アントニオ・ネグリ 日本学術会議にて講演

 アントニオ・ネグリというイタリア人思想家については、私は、まったくノーマークだったが、現在、「日本学術会議」という公的機関の招聘により来日しており、4月6日に、講演を行った。「ネグリ」という名前は、デリダとかラカンとか、現代フランスの思想家とともに、なんとなく知ってはいた。てっきり、それらと同じく、ファッショナブルに言葉をもてあそび、哲学らしきことを述べるだけの人なのだろうと思っていたが、かれは、活動家としても名を鳴らしていた過去があり、それを咎にイタリアで投獄され、フランスに亡命、しかし「刑期を全うする」という理由から、イタリアに戻り服役したという経歴を持っている。ソクラテスを地でいっているような、思想家としては実に立派な経歴である。マルクスとともに、スピノザを研究していたというのも、さすがと思わせる。
 彼は、マルクス資本論として論を体系化するにあたっての萌芽的著作である「経済学批判要綱」を重視し、人間性を資本主義とは別の方向で無視、否定していった共産主義には距離をおいて、マルクスの先を、ユートピアではなく、現実的に、構想し、提示しようとしていたようである。これは、まさしく、私が考えていることと同じ方向性でもある。先の「ヨハネの黙示録13章とアメリカ・ドル・テレビ」でも書いておいたが、マルクスの経済学批判は、カントの理性批判と同じ価値を、人類の精神や人間性にとって持っている。マルクスがつきあてた批判の鉱脈である、市場交換過程に根深く入り込んでいる、人間労働の商品化(人間の物象化)、商品価値の神格化(物神性)、さらに資本家の行う原罪でもある原始的蓄積過程と、これらの歴史的、世界的(空間的)広がりの中で、資本が、メタモルフォーゼしながら、ひたすら自己増殖していく仮想的運動体であること、これらは、人類の経済を、『経世済民』として、人間性、生態系を尊重しながら、根本的に立て直すうえで、礎となるべき批判であると思う。これに反して、新自由主義は、これらの批判をすべて無視している、原始的な経済であり、マルクスの批判した当のもの、そのものである。市場交換過程の下に人間を物化し、逆に「国際競争力」のある商品を神格化し、市場交換過程の外にある資本家の「脅しと騙し」を暗に、ただ、おおっぴらに政治的に許容する「非人道的」な経済思想である。このような非人道的経済学へのマルクスの批判は、カントが、当時の哲学上のドグマの乱立を、理性批判を行うことによって克服していったようなものに値するという考えである。カントは、ただ、人間知性の特性を解明し批判をしたうえで、宗教的教説は哲学者としては説かなかったが、マルクスは、経済学批判の上に、処方箋として資本と市場を全廃する「労働者革命」をもってきた。これが、たぶん、資本と市場の生み出す問題とは、また別な次元の、なんらかの問題を持っていることは、歴史の中では否定できなくなっている。ネグリは、「マルチチュード」「コモン」という概念をもってきて、それをのりこえた、新たな地平を開拓しようとしていたらしい。そしてそれが、現実的には中東の春として、歴史の中に、一部出現した。アメリカでは、オバマ大統領の誕生、オキュパイ運動として出現したが、TPPにみるようにこれに反動して、メディア、政府が、大衆への締め付けを厳しくしている。日本でも、民主党政権の出現はその流れの中にあったが、特捜検察マスメディアによる政治弾圧の横行/既存勢力のクーデターによって、国会議事堂の雛壇に、昔の名前で総理大臣、財務大臣が立っている歴史がある。


シンポ『マルチチュードと権力:3.11以降の世界』
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1568

これまで来日を試みながらも、入国がかなわなかったイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリ氏。この度、初来日し、4月6日(土)に日本学術会議で講演を行う。OurPlanetTVでは、この講演の模様を同時通訳音声(日本語)でライブ配信する。
 
マルチチュードと権力>の視座から、「オキュパイ運動」や「アラブの春」などの政治・民主化運動が、現在のグローバル社会において持つ意味を議論したのち、3.11 以降の日本の社会の変容を、グローバルな文脈の中で捉え直す。
 
配信時間
2013年4月6日(土) 午後1時〜午後4時40分
 
基調講演者
アントニオ・ネグリ
報告者
市田 良彦(神戸大学国際文化学研究科教授)
上野千鶴子立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘教授)
毛利嘉孝東京藝術大学大学院音楽研究科准教授)
コーディネーター・司会
伊藤 守(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)


 ネグリは、私が「ヨハネ黙示録」にたとえたように、資本制による支配を黙示録的にとらえたり、その先に、宗教や原理主義など、主体性を別の意味で放棄した形での解決策をみつけることに対しては、自覚的に批判し、避けようとしている。そうなると、個性、多様性を軸にした処方箋のレベルにどうしてもとどまるが、それが、コモンという組織化の原理にそって、協働してゆくという。ただ、戦う相手である「新自由主義」やその前提とする功利的人間像は、利益のためには他者、他国を欺き、犠牲にもすることも辞さないような、利益原理主義ともいえる性格をもっている。それは、少なくとも市場原理主義ではない。それだったら、リーマンショックで潔く身をひいているはずである。
 人道やルールを尊重し、権力はないが、みずからのうちに尊厳のあるものと、人道やルールを破ることも辞さず、権力はあるが、みずからのうちに尊厳のないものとの戦いとなる。どちらが強いのだろうか?どちらが、人間として生まれ、生きるうえで、価値があるのだろうか?古来からの問いと戦いの延長線、延長戦上に、今現在も人間が立たされている。私としては、さらに、方法論として、この現場に武蔵の兵法の精神を持ってきて、自己と他者を治め、生き抜くことはできないだろうか?とも思っている。



1.ネグリ講演


 労働者階級に変わって、マルティチュードという概念、存在を押し出している。グローバル化する多国籍企業の資本の権力に対抗する、グローバル化したネットワークによりつながる、多様性を孕みながら統一した階級というような規定である。私も、こういうところにやはり行き着くと思う。楽観的だ、分裂する、烏合の衆になるだけなどといった批判に対して、コモンという概念を出してくる。「コモンセンス」「コモンズ」といったコモンとつらなる概念だと思いながら理解した。たぶん、関係性、自発的組織化を軸にしたマルチーコモン軸が、分断された個と資本による組織化を軸とした新自由主義的個−帝国をのりこえる軸として提示されている。中東の春のエジプトで、広場に、自発的にくりかえしあつまる群集に対して、軍部、警察が、帝国につらなるムバラクの指揮命令に従わなくなるような、そういうのりこえの瞬間が、イメージされる。
この、集団的な秩序形成にあたる、現実的力のあるものとしてコモン<共>をもってくるが、ネグリは、さらにそこから、新たな通貨、憲法を考えるにまでいたる。多様性による働きを尺度とするような通貨とか、彼なりに具体化した話をしていた。そこから、新たな市場のあり方、取引のあり方、賃金制度なども構想されるだろう。こういった、新たな社会を現実的に構想する上では、その社会における通貨と憲法をどうするかということは、最も深い土台になるのだと思う。
 こういった、ネグリの理念が、インテリではなく市井の人々にどの程度伝わるかは別にしても、彼の言うマルティチュードーコモン軸の活動は、反原発、反TPPという形で、日本においても各階層を越えて現実に、すでに、持続的に、存在している。その先にある国家観、基本的な価値観を、彼は懸命に述べ伝えようとしているようだ。それをイメージするだけでも、現在のさばっている通貨と政治を、歴史的なひとつのあり方にすぎないと、少しだけ、脱中心化し、骨抜きにすることができる。




2.日本人シンポジスト発言


 シンポジストが、それぞれの分野で、官製でも市場によるものでもない、自発的な発言、行動、デモ、介護など、日本でのマルティチュードの運動の実態を述べている。投票行動も、マルティチュードの権力行使ともいえるが、官製の枠内であり、それは重視されていないようだ。最初に登壇した、市田氏の発言は、内容はわるくないのだろうが、発言の態度、仕方が、どうにも鼻持ちならなくて、最後まで視聴しえなかった。「パラフレーズすると」という奴は、以前より信用できない、軽薄な感じの奴がおおかったことや、フランス語を得意げに混ぜたりするところも見苦しかった。これは、美意識の問題で、やむをえない。
 マルティチュードの活動として、独立系メディア、特にOur Planet TVと、IWJをあげていたが、さらにいうなら、阿修羅や場合によっては、2chといった掲示板、ツイッター、ブログ、フェイスブックなどのSNSを媒体にした活動もそうだろう。これらの表現活動、報道活動は、マスメディアと異なり、資本や官の介入なしに、それぞれのマルティチュードの個性が、そのまま表現され、それに反応した連鎖反応が起こり、マルティチュードの意識を、少しづつでも変容させている。発言については、脅迫、殺人予告のようなものを除いて、ほぼ無規制であるが、決して無秩序な情報空間にはなってはいない。市場、資本から独立した人間性の発露の場が開かれている。上野の発言した、女性の介護労働ということも、介護市場において搾取されているという被害的視点からだけではなく、マルティチュードの活動の発露、組織化として、女性特有の感情的労働を評価できる団体があるということであった。ボランティア活動はもちろん、諸々の、NGONPOも、マルティチュードの発露の通路になるのだろう。
 ただ、登壇大学教員は、マスメディアの陰湿な牙、アメリカによる政策決定への圧力、この辺を、あまり現実にある脅威として述べ立てなかった。市場と官から挟み撃ちにあい続けている中で、マルティチュードという抵抗し乗り越えてゆこうとする階級の活動が境界付けられていっている。この辺は、ネグリの方が、より自覚的に語るのではないか。マルティチュード−コモン軸を受け入れず、あるいは存在すらみとめず、場合によっては、官や資本に取り込み、抵抗を変質させようとするような、そのような力とどのように戦うのか。
 少なくとも、マルチーコモン軸は、歴史的には資本の前からあり、逆ではない。もう少し、資本、市場に対して、誇りをもってもいいだろう。われわれの方が、生命、生態系の主体なのだと。現代社会の根本的な問題を解決する力、知恵は、それらを作って来た、自然と社会を分断する新自由主義的個−資本の軸にある官、メディアにはなく、われわれ、マルチ−コモン軸の活動の中に潜在しているのであると。



3.全体討論


 最終的な結論は、マルティチュードがいかに戦うのかについて、「ネグリに答えを求めるな」という所におちつく。上野が、得意げに、さも、高説を垂れるがごとく、この答えをいうのには、やや辟易としたが、ただ、これは、本当にやむをえないことである。共産主義、宗教原理主義、のようなHow to、イデオロギーがあれば、革命指導者、宗教指導者と、その従属者という形の抵抗組織ができる。この組織化が強まる分、マルティチュードの柔軟性多様性による力は、削がれてゆき、形骸化し、資本制と異なるあらたな疎外が始まる。こういう批判は、組織宗教を徹底的に批判した、インドの哲人クリシュナムルティにもみられたものである。「真理は道なき大地である」と。ただし、現実的には、マルティチュードの性格を削がない程度での、政党政治、活動のありかたというのは、十分ありえるだろうし、そのレベルでの個性的戦い方は、それぞれあるはずである。
 その中でも、示唆的な発言はあった。コモンを構成するのが、分断された「個」individualではなく、関係性特異性からみた「個性」singularityであり、その点、社会の構成単位の捉え方からして、原理的にことなること。そして、れらの排除的競争ではなく、協働からなることである。そして、個性が関係からなる人間のとらえ方であると同じく、マルティチュードも一つの階級として、資本との敵対的な関係からなる概念であり、その中で成長するであろうことを述べている。マルティチュード的革命の様相は、アクターが舞台で活動するような、そういう形で、singularityの出会いの中で起こるものであろうこと。こういった中から、新たなコモン<共>が醸成されてくる。米国発で、世界化した「オキュパイ」運動や、中東の春、日本でのデモも、そんな文脈から連動して起きているのではないかということである。SNSでの言論を母体としながら、さらに「広場」という舞台にでて、マルティチュードがコモンを形成し、権力を示すようになる。ただ、歴史的にみると、女性の雇用機会均等化のように、マルチーコモン運動が資本に回収され、ただ曲解・同化されてゆき、そこからさらに、あらたマルチーコモン運動が開かれるような、波状の進展を起こすこともあるだろうという。
 運動をするには、舞台が必要ということだろう。私も、職場で以前は隠しながら読んでいた日刊ゲンダイを、おおっぴらに、見出しを見せて読んでみた。これなど、職場を舞台にしたsingularityの運動である。この講演の会議場は、官の会場ではあるが、マルティチュードの舞台になったと最後の締めの言葉があった。
 聴衆の質問に答える中で、ネグリは「キャピタルはリバイアサン、つまりエンペラーではない。労働者がなければ成り立たない。」と述べていた。資本は、それに従属するものがゼロになれば力をなくす、仮想的存在であり、集団的従属をまって初めて一定の仕方で関係を組織化するものである。たしかに、少なくとも実体のある「王」ではない。ちなみに、リバイアサンは、ホッブスの書名でもあるが、もとは、ヨブ記にでてくる「怪獣」で、ヨハネ黙示録の獣に類似した暴力的権力の象徴である。そういうネグリの、多分、歴戦の体験をへた感覚から、従属するものから、抵抗するものへという方向が語られる。小沢冤罪弾圧、原発事故、国民を無視したTPP交渉などが、目前で展開されているのを前にすると、特に、マスメディアが、それに結託しているのを見せ付けられると、そういう方向性が必要なことは否めなくなる。資本制に同意しながら生計を立てている個人ではあるが、その中にあっての実存的なレベルでの転換、それらが、それぞれの舞台で、主体性をもって運動を起こし、それがコモンとして協働されてゆくこと。そのHow toな答えはないが、官の中でも、民の中でも、資本の支配の真っただ中でも、この動きと活動性を起こし、あらたな存在の場を実存的に開くことはできるだろう。そう考えると、80歳のネグリ大先生が、官邸前の脱原発デモ隊のドラム隊を、微笑みながらみていたのが、よくわかる。Our Planet TVで動画もあるが、ドラム隊をみて微笑むネグリ写真が、ツイッターで回っていた。


https://twitter.com/wtsurumi/status/320168350145736706/photo/1


 子供をみつめる親のようである。歴戦の思想家が、異国のデモ隊に対して、こういう笑顔をみせてくれるのは、現実の厳しさはさておき、本当に希望や救いがあるものだ。こういう活動が、bio-politicsというのかとおもったら、wikiで確認してみると、そういう意味ではないらしい。この言葉の語感から、政治活動が政党ではなく、個人の実存、身体、生命の躍動と結びついた、政治のありかただと思った。それぞれの舞台で、個性がPoliticsを表現するということで、デモもそうだし、アンデパンダン展でのパフォーマンスもそうだ。Bio-Politicsがそれに使えないなら、私がそれを、Vital-Politicsと名付けてみよう。マルティチュードがそれぞれの舞台で、個性的に広義の政治活動をする有様だ。ソリチュードであってもいいだろう。Bio-Politicsのような被支配の有様ではなく、プロテストの在り様だ。


P.S.   街中の本屋にいって、NHKブックスネグリ本をぱらぱら実際にみてみると、「生権力から、生政治的生産へ」という項目があった。それを読むと、やはり、官邸前デモのようなマルティチュードの主体的表現を、ネグリは、bio-politicsと名づけている。wikipediaにのっているフーコーの定義とは、逆の使い方をしている。むしろ、こっちの方が自然だ。だから、vital politicsとあえて名づける必要はなく、「ネグリが言っているから」ということで、bio-politicsでいいだろう。これが、むしろ、本来のpoliticsの源泉である。この一つの公的な権力行使の形態が、投票権であるにすぎないが、昔、幾多のbio-politicsによって獲得された投票という行動は、資本に従属し、それによって組織化されているマスメディアの流布する一元的な政治情報(世論調査北朝鮮、中国のこれみよがしの脅威の報道など)によって、有権者への群集心理的な効果を起こされ、操作され、汚染されてしまっている。