検察・メディアによる『人物破壊』から、我々の代議士を守るべきである

 この3年間で、いろいろな日本に横たわる現実を、身をもって学ぶことになった。検察組織が捜査報告書を偽造してまで、国民の選んだ代議士の一人を葬り去ろうとしたこと、NHKを含めたマスメディアは、その代議士を守るどころか、むしろ先導してまで、極めて陰湿で組織的な人物破壊報道を繰返したこと。そして、検察とマスメディアの矛先は、一国民的政治家、代議士の人物破壊を通して、まさしく彼が代議していた、あるいは、彼を支援していた、私も含めた日本国民ひとりひとりに向けられていたことである。 これが、「健全な法治国家のために声をあげる市民の会」の告発活動を含めた詰めのある追求によって、白日の下にさらされた。政権交代の理想の実現は砕け散ってしまったが、その過程で、日本の検察機構、官僚機構、つまりは中央行政府と、マスメディアの本質的特徴、すなわち、拠って立つ大本に癒されがたい虚偽があることが証されたことは、日本国民の覚醒にとって大きな進歩であるのではないかと思う。政権は戻ったものの、以前の自民党政治のやり方には、表面的にしか戻れないのではないか。恥など知ろうともしないマスメディアは、イラク戦争と同じくなんの総括もしようとしないが、国民は大規模な政治弾圧劇を目前でみてしまったことで、大きな違和感を内部に抱えている。
 今後の教訓として、議会制民主主義の象徴的存在である代議士を、マスメディアや検察の人物破壊活動から守るような仕組みを作る必要があるのではないか。今回総選挙の結果は、結局、国民の代議士たちが作ろうとした政権が中央行政府とマスメディアの手で破壊されつつあることに乗じて、国民ではなく官僚とメディアに魂を預けてしまった代議士が勝利していっただけである。小沢潰しの政治疑獄の発動に、麻生政権下の森法相がかんでいたと、平野貞夫の証言があるが、その時の麻生が、副首相、財務相に返り咲いた。この流れは、菅、野田の延長線上にあり、かつ、その完成型でもあると思う。議会制民主主義というよりも、その源流が、明治維新や戦前の官僚機構にまでさかのぼるような世襲議員たちが、官僚、メディアのつくった「広場」のルールの中で、政治ごっこを演じる役になったというように感じる。安倍は成蹊、麻生は学習院だが、世襲政治家が、東大卒の官僚群に飼いならされているという構図が、どうしても意識をよぎる。ただし、3代目以降の彼らは、先祖が枠をつくり、官僚が用意して、場合によっては官僚が犯罪を犯してまで、正当に選ばれた代議士を排除しながら維持される「広場」で政治を行なうことを、本気で政治家の仕事と思っているのかもしれない。敗戦国政府の中の、さらにブッシュジュニアのような役回りだろう。
 結局、検察とメディアの抜本的改革がなされないと、代議士は、仕事として誠実に国民を代議して、政治を行なうことができないことがわかった。その時だけ国民のためのそれらしい公約を述べても、当選すれば、代議士は検察とマスメディアの人質になってしまう。生殺与奪権は、有権者を代議していない彼らの方にある。この状況に風穴をあける必要があるが、この3年間の間に、確実に大きな穴はあいた。田中角栄事件のように、もう隠し通すことのできない、大きな穴があいたのだ。代議士としては、紆余曲折の後、生活の党党首におさまった森ゆうこ議員がこの問題にまさしく正面から取り組んでくれた。国民としては、感謝に尽きないほどの戦いをしてくれたと思う。小沢事件の真相究明への覚悟を弁じた池袋公会堂の席で、自分の活動を鼓舞する原点を、会場にいる皆さんですと発言していたのは、忘れられない。市民の会の活動もそうであるが、ネット情報時代の成果ではあり、これが、政治の政界に明治維新に匹敵するなにかを、時間をかけてでももたらすのではないかと、期待してゆきたい。