」へのコメント

 私が、三浦瑠麗氏の存在を知ったのは、昨年の9月、彼女のブロゴスでの「日本に平和のための徴兵制を」という記事を見た時だった。こういう視点での徴兵制についての提言は、日本では今のところ私が言っているぐらいかと思っていたので驚いた、もしかしたら真似されたかと思ったものだったが、彼女は、学位論文を著作化した『シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき』で、2012年10月にすでに提言していたようだ。



日本に平和のための徴兵制を http://blogos.com/outline/93190/
三浦瑠麗氏「日本を戦争ができる国にしたくないのであれば、本質的には戦争の血のコストを平等に負担する徴兵制を導入して、国民の平和主義を強化する他ない」



  
 私の場合は、敗戦を受け入れた上での、靖国神道を乗り越えるような国家のまとまりかた、そこでの軍隊のありかた、組織の在り方そういうものを考えなくてはならないのではないかという所からでてきたものである。加えて米国のベトナム戦争従軍経験のある精神科医、スコット・ペックが、戦地で発生する軍の虐殺的行為の分析考察の到達点として、「軍隊が、特定の社会的、経済的階級、性格傾向を持つ者の集団になってしまうことが原因であり、それを防ぐには徴兵制しかない」ということに共感したことも原点としてあった。南京等で日本軍の起こした虐殺の問題は、明治以降の日本民族優越論や、レイシズム的背景も無視できずまた別の問題もあると思うが、このペックの視点は、あらたな、現在の日本国憲法から無理なく、現実的に構想できるような軍隊の在り方を、真面目に考えるうえでも、無視できないと思う。



『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 』(草思社文庫) 文庫 – 2011/8/5
M・スコット・ペック (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%86%E3%81%9D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%80%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A8%E9%82%AA%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E8%8D%89%E6%80%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%EF%BC%AD%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4794218451/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1425787022&sr=1-1&keywords=%E5%B9%B3%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%86%E3%81%9D
第5章「集団の悪について」に、ソンミ村虐殺事件についての分析考察をした章がある。南京大虐殺があった、なかった、あるいは30万だ、そんなことない、そういうことを延々と議論するのは、私からすれば、馬鹿極まりない。軍隊というのは、場合によっては、歴史的に、日本軍にかぎらず虐殺行動を行ってしまう。それを前提にして、もし軍隊が国にとって必要であるなら、どう抑えればいいのか、そう考える必要がある。参考までに、ブログ下部に脚注として、私が共感したスコット・ペックの到達した所を載せておく。


本年の正月以降、彼女の露出度が高まってきているが、逆に、彼女の研究や視点論点が、今の日本に必要とされつつあることを示しているのであろうと思う。その三浦氏が季刊の『文芸春秋SPECIAL 大人の近現代史入門』で『8.15 安倍談話が語るべきこと』と題して寄稿された。「終戦」を、ごまかしなく「総力戦で日本が敗戦した」と受け入れること、戦争責任の限界づけ、その経験を世界に提示できる「普遍的な言葉」で語ること、そんな論点で力強い提言をされていた。私がこれまでブログで書き連ねていたこととも、共振する部分も多く、読後に以下のツイートをさせてもらったので記事として残しておきたい。日本固有の文化、歴史ではなく、こういう世界に通じる「普遍」を、戦後日本の立脚点としておこうという人は、なかなかお目にかかれない。これを日本の血肉とするために、どう、日本の個性、歴史につなげていくかが問題となるだろうかと思う。ただし、三浦氏が「普遍」を掲げて前に進もうとしても、戦後の日米が歩んできた現実のつくってきた構造の壁に押しつぶされててしまう可能性がある。ツイートでは、特に、総力戦での敗戦が、非総力戦での敗戦に擬勢されてしまった原因としてサンフランシスコ講和条約をあげ、その現実を指摘する補足的視点を示しておいた。
 三浦氏の徴兵制議論は、世界の戦争の分析とともに、この総力戦での敗戦という日本人の経験を、「普遍性」のある原理に昇華していったところから、導かれるものであろうと思う。これのないまま、なし崩しのままの、「シビリアンコントロールの制限」や、「徴兵制の復活」は、結局、元の木阿弥になる可能性が非常に高い。今の原理原則を無視しながら米軍の下請け化してゆく安倍政権の進み方は、表面上は三浦氏の提言に沿っていくかもしれないが、深いところ、最も重要な所は、美辞麗句のみで、実のないもの、過去を繰り返すものになってゆくような気がしている。にもかかわらず、筋の通った提言をしてゆくことには十分、価値がある。歴史が動き、その提言に脚光があたり、それが礎になることもあるからである。


8・15 安倍談話が語るべきこと - 三浦瑠麗
http://blogos.com/outline/106917/?p=2&utm_content=bufferdbc45&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer



【以下感想ツイート載録】


国民を総動員した総力戦で敗戦したという事実を、未だ、歴史修正主義的な保守的階層は、受けとめきれておらず、だからこそ、その、本来貴重な日本の未曽有の歴史から学ぶこともできないでいる。むしろ、否定し、敗戦前の列強的段階にもどろうとしているが、それは歴史の否定に他ならない。


おそらく、この敗戦の歴史から日本が普遍的な価値を見出し、それを内面化し、対外的に語れるようになるということが、日本にとっての、本来的な戦後70年の「開国」であろう。この敗戦は、「反ファシズム連合の米英仏ソ中」に負けたということであり、その大戦の物語というものは否定できない所がある。



私からみれば、反ファシズムに負けたということでもあるし、あの時に米国にあったある種の謙虚なサイエンスの心に負けたのだとも思っている。都合の悪い現実認識を否定しないで、受け入れつつ、その対策を立てることである。これは人格にまでなって現われ、さらに上下関係や組織の在り方なども性格付ける。「大本営発表」はその対極であり敗因だった。



そういう世界に語りかける普遍性をもちつつ日本的なテーゼを提示し、国内に受肉化してゆくこと。それが本来の、新しい日本の国体であるべきだろうと思う。そして、それは、世界に許されてしかるべきだろう。敗戦後の外交、安全保障というのは、本来、こういう所から始まる。ドイツは、それをやっている



瑠麗先生は、ドイツの話はださないが、まあ、こんな筋内容だ。私が常々書いたりしてしまっている内容に近いので、うれしくなるところがあるわけだ。さらに、具体的な戦争責任の限定の仕方、責任の期限、主体をどう考えるか、そういう議論がある。ただし、瑠麗氏の触れない現実的な問題がやはりある。


ひとつは、「攻撃的戦争」を、国際社会の中での絶対悪として乗り越えるべきだとするなら、同盟国、米国のイラク攻撃とその後の城塞のようなイラク米国大使館、これは絶対悪となる。そして、それを国際社会が裁けない現実がある。さらにその反応としての「テロとの戦争」に発展しひきづりこまれつつある


さらに、先の大戦は、反ファシズム戦争として終結し、日本国憲法を生んだたが、サンフランシスコ講和条約は、反共産主義ということで、全面講和ではなく、部分講和を行い、それが、現在につながる、反共ではあるが、ファシスト的な政権と、また、現在の冷戦的支配構造で列強になろうとする傾向をまねく


サンフランシスコ講和条約により、一戦勝国である米国と共謀しながら、国家総動員総力戦の末の反ファシスト戦争の敗戦を、非総力戦的な傷程度で日本がごまかしてしまい、戦前勢力や主義思想の温存につながったこと。これが、むしろ本質だろうかとおもう。瑠麗氏は、わかってるかもしれないがここまでは触れず


ドイツは、西ドイツであっても「米国との反共同盟」ではごまかしきれないほどのことを、やらかしたので、総力戦での敗戦、これは思想的価値的にも敗戦、これが徹底化し、そこからの立ち上がりも、現在に至るまで、日本とは差があるしっかりしたものとなったのだと思う。


検索してもでてこないが、ドイツの戦後初期の大統領が、毅然とした態度で「われわれはヨーロッパ人である」と述べたということをきいた。これが、「攻撃的戦争」を乗り越えたドイツ人の言葉であろうが、日本人でいえば、「われわれは、アジア人である」となる。これが言えないようになっている。


現安倍政権が、これまでの自民党政権がやりもしなかった4月28日のサンフランシスコ講和条約による国際社会への主権回復を、ことさらに祝だしたのは、深い意味がある。戦前勢力の戦後への温存、名誉回復につながったものでもある。安倍首相の祖父、岸信介は、この講和発行と共に、公職追放を解かれている。彼らの米国への恩は、天皇を超えるほどの深いものがあるかもしれない


かつ、あの講和で、主権が回復したのは本土のみであり、沖縄は切り捨てられた。その態度は、今の沖縄への態度をみると、一貫するものがある。
ここから、まともな「総力戦後」を語るのは、困難を極めてくる。中部大学三浦陽一教授も岩上インタビューに「泣けてくる」と話した。が、考えないといけない


【過去記事紹介】2013-05-04 『自由意志による従属』としての日米関係、または『自由からの逃走』http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130504
中部大学三浦陽一氏への岩上安身インタビューのまとめ記事。


平成25年4月28日主権回復式典 首相「希望新たに」 沖縄配慮も言及 
琉球新報記事 安倍首相のスピーチ全文あり
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-205981-storytopic-1.html
沖縄の現実は今に至る通りで、情緒的観念論の美辞麗句。沖縄は、安倍の「金」を、「資本」の積み増しを、トリクルダウンを拒否し、尊厳をとろうとしている。が、現実的には、8.15安倍談話も、この辺からでてくるのだろうか。


こういう歴史的現実をみると瑠麗氏的な中道ちょい右ぐらいの、いいまとめ方で踏ん張ることが、特に民主党瓦解後は極めて難しくなった。逆に、安倍ガールズ面々のようなのが、厚化粧したり着物きたり在特会関係者とあったりして存在感を誇示してくる。グローバリズムやTPPについての素朴かつ大胆な期待と快刀乱麻には、個人的には心配が残るが、彼女の知性と踏ん張り、Con-Patiのパッションのもとでの弁証法的発展に期待したい。



 脚注)スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 p285より 引用  

 忘れてはならないことは、いやしくも軍隊というものが必要なものであるならば、それはつねに痛みを伴ったものでなければならないということである。その行為に伴う責任を直接、個人的に引き受けることなく、大量殺戮の手段をもてあそぶべきではない。人を殺さなければならないときには、自分に代わってダーティーワークを引き受けてくれるプロの殺し屋を雇ったり訓練したりして、殺しに伴う流血を忘れてしまうようなことがあってはならない。殺しを行わなければならないときには、それに伴う苦痛や苦悩を真正面から受けとめるべきである。さもないと、われわれ人間全体が、自分を自分の行動から隔離することによって邪悪なものになってしまう。なぜなら、悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じるものだからである。 

 完全徴兵制度−非志願兵制度−こそ、軍隊を健全に保つ唯一の道である。徴兵制なき軍隊は、その機能が専門化するだけでなく、その心理においてもますます専門化するものである。つまり、新鮮な空気を軍に吹き込むことができないからである。この専門化集団は、近親交配を続け、軍隊独特の価値感を強化し、そして、ふたたび自由に行動することを許されたときには、ベトナムで見られたと同じように殺気だって凶暴化すると考えられる。徴兵制には苦痛が伴うものである。しかし、この苦痛が保険の役割を果たす。軍の「左手」を健全な状態に維持する唯一の道は非志願兵である。