ジャーナリズムは言論の暴力・虚言に立ち向かうべきである

NAVERまとめ】NHKBBCよりもヒドい原因は、日本人にメディアの自由を望む「文化」がないからと英紙記者

日本在住のイギリス紙記者のデイビッド・マックニール氏はインタビューで、昨今のNHK問題をめぐり、たびたび引き合いに出されるイギリス公共放送BBCとの最大の違いは国民のメディア観の影響があると持論を展開している

更新日: 2015年12月04日
https://matome.naver.jp/odai/2144921300372230101


イギリスのユーモア、諧謔にあたるような、笑いの中に、踏ん張りながらたちつづけ、同時に自己限定していくような、紳士的エートスが、日本人には、マスとしては欠けているのだろうか。これは、立憲主義を可能にするようなエートスでもあると思う。また、科学精神、経験主義をも可能にするエートスでもある。


 山口は、権力にとりこまれ、あるいは、みずから率先して売り込んでいき、言論の誠実さを売り渡したのだろう。田崎とか、櫻井とかみていると、ジャーナリストも、天下り先を確保してやった方が、生き残り戦略で害悪を垂れ流すソフィストに落ちぶれないで済むかもしれない。

山口敬之 準強姦疑惑(週刊新潮
https://twitter.com/rxxXoJEnqzBGGOS/status/864977228773208064



 ジャーナリズムは、民主主義を可能にするために、是非とも必要な仕事である。国民を、国の内外の、権力による横暴からリアルタイムに守るためにも、あるいは、政府の無知や無恥をただすためにも。また、その上で、政治家、ステイトマンに対する導きの素材を、正確に提供するためにも。だから、本来は、BBCのように、ジャーナリズムを公共財としてみなしていく必要があるんじゃないかと思う。そして、それに従事する人々も、医療や教育に従事する場合同じように、一定の教育や、倫理感、倫理宣言、そして、政治信条にかかわることなく、最低限のコンセンサスの得られるような資格があってもいいのではないか。その上で初めて、思想性が加味されるべきだろう。虚偽報道をしたものは、ジャーナリスト連盟から、制裁を受けるとかそういう規範が、新聞・雑誌報道の中にはあってしかるべきである。一般の公的資格の世界では、そういうことをしたら、即制裁されるのは職業倫理として当然であろうが、ジャーナリズムの中では、それが、制度的に成り立っていない。例えば、平成の大獄ともいえる小沢事件は、今もって、最右翼でもあったNHKも、日本の五大新聞社の何処も謝罪もしていないし、あの時に剥奪された小沢氏の名誉は、今もって回復されていない。

 思うに、今の、政治や言論のリアルな世界では、「嘘」が、言論上の武器にもなっているし、盾にもなっている。それは、実に、権力やメディアによる言葉の暴力でもあると思う。それを批判、検証、制裁し、あるいは再教育するようなシステムがあるべきだろう。本当に、自分の欲しいもの、保身のために、素知らぬ顔で嘘をつきとおす奴はいるものである。10秒後には、他の者に確認すればバレるような嘘でも、1対1の場面で、その瞬間には検証できないので、「本当かな」と思わせられる。そいつは、妙に堀が深い顔をした落ちぶれた奴だったが、若いころは美形だっただろう。金とパンとスポーツ、整形された美形と虚飾にみちた美辞麗句、他人を貶めることによる特権意識、親や先祖の名声、そういう表面的感覚的快刺激と、言論上の「嘘」という不快がバーターで取引されて成り立っているような世界が、公私問わずにあるような気がしている。

 『サイコパス-冷淡な脳-』(星和書店)を読んで学習したが、嘘つきというのは、先天的というよりも、彼らの社会学習の結果だ。「アンダーコントロール」と嘘をつくことで、オリンピックという利益もえられるし、「辞めてやる」と潔さを示すことで、その場の保身にもなる。その後に、虚言を検証した上での虚言者への制裁が弱ければ、嘘をつくことに条件づけられていく。これが、精神や社会に歴史性があるかないかの別れ道にもなる。言葉の暴力である嘘をついて利益と保身を得ることをよしとするか、悪しとするか。安倍政権に妥協するかどうかは、そいういう所の価値感によるのだろうと思う。個人的には、TPPから始まる安倍の嘘は、私の許容限度を、はるかに超えているし、それを許容する日本社会が、実のところあまり好きではない。「嘘」のケガレも、あまりに募ると、美辞麗句の薄っぺらさ、さもしさが見え透いてくるものである。そのケガレを浄めることができるのは、嘘をついた、だまして申し訳なかった、という悔告なのだが、「日本会議」の称揚する大和魂には、そういうエートスが、反社会性を持つまでに欠けているのだ。そいうことが度を超え、モラルハザードを起こしている時にかもしだされるものに対する、醜さ、さもしさ、恥ずかしさの感性が、何故、マスとしての過半数の日本人にはないのだろうか、と思っている。

 いずれ、嘘で得た利益も吹き飛ぶような、信用収縮をきたす可能性があるのにもかかわらずだ。だから、虚言者にとっては、嘘を暴くものが、「言論テロ」になるわけだが、あまりに嘘つきの利益を享受していると、嘘つきの論理に、カタギの日本人も巻き込まれ、加勢していくようになる危険があるだろうと思っている。すでに財務官僚も安倍の嘘に、重要書類を隠蔽しながら官僚生命をかけて加担しているわけだが、安倍政権下での、共謀罪成立の危険性というのは、そういう所にある。