浜松国際ピアノコンクール3

本選1日目、11月23日にも会場に足を運んだ。4階席には空席はそれなりにあるものの、私が座った3階席の下側はびっしり埋まっていた。
 最初は内匠慧君で、ラフマニノフの協奏曲第2番を演奏した。出だしから、中声部の音の粒も、はっきりと出すなと感じるとこどがあり、これからどんな表現をしてくれるのかと期待したが、なかなかこれはというような、引き込まれる演奏にはなってはいかなかった。もちろん、曲のよさや盛り上がりは、十分堪能できるのだが、演奏者の個性や表現力という点では、どうしても力が足らないところがあったと思う。これはちょうど、同じ古典落語の演目をやっても、前座がやるのと、真打がやるのとでは、まったく聞く方の身の入り方が違うということに似ていると思う。
 次のアンナ・ツィブラエワさんのシューマン協奏曲では、オーケストラの響きに一体感や張り、集中力が出てきたように感じられた。それに、彼女のピアノが誠実に答えてゆくような、緊張感のある、実のある、見せ場が続いたと思う。おしくも、ところどころに散りばめられてしまうミスがあるので、どうしても聞いている方も安心して「ノリ」切れないところがあった。しかし、内匠君の演奏にくらべると、オーケストラとともに艶がしっかりでてきていて、演奏としては聴きがいのあるものだった。
 そして、最後が、優勝者のイリヤ・ラシュコフスキーによる、プロコフィエフ協奏曲第3番。プロコフィエフは、あまり聴きこんでいない作曲家なので、このピアノ協奏曲も初耳だったが、現代的な作りの割には、非常に楽しませるものがあった。加えて、彼がひきはじめてすぐに、そのピアニズムの鮮やかさと確かさが感じられ、まさしく「真打登場」と感じさせるような瞬間であった。その感触が、最後までつづき、時間の過ぎ去るのを忘れさせるような、質の高い音楽体験を得ることができた。聴衆も熱気を帯びつつ静まり返り、その中で彼と井上道義都響による息の合った共演が、二楽章、三楽章と進むうちに、初めて聞いたに曲もかかわらず、この演奏は、この曲のこれまでの演奏の中でも、指折り数えるような名演に属するようなものではないだろうかと感じるようになった。音の出し方がシャープで的を得ており、かつ、3次予選の演奏であったようなdryで、やや表面的な感じをさせるような違和感はなく、歌わせるところは非常に気持ちよく歌わせていた。多分、井上道義テンペラメントが、彼のピアノから非常にいいところを引出し、それに呼応して、オーケストラも、ものすごく真剣な音をぴったりと出すようになっていったのだろう。コンクールならではの、一期一会の緊張感がありつつも、新しい才能が芸術的に突き抜けた価値をみせつけてくれるような演奏だった。曲の最後には、ブラボーの嵐だったといっていい。日本のコンサート会場で、こういうブラボーを聞くのはなかなかないのではないか。彼の演奏は、浜松の聴衆のsilenceを完全に味方につけ、最後ははちきれんばかりの喝采で終わった。これを聞き終わった時点で、明日の3人が、彼の演奏を超えることは、難しいだろうと思われた。3年前にチョ・ソンジンの本選演奏を聴いたあとも、これはもう優勝だろうと思ったのだが、その時と似た感触であった。
 演奏後のラシュコフスキーYou tubeインタビューをみると、この演奏に彼もかなり入り込んでおり、聴衆の反応に興奮していると答えていた。また、意外にもというか、やはりそういうこともあったのかというか、時々コンサートの後で悲しくなることがあると述べてもいた。多分、どこか身のはいらない、ダイナミックであっても音楽の表面をなぞるだけの演奏をしていると、つかれてむなしい感触を残してしまうこともあるのだろう。しかし、少なくとも本選の演奏は、3次予選の演奏とはことなり、熱のこもった、魂の入った、かつ消耗させるようなものでもなく、充実感を聴衆と、奏者にも残すような演奏だったと思う。井上道義というタレントと、あるいは、もしかしたら浜松の聴衆の音楽に対するsilenceの質が、かれのミューズを引き出したのかもしれない。



P.S.
ライブドアしたらば掲示板、国際音楽コンクールを語る板の中のスレッドに書き込んだ文章だが、それなりに意義がありそうなので、残しておきたい。いずれも、批判的な方向に傾いているスレッドの流れの中で発想したものである。そういう針のむしろの批判にどう応答するかという時に、いいアイディアが出たりする。公式ツイッターでも「ヒョウロンカのいる実況板がある」という揶揄するツイッターが拾い上げられていたが、この実況板のことだろう。

浜松国際コンクールの意義について
「若手の登竜門でもあるし、敗者復活戦でもある浜コンの意味があるとは思う。それは、ピアニストを受け入れ育てることである。また、音楽の本来の楽しみや価値を再発見し、その喜びを自然にはぐくむことである。ピアノ製造の街でもあるし、ピアノ教師が多い街でもあるから、そういうニュアンスのコンクールができるのだと思う。」

浜松ガラコンサート酷評に対して
「多分ラシュコ君は、本選の場でかけがえのないような演奏体験をしている。それは、彼の中に潜在的にあったものが、井上道義という個性と才能との共演の中で、引き出され、聴衆とオーケストラを一体にするような音楽体験である。また、本人の中にも音楽を演奏することへの深い充足感をもたらすようなものである。
 彼は、本選で化けて、浜コン1位を文句なく勝ち得たといえる。しかし、その体験を十分消化して、自分のソロピア二ズムの中に落とし込んでゆくのには時間がかかるだろう。これからのことについては、理想的には、彼を化かした井上道義に、責任を持ってもらい、年に一回ぐらい定期的に、協奏曲をやってみるのがいいと思う。日本各地のそこいらじゅうでリサイタルをやるよりもずっと、かれのピアニストとしての成長につながる。それから、井上の他にも協奏曲や、室内楽の領域で、音楽体験をつみかさねるのが足しになるかもしれない。ソロピアのは一種の抽象芸術だから、より旋律性のある楽器との歌のあるwetな共同芸術の体験があったら、刺激になると思う。
 たとえば、指揮者も、オペラを指揮する経験が、十分ありすぎるぐらいある指揮者の方が、交響曲を非常に人間的に味のある解釈で鳴らすことができることがある。私は、日本人の指揮者では大野和士をもっとも買っているが、彼はそういう指揮者の一人である。彼は、オペラと演歌が、まったく同じ情緒性の上になりたっているとてらいもせず述べていたが、そういう音楽の芯にある心の歌や陰翳といった要素を、ピアノの場合は弦楽器との共演や、才能のある指揮者との共演のなかから、つかみとってゆくことが必要になってくるんじゃないか。
 ラシュ君は、大化けする可能性も含めて、審査員は一位を与えたのだと思う。浜松ならではのラシュ君で「やらまいか」精神ということだ。マエストロ井上が、自分が才能を開花させてしまったことに責任を持つことを期待したい。
 多分、これは、中桐さんにもいえる。もの凄い深い繊細な所で、彼女は歌い始めており、何かをつかみ始めいてる。ブラームス1番の2楽章をみなおして、あらためてそう感じた。逆に、今日のスレでは「演歌歌手」と揶揄されているが、まあ、それにつながる情緒であっても、問題はない。今回、開花したものを、陳腐なものに堕さないように、彼女の才能のなかに取り込んでゆけるかが、今後の課題だろうが、多分、大丈夫だろう。こういう音楽体験があれば、どんな批評にも折れないような芯が生まれる。
 そうなれば、生涯、音楽家であることをやめなくて済むだろう。」