日本が自ら総括すべき闇としての福沢諭吉の「愉快」

1.福沢諭吉の「愉快」 −圧制への意志と、それをも超えるもの、レイシズムの極点としてのポア的なるものの肯定ー

2014/01/04 【岩上安身のツイ録】「圧制もまた愉快なるかな」〜福沢諭吉の「時事新報」論説を読む 「栄光の明治」の延長としての「暴走の昭和」、そして現代 
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/118697


【以下部分引用】

福沢諭吉の対外政策に関する論説群は、ありのまま読めば、ネトウヨと変わらない。こう書くと、ネトウヨの元祖は明治の「知の巨人」、ということになり、ネトウヨにお墨付きを与えるようで、複雑ではあるが。

 二、三、紹介しておこう。1882年3月に書かれた論説。「圧制もまた愉快なるかな」。タイトルからして悪魔的、かつ今日的である。ほんの少し前なら、圧制など過去の話と笑って片付けられたが、安倍政権の誕生以降、誰も笑えなくなった。140年前の論説は、今も命脈を保っている。

 福沢諭吉は、洋行中に目撃した、英国人が中国人に対して、「幕吏」の如く、威張り散らしている様子にふれ、なんと「英国人民の圧制を羨むのほかなし」と書く。羨ましい、というのだ。そして、いつの日かその英国人民すら奴隷のように扱いたい、と続ける。

 「その英人をも奴隷のごとくに圧制して、その手足を束縛せんものをと、血気の獣心、おのずから禁ずることあたわざりき」。中国人を憐れむのでもなく、英人を憎むのでもなく、圧制する側に立てば愉快だろう、というのだ。

 締めくくりはこうだ。「圧制を憎むは人の性なりと言うといえども、人の己れを圧制するを憎むのみ。己れ自ら圧制を行うは、人間最上の愉快と言いて可なり(中略)」。福沢は、圧制は最上の愉快、と言い切っている。その後、こう続く。

「……今日、我輩が外国人に対して不平なるは、なおいまだに彼の圧制を免れざればなり。我輩の志願は、この圧制を圧制して、ひとり圧制を世界中にもっぱらにせんとするの一事あるのみ」。要するに世界征服宣言である。その理由も、自存自衛のため、などではなく、愉快だからである

1894年7月。「日清の戦争は文野の戦争なり」というタイトル。これは国と国との戦争ではなく、文明と野蛮の戦争であり、野蛮を文明化する戦争であると主張する論説。ここで皆殺しを肯定する。「陸上の牙山にてもすでに開戦して、かの屯在兵を皆殺しにしたることならん(中略)」

 「……幾千の清兵はいずれも無辜の人民にして、これを皆殺しにするは憐れむべきがごとくなれども、世界の文明進歩のためにその妨害物を排除せんとするに、多少の殺風景を演ずるはとうてい免れざるの数《運命》なれば、彼らも(中略)、その運命の拙きを、自ら諦むるのほかなかるべし」。

 そして、中国人が反省したならば、「多少の損失のごときはものの数にもあらずして、むしろ文明の誘導者たる日本国人に向かい、三拝九拝してその恩を謝することなるべし」と、虐殺しても感謝されるはずだと、気の狂ったようなことを書いている。

 同年8月8日には、朝鮮人の赤ん坊を抱いた日本兵が中国人の頭部に「文明」の弾丸を撃ち込む漫画を掲載した。http://p.twipple.jp/jD3aQ

【以上引用終わり。以下、コメントツイート】


 福澤諭吉は、学問のすすめ、だけではなく、戦争の、中朝侵略のすすめ、これをオウムのいきついたポア顔負けの論理で正当化してやっていたように読める。黒人を奴隷にしていたごとく、それが時代精神としてあったのだろう。列強による軍事力による「圧制への意志」である。

 しかし、これこそ、石原慎太郎に直結する原始的な精神でもある。さらに、それが愉快だというのは、ある種の感覚の不在、自己の尊厳、ある方向でのプライドの感覚の不在を感じさせる。そういいきるような精神構造は想定はできはするが、それには、身体的な卑しさといっていいようなものがともなう。これは、単なる人種差別というよりも、一歩進んで、オウムのポア、あるいは、ナチスユダヤ人への虐殺につながる程のものである。

 この卑しさと、マンデラの高貴さを、公開で対決させたら、どうなるか。封建制ではなく、代議制の社会において、どちらに支持が集まるか?それは、現代社会において、どちらに権威が宿るかという問いとイコールとなる。



2.向井敏明少尉の「愉快」

南京大虐殺、被害者は30万人でも15万人でも(極端に言えば)どっちでもいい
森達也
http://diamond.jp/articles/-/46816


【以下関連ツイート】

森達也の論考記事の題名は、ちょっと誤解を招きかねないので注意した方がいいと思う。南京を東京に変えてみたら、どうだろうか?相手国の人間はどう思うだろうか。内容は考えさせられるが、その点が、その割り切りが心配である。


1937年12月13日東京日日新聞(現在の毎日新聞)より引用
「『百人斬ドロンゲーム』の顛末を語つてのち 知らぬうちに両方で百人を超えていたのは愉快ぢや」
 この毎日記事の見出しは、「百人斬り超記録 向井106−105野田 両少尉さらに延長戦」となっている。
この少尉の言葉の中に、まさしく、岩上さんが引っ張り出してくれた明治立国期の福澤諭吉が侵略論で語った言葉、これが、最も深く醜いキーワードだと思うのだが、「愉快ぢや」これが出てくる。この道徳的欠陥をついて、レイシズムの中、虐殺が空気の中で決行されてゆき、新聞がスポーツ記事のように書く。
 もうひとつ言うと、これは、外国人に対する特定の日本人の態度のみではなく、日本人間でも再現される態度でもありうる。軍隊内でも、虐殺までいかないが、同様の圧制が横行していたであろうことは、想像に難くない。ちょっと飛躍するが、これは、現在の日本の教室内のいじめに似ていないだろうか?教師が、毎日新聞記者のようにいじめる方に加担して、葬式ごっこに花を添える。記事にあるように、「大虐殺君」と南京(フィクションでの人名)にあだ名する。
 福澤の言葉は、公刊されていたわけだから当時の少尉も読んでいたかもしれない。明治期の知識人を介して、脈々とその態度が、「よし」「勇者」として教育されていったかもしれん。この辺に、日本の病根がある。自衛戦争を超えた武力のゆがみだ。この「愉快」を総括しない者には日本の軍の統率をさせてはならない。




3.石原慎太郎の「愉快」な演説

都知事選 田母神も困惑した石原慎太郎のおぞましい演説
http://gendai.net/articles/view/news/147471

「マイクの調子が悪いなあ。壊れているのは韓国製だからじゃねえか」
 のっけから、この調子だった。発言の主は日本維新の会石原慎太郎共同代表(81)だ。都知事選初日に田母神俊雄候補(65)の応援演説に駆けつけ、差別発言のオンパレード。昼下がりの新橋SL広場で、通りがかったサラリーマンたちをドン引きさせていた。
 石原は「“シナ”の植民地になりたくない。チベットみたいな国になりたくない」と聴衆に同意を求めると、「出てきている候補を見ると、変なヤツが多いねえ」と他候補批判を開始。まず口汚く罵(ののし)ったのは細川・小泉の脱原発コンビだ。
「ワケの分からない殿様が出てきて原発を明日から止めろって。これに火をつけた暇を持て余した小泉センセイ、これも単細胞」

 原発を止めれば産業がダメになる、とひとしきり持論を展開すると、再び「この時期になって小泉とか細川というキチ×イが出てきて」と、とても活字にできない言葉を発するのだ。



そして、
4.石原隊長の「愉快」な行動よって日本が嵌った、尖閣トラップ
 2013-10-26 日本は、今、ハニートラップならぬ、尖閣トラップに嵌まっている
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20131026#1382801592



P.S. 1月31日記
 題名に、「日本が「自ら」総括すべき闇としての福沢諭吉の「愉快」」と、「自ら」をつけた。太平洋戦争で、この愉快レイシズム的な明治創設の父性は、外圧によって崩壊した。しかし、終局的には自ら総括できないと、いくらでも癌のように再発し、日本を傲慢な孤立に導く。このような総括を、自虐史観と批判する者は、この「愉快」な感情、この圧制への、国家の、あるいは「父」の意志を、サヨクがいい子ぶって否定することが自虐だというのだろう。だが、列強による愉快な圧制が無邪気に肯定される時代は、終わったのだ、それを自ら受け止め、歩むことが必要だという歴史認識である。こういった総括は、自虐ではなく、超越へ向けての総括である。 
 今現在、都知事選で脱原発が争点になっているが、原発を動かして多大なエネルギーを得るというのも、事故や健康障害、核廃棄物についての合理的議論への「圧制」の上になりたつ電気浪費、収入増加の「愉快」である。またそれは、原発労働者の健康被害を絶えず誤魔化すという「圧制」も内部に必ず抱えている。ここで、明治期からの愉快圧制派、外交放棄被害妄想マッチポンプ軍事国家派の石〇、田母〇陣営が、原発事故での健康障害を「圧制」的に否定し去る最右翼でもあるのは、偶然では全くない。内的必然性がある。こういう表面的な威勢のよさの裏に巣食っている醜い部分の俯瞰ができて始めて、安倍やその取り巻きが取り戻そうとしているものが何なのか、明治維新以来、歴史的に「日本」という国に強固に根を張って拡がっている集合的な動因がなんなのかが、やっと掴めるような気がする。このくらいのレベルの俯瞰を得て、やっと「それ」を檻に入れることができる。ここまでやらないと、「それ」の生み出す「愉快」への集合的動因に、今現在のように日本人集団は呑みこまれてゆくのではないか。
 今回の都知事選で脱原発候補が勝つことは、「愉快な圧制」的父性を日本が「自ら」総括することにもなると思う。そして、この勝利自体が、新しい価値を持つ父性の出現にもつながることである。