福澤諭吉の愉快への忌まわしさ

 年明けの、岩上の福沢諭吉関係のツイートには、何か、明治から現代に脈々と続く、日本人の政治的身体感情の闇の正体というものを感じさせた。「学問のすすめ」は読んだこともなく、福沢がどういう思想の持ち主かは知らなかったのだが、ここで述べられていることは、一つの日本人男性の「常識」、「強さ、父性の証明」のように、現在に至るまで続いているように思う。身近な、戦中派世代の男性(有体に言えば私の親だが)でも、「朝鮮人は悪い奴ばかりだ」「世界で最も劣った民族だ」といってはばからない者がいる。世界を回っていた、その世代の親がそういっていたと。そんなことはなかろう、朝鮮人でもいい人はいるし、どうしようもない奴もいる、民族全体を否定することはできないと反論すると、相手は感情的に、「オレの常識、強さの証明を受け入れないのか、この野郎」といった感じの空気感を漂わせる。この感覚は、今現在でも、確実に、石原慎太郎的なもの中に現れているし、その中核は、安倍晋三にもある。彼は、中国、朝鮮、韓国人を、すでに、対話の相手とみていない。ここに、ドイツが戦後、国をあげて乗り越えてたもので、日本が国として乗り越えていないもの、放置している人倫の欠如があるとともに、それが今は、米国の一部勢力に利用されているような、日本のトラップがあると私は考えている。
 それを端的に、福澤の記した「愉快」として、私から言うと忌まわしさを感じさせる身体感覚を含むような感情として、今回取り出したのだが、これは、日本人が、戦後の歴史を、前を向いて世界と共に歩むためには、是非、総括してゆくべき、闇の中枢たるものであると思う。この闇は、今も、慎太郎のみならず、百瀬、籾井などの安倍NHK体制の中枢でも、うごめいている。日本を確実に破滅に追い込むような、無知蒙昧で傲慢な何かが、この「愉快」の中に存在していると感じる。