「日の丸」象徴をレイシズム、尊皇攘夷的興奮から救出できるか?

はびこる排外主義とレイシズムに日の丸が泣いている|森達也 リアル共同幻想論|ダイヤモンド・オンライン
http://diamond.jp/articles/-/34875

新右翼団体一水会鈴木邦男最高顧問が『先ほどの映像を見て非常に悲しくなりました。日の丸の旗が可哀想だと思いました。日の丸はもともと日本の優しさ、寛容さ、大和の国を現す旗です。それが排外主義的なものに使われている。日の丸の旗が泣いていました』」

「日本の右翼の源流といわれる玄洋社は、五族共和や大東亜共栄圏思想を掲げながら、アジアの人々と連帯することを活動の理念とした。そもそもは自由民権運動が彼らの思想の原点だ。ただし大東亜共栄圏思想は、後に軍部に表層的に利用される。だからこそ頭山満は、クォン・デ以外にも、孫文やビハリ・ボース、金玉均やファン・ヴォイ・チョウなど、アジアからの亡命者や政治活動家たちを徹底して庇護しながら、彼らを弾圧する日本政府のやりかたに対しては異を唱え続け、たとえば満州国建国式典への招待には、頑として応じようとはしなかった。」



 このリンク記事も、ツイッターで引っかかって、知ったのだが、これを読んで、日本のもともとの右翼、民族主義大東亜共栄圏の原思想が、どうだったか、はじめて垣間見た。それは、民族相互尊重主義にのっとった共栄圏であり、現在のEUや南米同盟みたいなものが、原思想だったらしい。たぶん、欧米列強帝国からの侵略に対する集団安全保障という局面もあったのだろうと思う。それが、政治家、官僚に盗まれ、日本による植民地政策に変わってしまった。その過程で、大東亜共栄圏ではなく、皇国史観による、天皇を中心とする大東亜皇国圏となる。 日本右翼の源流は、皇国史観にがんじがらめになっていたのではなく、欧米列強に対し、アジア民族を全体として守り、連帯してゆこうとしていたようだ。大和心の原点は、「大和魂」ではなく、そういうおおらかさもあるのではなかろうか。そう見ると、在特会の振る「日の丸」は、泣いている。少なくとも、彼らによって、「大和心」が、日の丸が侮辱されているようにみえる。そこから、ヘイトスピーチ尊皇攘夷的興奮の渦の中から、わが国の国旗である「日の丸」象徴を救い出し、新たな意味づけをして、新生させることはできるのか?国民を犠牲にした戦時体制を敷いた象徴として、日の丸国旗を拒否するだけでは、創造性がない。戦後の、実質は敗戦を踏まえた後に、国家が前にすすむための統合の象徴として、日の丸を、在特会が振り続ける敗戦時のままのイメージから、救い出すべきではないか?すべての日本国民が、誇りを持って振れる国旗に「日の丸」を新生させるべきではないか。

 
   Wikipediaをみると、10代の崇神天皇が、宮廷内に祀られていた、日本の太陽神である天照を、宮廷外で祀るようになったところに、源流らしきものがあるとのことである。それが、「錦の御旗」として、武士の戦いの場に掲げられるようになり、あまり一般的な表現ではない、白地に赤丸というデザインは、源平合戦で源氏側がたてたものに由来するらしい。その後、江戸太平期には、江戸幕府の公用旗として使用され、熱海から温泉を江戸に運ぶ船に、日の丸をつけたりしている。また、対外的には、琉球から中国への進貢船にも、日の丸をつけている。この時点では、日の丸は、「神の国日本」を象徴するものまで、祭り上げられておらず、幕府の公旗であるとともに、紅白の縁起物でもあり、対外的には国旗として扱われていたのだろう。
  それが、黒船来航という対外的な脅威をきっかけに、水戸学と国学のよりあわせの中から、中国のような天明移動の政体変更のない「万世一系神の国」という日本皇国史観がつむぎだされるにいたる。江戸時代の「お国」という出身藩の意識から、神国の天皇につくす神の子、日本人という意識になり、その象徴として日の丸が現れる。これは、元々多神教的汎神教的な神道一神教化し、完全な祭政一致となる教義である。だから、廃藩置県が行われるとともに、神仏分離、後に廃仏毀釈運動(廃仏運動)とも呼ばれる民間の運動が引き起こされた。五百羅漢の首がはねられるなど、イスラム原理主義を思わせる激しい排外気運が、自発的に、民衆の中にも巻き起こるようになったようである。
 この神道の現人神による一神教化は、「古事記」を日本書紀の上に位置づけた本居宣長を代表とする国学と、水戸の「大日本史」編纂事業から発した水戸学の寄り合わせのなかから、対外脅威に刺激される中で出現している。「国学」は、日本の古典に帰れというような、ヨーロッパのルネサンス運動に類似している。ところが、同時に、ヨーロッパには科学精神、批判精神の萌芽があったが、日本の国学には、それが弱く、文献解釈学、言語学だった。そういう違いもなかろうか?本居宣長から、平田篤胤にいたり、古典解釈が、自分の誇大的な日本の選民思想の実証であるとして提示されるようになり、さらに、この世とあの世の形而上学、ドグマに飛翔していってしまったらしい。彼は、昨今のスピリチュアルカウンセラーのような、来世を語るわらべが出現したとみると、必死に、わらべから実状をきいて、学説の参照にしていった。また、彼は、思想形成にあたって、キリスト教、つまり「神の国」やそれに向かった殉死をも内包するような宗教をも参考にしている。皇国に殉死した死者の御霊をまつる、軍部が管轄する靖国神社という施設の背景に、神道と一体化した、そういった彼の幽界観が、影響している可能性はないだろうか。平田は、新興宗教の教祖のような、かなり特異でエネルギッシュな活動や著作をしていたらしい。
  水戸学の中では、「会沢正志斎」が、尊王攘夷思想形成に重要な役割を担っている。やおろずの神の中のアマテラスを、「天祖」として位置づけ、神道一神教化してゆく。小島毅の『靖国史観』ちくま新書刊 に経緯は詳しい。複数の学者が、この「天祖」は、彼の造語といっていいといっているので、そうなのだろう。



以下、Wikipedia 水戸学抜粋

文政7年(1824年)水戸藩内の大津村にて、イギリスの捕鯨船員12人が水や食料を求め上陸するという事件が起こる。幕府の対応は捕鯨船員の要求をそのまま受け入れるのものであったため、幽谷派はこの対応を弱腰と捉え、水戸藩で攘夷思想が広まることとなった。事件の翌年、会沢正志斎が尊王攘夷の思想を理論的に体系化した「新論」を著する。「新論」は幕末の志士に多大な影響を与えた。

 
 天保8年(1837年)、第9代藩主の徳川斉昭は、藩校としての弘道館を設立。総裁の会沢正志斎を教授頭取とした。また、藤田東湖も、古事記日本書紀などの建国神話を基に『道徳』を説き、そこから日本固有の秩序を明らかにしようとした。弘道館江戸幕府の最後の将軍であった徳川慶喜の謹慎先となったが、慶喜薩長軍との全面戦争を避け、大政奉還したのは、幼少の頃から学んだ水戸学による尊皇思想がその根底にあったためとされる。


 明治維新後、水戸学は、その源流でもある徳川光圀とともに、多くの人々に讃えられたが、最も心を尽くしたのは明治天皇である。天皇は、光圀・斉昭に正一位贈位、その後光圀・斉昭を祀る神社の創祀に際して常磐神社の社号とそれぞれに神号を下賜し、別格官幣社に列した。水戸の犠牲の上に明治維新が成り、また徳川慶喜の水戸学に基づく恭順により幕府対薩長という西洋列強の傀儡戦争をも避けたことは、日本の歴史上特筆されることである。後に乃木希典陸軍大将は、明治天皇崩御後、当時の皇太子裕仁親王に水戸学に関する書物を献上した後に自刃している。

引用以上


 水戸の尊王思想が、徳川慶喜をして大政奉還をなさしめ、さらに平田による国学の発展形を取り入れながら、列強から日本の統合性を死守した役割をなした国家神道となった。そして、昭和期には、本来EU的構想であったであろう大東亜共栄圏皇国史観で染め上げてゆき、これまでの成功体験から慢心化して官僚化硬直化した挙句に、進取柔軟な米軍との対戦に敗れ去った。敗戦後の混乱期を経て、サンフランシスコ講和条約が締結され、江戸末期に形成された皇国史観国家神道という新興宗教の、天皇も含むであろう政治官僚軍人勢力が、「親米保守」あるいは、「属米保守」という自滅的で奇怪な変節を遂げた。保守といいながら、国家管理のための、あるいは地位保全のために、いざとなると、いつでも売国に傾く中間管理職となる。靖国を利用した、偽装保守であり、偽装愛国でもある。サンフランシスコ講和条約によって、日本人は、旭日旗の下での幼児的万能感の中に、あるいは、過ぎ去った過去の栄光の夢の中に、閉じ込められたのではないか。主権を奪われた象徴天皇の下に。
 今後、我らが国旗である「日の丸」が、何を象徴するのか、また、未来にむけ何を象徴させてゆくのか。水戸学-明治維新の流れの中でできた新興宗教的な国家神道の硬直化した亡霊から目をさまし、そろそろ日本人自身の手によって、頭によって、再考すべきではないか。独自の統合性を失った集団は、ばらばらになり、結局は、より強力なものに呑み込まれる運命になるだろうから。冷徹にみると、TPPは、結局は、そのプロセスではないか。致命的に困難な問題だが、(カナダは1960年代の国旗制定にあたって、大議論をしたらしい)、誰かが、明治維新を、敗戦を乗り越える、日本の統合性のための理想を語るべきである。それは、第3の黒船襲来ともいえるTPPに、まったく抵抗できずに、資本に、テレビコメンテーターにいいように洗脳されないためにも。ただ、現実は、最近放映された池上彰のニュース解説によるTPP説明にみるように、国民がテレビに、いいように扱われているという、悲しさがある。





【参考「日の丸」画像】
1.ヘイトデモ、国会で追及 「極めて残念だ」安倍首相も追い込まれ
  2013年5月7日  田中龍作ジャーナル 
  http://tanakaryusaku.jp/2013/05/0007081


2.「主権回復の日」式典、反対したのは沖縄だけではない
  国会議員は半数以下、都道府県知事も半数近くが出席せず。「予定外」の時代錯誤的「万歳」。

記録のために記しておこう。
ほとんどの報道では、4月28日の政府による「主権回復」式典の写真は、檀上に座る天皇夫妻の横でスピーチを読み上げる安倍首相のものが多いが、29日朝刊の「琉球新報」の第一面には、二人を前にしほぼ満場が「万歳」の姿勢をしている写真が掲載されていた。

Peace Philosophy Centre Monday, April 29, 2013
http://peacephilosophy.blogspot.jp/2013/04/blog-post_29.html


 安倍晋三以下に、「天皇は、もう現人神ではないんですよ」「先代ご本人が宣言してますし、国民も知ってますよ」と、脱洗脳するような処遇が必要なのかもしれない。この脱洗脳から、天皇の「神性」によらずして、あるいは、日本人の誇大妄想的な優越民族であるという不遜な、ガラパゴス的な特権意識によらずして、つまり、尊皇攘夷によらずして、いかに、国際社会の中で、日本という国の統合性を、下からも上からも練り上げてゆくのか、あるいは、それを守ってゆくのか、という問いが生まれる。憲法改正論議も、本来は、この点から入ってゆくべきだと思う。
 つまり、日本人にとって、各人の「人権」が尊重されるべきものであるという観念を獲得することは、天皇人間宣言から、これを本気で認めることから、始まるのではないかと思う。人間宣言を本気で受け止めれば、天皇の神性につながるかたちで、自己の存在、権利の基礎を置くことはできない。彼は、一国民と変わらぬ、人間であると、自らいうのだから。その先に、失われた神性の先に、日本人が、自己の存在そのものに、尊重すべき、侵すべからざる基本的人権を見出す方向にいけるのかどうかである。新たな日本の国の統合性として、現人神天皇と人民との、忠孝一本によって形成される国体から、個人の尊厳の方向に、守るべき対象は、移行してゆくだろう。それを、どう日本的に位置づけるのか?


参考リンク
追悼 なだいなだ氏 http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130609 
  本年6月に亡くなられた、精神科医で作家のなだいなだ氏が書いた、なくなる前のブログ「打てば響く」にて、「大村益次郎」という長州藩出身の冷徹有能な蘭方流兵法家がいたことを知った。もともと医者だったが、そっちの方は藪であったという。彼は、はなから、国軍兵士の士気を鼓舞するという目的のために、戦死者を天皇が拝みにくるような靖国神社を構想した。こういう歴史からみても、靖国は、決して神道の神社などではなく、近代の軍事兵法のソフト面を支えるような軍事施設である。

TPP断固反対 自民党公約違反糾弾 演説会・街頭デモ、参加記

1.演説会・デモ参加

 これまでも、2010年10月24日の小沢事件に関連した、マスメディアと検察の横暴を糾弾するデモを皮切りに、ここぞという時には、デモに参加してきた。その後、3.11を経て反原発デモにも数回参加したが、今回、TPPに関して、その時が来たと感じるところがあり、5月12日に新宿まで遠征し、デモ行進に参加させてもらってきた。デモを主催してくれた小吹氏は、小沢事件でもデモを粘り強く打ってくれていて、それに一度私も参加させてもらったが、今回も、お世話になった。デモ活動には、多種多様な人々が群がり、場合によっては、どうしても過激化、極端化する傾向もあるとは思うが、彼は、常識的な市民感覚から、それほど遠くはなれるとこはなく、一般人が参加しやすいデモの形を保ってくれている。日本の特に3.11後のデモ界(こういうものがあればだが)にとっては、貴重な人材だと個人的には思っている。 
 13時から、アルタ前広場で、2時間の演説会があったが、これは最初の部分だけ拝聴させてもらった。冒頭の小吹演説でが、論拠を尽くした上、ついに、安倍晋三売国奴に他ならないのではないかと、そのプラカードが掲げられ、聴衆の間に自然に拍手が沸き起こった。私もその一人だったが、やっぱり、彼のような男がリアルタイム売国奴ということになるのだろうと思う。次のラップ調演者(火炎瓶テツと称するようだ)は、国益とか売国とかいう言葉は、あまり使いたくないと言いながら、あえて言えば「売民奴」と表現していた。それもまた、一理ある表現であると思った。TPPは、国民の立法に関与する主権を、多国籍企業(これは外資だけでなく、日本の企業も含まれる)に売渡し、つまりは、主権を売渡し、国民を主権者ではなく、唯々諾々とコマーシャルに扇動される、単なる物言えぬ消費者の地位におとしめることになると思われるからである。
 その後、16時から、柏木公園発のデモ行進へ。天気もよく五月晴れで、新宿駅周辺の人出は非常に多く、おびただしいといえるほどであり、その中でシュプレヒコールを挙げていった。渋谷や銀座でやった時とくらべると、公衆の数はけた違いに多いような印象をうけた。その中で、「安倍晋三売国奴」というフレーズをコールするというのは、当に王様は裸だといっているようなものである。他にも「日本を守ろう」「日本の農業を守ろう」など、訴えてゆく。6車線ぐらいある公道の上から、新宿ビル街の合間広がる西の青空をしっかり見据え、腹から声を出すことで、さらにそれが唱和することで、何かが天に届くのだと信じる瞬間も持ちながら、デモ行進を続けていった。デモ行進時には、新宿のど真ん中で、信号規制などの交通規制を大々的にやってくれていたはずである。柏木公園に帰る時には、申し訳ないほど、大交差点のど真ん中を歩いて行った。迷惑もこうむった人たちもいるだろうが、日本は形だけでもデモクラシー国家である。警察に申請をすれば、我々には表現の舞台が、日本の中心地においても用意されるのである。この点は、感謝せねばならんだろう。どんな芸能人、芸術家でさえも、警察に言っても、こういう舞台は決して用意されない。市民の訴えに対して用意され、警察も動いてくれるのである。信号を止められた、不愉快な思いをしたという苦情もあるかもしれないが、デモ行進のときだけは、行進が尊重され、それに沿って、街が交通整理される。数十万の人々が行きかっていたであろう新宿において、それが起こるというのは、一つの奇跡といってもいい。我々市民が、その時だけは、主役なのである。



2.デモ参加後に

 昨年1月に参加した時の、「小沢は無実」のコールのときは、爽快感が残ったが、さすがに「安倍は売国奴」コールには、それだけではないものが残る。今の、自分の国のトップを売国奴呼ばわりする後味の悪さと、一方で、それが暴言ではなく、まっとうな批判であることであるというような、葛藤である。多分、聴いている通行人にも、なにかのショックを与えるフレーズではあったと思う。それが、覚醒になるか、否認になるか。ただ、安倍は、「TPP断固反対、ブレない」の公約で大勝した自民党の総裁であり、それを、舌の乾かぬ内に「TPPは国家百年の計」と言い放った者であり、まず、公約違反を確実にしている。つまり政治家として、国民をだましている。さらに、そのTPPの実質は、米国を中心とした巨大企業の利益確保を、日本国の法規や慣習よりも、上におくような、ある識者によればクーデターともいっていい条約であり、その本質は、貿易協定ではない。それを日本の「国家百年の計」とする山口県民の一人、安倍は、売国奴という表現をつかっても間違ってはいないだろう。「TPP入ります」と言って当選してやっているのなら、売国奴ではなく、国民がみずから売国をしているといえるが、「TPP断固反対」と言いながらやっているのだから、国民をだまして、彼が、さらにマスメディアとタッグを組んで売国しているのである。
 ここで、一気に深く考えると、先の大戦の敗戦ということを、国民がどう受け止めるのか、ただ負けましたといって、文化労働慣習など、もろとも米国のいいようにさせるのか、それとも、敗戦から学び、日本という国としてのまとまりを見捨てずに、新たに立ち上がろうとする気概があるのかということが問われている。こういうことの、最終的な問いかけが、TPPへなし崩しに参加するか、それとも、日本人それぞれが抵抗運動を続けるのかということにかかってきている。戦後70年の時点での、戦勝国との関係の持ち方である。これは、売国中間管理職として地位、利益が保障された、かつ、小沢排除にみるように、そのような方向に強烈な外圧、内圧が働いている場に立っている政治家、あるいはマスメディアのキャスターではなく、敗戦した当事者である国民一人ひとりが、眼を開いて立って主張しないと、なにも始まらないのだ。そういうことが問われている。だから、今回のデモは、新宿を通行していた敗戦国民である、われらが同胞日本人への切実な問いかけである。

 
 だが、現首相が売国奴であるというのは、ある意味、どうしようもない事実なのだが、それを、根拠を示すような前置きなく直球で公衆に表現すると、予期しない反応、誤解、拒否を招き、デモ参加者自身にも跳ね返ってくることになるかもしれない。あるいは、デモ隊を守り、監視する警察・公安の組織のトップ、彼らの組織的行動の尊厳の源泉は、現首相である。彼らからしてみると「お前の父ちゃん、人でなし」というような内容を突きつけられていることになる。つきつめると、「安倍が売国奴だ」と叫び歩くことは、もし、我々が単に泣き叫ぶ子供ではなく、本当に大人として筋を通すならば、安倍の権力によって動く者に頼らずに、場合によっては戦うことを内に覚悟してゆく必要が生じる。デモ参加市民に、あるいは、わたしには、そのくらいの覚悟があるだろうか?今回のデモ参加では、そいういう意味での葛藤が残った。警察、公安を含め、素朴で保守的な人々を挑発し対立を生むのではなく、シュプレヒコールの中で、いかに我々の主張に賛同させることができるのかが、デモが公衆にどの程度届き、メッセージが浸透してゆくのかのメルクマールになると思う。また、デモへの市民の参加しやすさにもつながるのではないか。
 だから、売国奴は、前後の文脈のわかる演説ではあってもいいとおもうが、短い言葉だけが勝負の公衆に訴えるシュプレヒコールでは、何か別の、ひねりのきいた、本質をついたフレーズはないかと思う所があった。「安倍晋三は日本の法を売るな」 とか「安倍晋三は日本の国を売るな」さらに、「安倍は日本人の主権を売るな」「日本の医療を売るな」「日本の農業を売るな」とかは、「安倍は売国奴」と内容は同じだが、このヘイト的な言葉自体による公衆の条件反射的な反応は緩和されると思う。警察公安諸君にも、ほうそうかと思っていただけるのではないだろうかと思う。一参加者の感想だが、今回のデモは、そんな思考の波紋をもたらしたデモだった。



ツイッターでの短文報告集。一人ひとりが記者のようなものだ。新宿を舞台にした、マルティチュードによるコモンの形ではないか。
「2013/ 5・12 TPP断固反対 自民党公約違反糾弾 演説会・街頭デモ」
http://togetter.com/li/502084

『自由意志による従属』としての日米関係、または『自由からの逃走』

 IWJ会員にせっかく継続してなっているので、『戦後史の正体』に始まる、敗戦後の日本の政治史への興味から、その原点ともいえるサンフランシスコ講和条約について重要な著作をあらわした三浦陽一氏への岩上インタビューを通して視聴した。

2013/04/23 『自由意志による従属』としての日米関係 〜中部大学・三浦陽一教授インタビュー
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/75646

 岩上のインタビューツイートをみて、この教授の話は聞いて損はないと思ったのだが、期待は裏切られなかった。以下、内容とコメントを箇条書きにしてみる。


・敗戦後早期に、どう日本という国を扱ってゆくか、中国の動静をみながらアメリカが方向性を決めかねていた5年間があったが、朝鮮戦争の勃発を機に、反共冷戦構造の中に日本を取り込もうということで、中国、ソ連の調印のないサンフランシスコ講和条約ができた。


天皇裕仁が、米軍に駐留してほしいという方向に、戦後早々に判断をしていたということ。これは、徳川幕府から明治政府へ、さらに、横田幕府へといった、武力を直接持たない天皇あるいは貴族階級、官僚階級が、その時代の戦いに勝ったものに恭順を示してゆこうとする、本能的遺伝的な行動パターンなのかもしれない。戦後の、「公武合体」である。天皇なりの、敗戦国家を守るための決断ではあったのだろうが、ここで、天皇裕仁が命脈を保つために親米保守的な変節を行った右翼の元祖なのかもしれないという痛切な現実が提示される。それが「耐え難きを耐え、忍びがたきを忍び」で、現在のTPPまでつながっているのか?マゾ・サド的な、従属による地位確保とともに自分の論理や国の基盤を壊してゆくような、ゆがんだ保守論壇が、戦後日本の特徴となった。『自由意志による従属』である。


・一方、それまでは、戦争が終わればアメリカンボーイは国に帰るんだという空気が、アメリカにはあったが、朝鮮戦争での特需を機に米国軍産複合体が形成されることになったこと。1951年サンフランシスコ講和条約の枠組みでの日米の原体験として、他国を戦場にした戦争による企業特需がある。この動きが、平時国家を作ろうとした1961年のケネディー暗殺につながるのだろう。資本の力が、人民の権利を制限しはじめる、現在に至る民主主義理念の限定化、形骸化への道である。


サンフランシスコ講和条約時、米日支配層が、お互いが正直にいって戦争犯罪を犯した国であること、および、反共であったことから、ある種の結託をした。米国は、日本に頭を丸めて周辺諸国へ謝罪賠償させないようにしむけ、核攻撃という自国の戦争犯罪を、返す刀で批判されないようにした。これは、アジアの中での日本の独立した信頼回復、尊厳の回復のブロックにつながり、サンフランシスコ講和条約での主権回復とは言うが、なにをするにしても、動くにしても米国のお墨付きが必要になった。ここから出ようと、日露、日中と日本独自の外交を政治家がしはじめると、特捜検察、マスメディアが積極的な転覆にかかるようになる。アメリカの虎の威を借りて、中国朝鮮を下にみるような、軍産複合体につながる財界に支えられた「親米保守」が変わって台頭するようになる。これは、民主党小沢、鳩山路線が、政権交代直前の時期から、用意周到に機制を制するように転覆され、菅、野田、そして自民党安倍にいたった流れでも繰り返されている。
 現在、街中でみられる、そのもっとも戯画的な姿が、小沢を検審の俎上に載せた功労団体でもある在特会のヘイトデモである。「殺せ」「レイプする」「大虐殺だ」等公道で叫びまわっても、警察公安は、なにも言わず、逆に「仲良くしよう」カウンターに対して、刺激するなと指導するという人倫をはるかに超越した行動を示している。冷戦構造勃発期に急速に政治的にまとまった、「部分講和」の産物であるサンフランシスコ講和条約によって形成された動因の最先端だろう。
 冷戦終結後の現在にいたっても、冷戦構造を引きずったサンフランシスコ講和条約の枠内に呪縛されている限り、「東アジア共同体」などは絵に描いた餅になってしまう。
 

・署名した諸国によって、日本の戦争犯罪がうやむやにされたことは、逆に日本が米国の核使用の非人道性を糾弾できずに許容すること、日本の真の道義的な米国に依存しない独立を阻害することにつながる。また、戦前の、アメリカに負けた、結果的にいえば残念ながらアメリカに劣っていた日本の官僚組織や国民性を、敗戦の総括や刷新を経ずして、「親米保守」にして、そのまま温存することにつながる。この日本的組織の劣等性が、福島原発事故を起こすにいたった経緯、起こした後の対応にも、如実にあらわれている。



・インタビュー後半は、日中戦争を想定して、日本本土が戦場になる日米合同軍事演習が、すでになされようとしているという話になり、三浦教授の「元気がなくなった」「泣きたくなった」との弱音発言も目立つようになるが、共感できる所である。ネグリではないが、まさしく、答えのなかなかだせない所に、追い込まれつつある。
 ここまで、日本が追い込まれる契機になった出来事の一つとして、ヘリテージ財団企画シンポでの、石原慎太郎尖閣買います」発言がある。その後、野田が実際にそれをやってしまい、決定的な日中の溝が穿たれ、現在に至っている。しかし、この日中離反状態に対して、ヘリテージ財団上級研究員クリングナーの「喜びの雄叫び」のような論文が、2012年11月にだされていたという話に至る。2時間14分頃に、その重要な話がある。ヘリテージ財団は、「尖閣買収によって火がつけられた中国の抗日デモと、その後の、反中意識の日本の燃え盛るナショナリズムが、中国にだけ向かって、米国には向いていない現在の状態は、我々のいくつかの致命的に重要な政治目的を達成するための絶好の機会である」というのである。
 これを、岩上は、昨年11月の時点で、石原知事に記者会見でぶつけて聞いている。

 岩上:あなたは、この論文を読みましたか? 
 石原:読んでない
 岩上:あなた全部できあがったシナリオにのっかって、そこで言ったんじゃないんですか。失礼ですが、財団に使われたんじゃないですか。
 石原:いやいや、それはないかな・・・・
    日本はアメリカの傭兵になる必要はまったくない

2012 11 30 日本維新の会 石原慎太郎代表に質問
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/47329


 石原慎太郎の動きは、サンフランシスコ講和条約の内部で保障されたような敗戦から学ぶことを怠った戦前体質が、親米保守の方向に自発的に服従変節した奇怪な「マゾ・サド的」なあり方であり、さらに、それによって、日本を極東の冷戦構造の中に閉じ込めている。結果的に、軍産複合体の「いくつかの致命的に重要な政治目的」を達成するために利用されような政治家の動きでもある。



 こういう見方をしてくると、エーリッヒ・フロムが、ナチズムを批判して書いた『自由からの逃走』という題名の書物が思い出される。正直、まだ私は読んではいないが、ファシズム化してゆく社会を生む個人の心理というものを扱っている。第2次朝鮮戦争や、サンフランシスコ講和条約の深化という中で、日本は、まさしくこの渦の中に入りつつあるかもしれない。


以下、簡にして要を得ていると思われる、http://note.masm.jp/%BC%AB%CD%B3%A4%AB%A4%E9%A4%CE%C6%A8%C1%F6/ より適宜引用

 フロムによれば,近代人は中世社会の封建的拘束から解放され,自由を獲得したが,孤独感や無力感にさらされることにもなった。その結果,彼らはこれに耐えきれずに「自由からの逃走」を開始し,サド・マゾ的な傾向をもつ「権威主義的パーソナリティ」を形成する。ファシズムの信奉者たちが,ヒトラーという権威のためなら喜んで自ら犠牲になる一方で,自分より劣った者,たとえばユダヤ人を虐待し,自らの劣等感を解消しようとする心理状態は,このパーソナリティのあらわれである。フロムのこうした方法論は他のフランクフルト学派のメンバーに大きな影響を与えた。

「われわれはドイツにおける数百万の人々が、かれらの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由を捨ててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由から逃れる道を探したこと、他の数百万は無関心な人々であり、自由を、そのために戦い、そのために死ぬほどの価値あるものとは信じていなかったこと、などを認めざるをえないようになった」

「自由をえたいという内的な欲望のほかに、おそらく服従を求める本能的な欲求がありはしないだろうか。もしそういうものがないとしたら、指導者への服従が今日あれほどまでに多くの人々を引きつけていることを、どのように説明したらよいであろうか」

フロムの『自由からの逃走』は、近代人の自由の二面性を指摘しつつ、それを克服する道を人間の自発的活動に求めた。

「他人や自然との原初的な一体性からぬけでるという意味で、人間が自由となればなるほど、人間に残された道は、愛や生産的な仕事の自発性のなかで外界と結ばれるか、でなければ、自由や個人的自我の統一性を破壊するような絆によって一種の安定感を求めるか、どちらかだということである」

以上引用



 処方箋としては、ネグリの、帝国に抗するマルティチュードの活動にも通じるものである。多数の、力強い内発的力によるコモンの形成。これは、少数の隷属者に端をなす権威的な組織形成に、拮抗しうる力を持っている。中東、中南米では、これが成った歴史がある。
 サンフランシスコ講和条約の枠組みが力を持った根拠である冷戦構造は、現在は終結している。その冷戦構造によって巨利を得てきた一部勢力が、北朝鮮の米韓合同軍事演習による大規模な挑発や、領土紛争に火をつけることによって、極東において新たな対立構造を、維持しようとしている政治的意志が、明確にあるということである。



参考 Wikipedia 日本国との平和条約 より
この時期の、単独講和と全面講和をめぐる政治家と学者の対立は、現在、TPPで学者が立ち上がったが、それに対して、政治家が今後どういう態度をとるのか、一つの先例として参考になるだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%92%8C%E6%9D%A1%E7%B4%84


単独講和と全面講和論 [編集]

こうした国際情勢を受けて日本国内では、アメリカとの単独講和と、第二次世界大戦当時の日本の交戦国でありかつ連合国であったソ連や中国も締結すべきとする全面講和論とが対立した[16]。

単独講和とは自由主義国家陣営に属し、またアメリカとの二国間軍事同盟を締結してアメリカ軍部隊のみ「在日米軍」とし駐留を引き続き維持させる立場。実際には52国が講和条約に参加しており、そのため多数講和または部分講和ともいわれる[17]。

全面講和論は自由主義共産主義国家の冷戦構造のなかで中立の立場をとろうとするもの。いずれもソ連と中国を含むか含まないかが争点となった[18]。全面講和論者の都留重人は、単独講和とは、共産主義陣営を仮想敵国とした日米軍事協定にほかならないとしている[18]。

内閣総理大臣吉田茂は単独講和を主張していたが、これに対して1946年3月に貴族院議員となっていた南原繁(東京帝国大学教授)がソビエト連邦などを含む全面講和論を掲げ、論争となった。また日本共産党、労農党らは全面講和愛国運動協議会を結成、社会党も全面講和の立場をとった。南原は1949年12月にはアメリカのワシントンでの米占領地教育会議でも国際社会が自由主義陣営と共産主義陣営に二分していることから将来の戦争の可能性に言及しながら、日本は「厳正なる中立」を保つべきとする全面講和論を主張した[17]。1950年4月15日には南原繁、出隆、末川博、上原専禄大内兵衛、戒能通孝、丸山真男清水幾太郎都留重人らが平和問題懇談会を結成し、雑誌『世界』(岩波書店)1950年3月号[16]などで全面講和論の論陣を組んだ[19][20]。

こうした全面講和論に対して1950年5月3日の自由党両院議員秘密総会において吉田茂首相は「永世中立とか全面講和などということは、 いうべくしてとうていおこなわれないこと」で、「それを南原総長などが政治家の領域にたちいってかれこれいうことは曲学阿世の徒にほかならない」と世におもねらず学問につとめよという意味の故事を用いて批判した[21][17]。南原は吉田の批判に対して「学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」「官僚的独善」と応じ[17]、「全面講和は国民の何人もが欲するところ」と主張した[21]。当時、自由党幹事長だった佐藤栄作は、南原にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって」「ゾウゲの塔にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と応じた[21]。また、小泉信三は「米ソ対立という厳しい国際情勢下において,真空状態をつくらないことが平和擁護のためにもっとも肝要」として、全面講和論はむしろ占領の継続を主張することになると批判し、単独講和を擁護した[16][22]。

アントニオ・ネグリ 日本学術会議にて講演

 アントニオ・ネグリというイタリア人思想家については、私は、まったくノーマークだったが、現在、「日本学術会議」という公的機関の招聘により来日しており、4月6日に、講演を行った。「ネグリ」という名前は、デリダとかラカンとか、現代フランスの思想家とともに、なんとなく知ってはいた。てっきり、それらと同じく、ファッショナブルに言葉をもてあそび、哲学らしきことを述べるだけの人なのだろうと思っていたが、かれは、活動家としても名を鳴らしていた過去があり、それを咎にイタリアで投獄され、フランスに亡命、しかし「刑期を全うする」という理由から、イタリアに戻り服役したという経歴を持っている。ソクラテスを地でいっているような、思想家としては実に立派な経歴である。マルクスとともに、スピノザを研究していたというのも、さすがと思わせる。
 彼は、マルクス資本論として論を体系化するにあたっての萌芽的著作である「経済学批判要綱」を重視し、人間性を資本主義とは別の方向で無視、否定していった共産主義には距離をおいて、マルクスの先を、ユートピアではなく、現実的に、構想し、提示しようとしていたようである。これは、まさしく、私が考えていることと同じ方向性でもある。先の「ヨハネの黙示録13章とアメリカ・ドル・テレビ」でも書いておいたが、マルクスの経済学批判は、カントの理性批判と同じ価値を、人類の精神や人間性にとって持っている。マルクスがつきあてた批判の鉱脈である、市場交換過程に根深く入り込んでいる、人間労働の商品化(人間の物象化)、商品価値の神格化(物神性)、さらに資本家の行う原罪でもある原始的蓄積過程と、これらの歴史的、世界的(空間的)広がりの中で、資本が、メタモルフォーゼしながら、ひたすら自己増殖していく仮想的運動体であること、これらは、人類の経済を、『経世済民』として、人間性、生態系を尊重しながら、根本的に立て直すうえで、礎となるべき批判であると思う。これに反して、新自由主義は、これらの批判をすべて無視している、原始的な経済であり、マルクスの批判した当のもの、そのものである。市場交換過程の下に人間を物化し、逆に「国際競争力」のある商品を神格化し、市場交換過程の外にある資本家の「脅しと騙し」を暗に、ただ、おおっぴらに政治的に許容する「非人道的」な経済思想である。このような非人道的経済学へのマルクスの批判は、カントが、当時の哲学上のドグマの乱立を、理性批判を行うことによって克服していったようなものに値するという考えである。カントは、ただ、人間知性の特性を解明し批判をしたうえで、宗教的教説は哲学者としては説かなかったが、マルクスは、経済学批判の上に、処方箋として資本と市場を全廃する「労働者革命」をもってきた。これが、たぶん、資本と市場の生み出す問題とは、また別な次元の、なんらかの問題を持っていることは、歴史の中では否定できなくなっている。ネグリは、「マルチチュード」「コモン」という概念をもってきて、それをのりこえた、新たな地平を開拓しようとしていたらしい。そしてそれが、現実的には中東の春として、歴史の中に、一部出現した。アメリカでは、オバマ大統領の誕生、オキュパイ運動として出現したが、TPPにみるようにこれに反動して、メディア、政府が、大衆への締め付けを厳しくしている。日本でも、民主党政権の出現はその流れの中にあったが、特捜検察マスメディアによる政治弾圧の横行/既存勢力のクーデターによって、国会議事堂の雛壇に、昔の名前で総理大臣、財務大臣が立っている歴史がある。


シンポ『マルチチュードと権力:3.11以降の世界』
http://www.ourplanet-tv.org/?q=node/1568

これまで来日を試みながらも、入国がかなわなかったイタリアの政治哲学者アントニオ・ネグリ氏。この度、初来日し、4月6日(土)に日本学術会議で講演を行う。OurPlanetTVでは、この講演の模様を同時通訳音声(日本語)でライブ配信する。
 
マルチチュードと権力>の視座から、「オキュパイ運動」や「アラブの春」などの政治・民主化運動が、現在のグローバル社会において持つ意味を議論したのち、3.11 以降の日本の社会の変容を、グローバルな文脈の中で捉え直す。
 
配信時間
2013年4月6日(土) 午後1時〜午後4時40分
 
基調講演者
アントニオ・ネグリ
報告者
市田 良彦(神戸大学国際文化学研究科教授)
上野千鶴子立命館大学大学院先端総合学術研究科特別招聘教授)
毛利嘉孝東京藝術大学大学院音楽研究科准教授)
コーディネーター・司会
伊藤 守(早稲田大学教育・総合科学学術院教授)


 ネグリは、私が「ヨハネ黙示録」にたとえたように、資本制による支配を黙示録的にとらえたり、その先に、宗教や原理主義など、主体性を別の意味で放棄した形での解決策をみつけることに対しては、自覚的に批判し、避けようとしている。そうなると、個性、多様性を軸にした処方箋のレベルにどうしてもとどまるが、それが、コモンという組織化の原理にそって、協働してゆくという。ただ、戦う相手である「新自由主義」やその前提とする功利的人間像は、利益のためには他者、他国を欺き、犠牲にもすることも辞さないような、利益原理主義ともいえる性格をもっている。それは、少なくとも市場原理主義ではない。それだったら、リーマンショックで潔く身をひいているはずである。
 人道やルールを尊重し、権力はないが、みずからのうちに尊厳のあるものと、人道やルールを破ることも辞さず、権力はあるが、みずからのうちに尊厳のないものとの戦いとなる。どちらが強いのだろうか?どちらが、人間として生まれ、生きるうえで、価値があるのだろうか?古来からの問いと戦いの延長線、延長戦上に、今現在も人間が立たされている。私としては、さらに、方法論として、この現場に武蔵の兵法の精神を持ってきて、自己と他者を治め、生き抜くことはできないだろうか?とも思っている。



1.ネグリ講演


 労働者階級に変わって、マルティチュードという概念、存在を押し出している。グローバル化する多国籍企業の資本の権力に対抗する、グローバル化したネットワークによりつながる、多様性を孕みながら統一した階級というような規定である。私も、こういうところにやはり行き着くと思う。楽観的だ、分裂する、烏合の衆になるだけなどといった批判に対して、コモンという概念を出してくる。「コモンセンス」「コモンズ」といったコモンとつらなる概念だと思いながら理解した。たぶん、関係性、自発的組織化を軸にしたマルチーコモン軸が、分断された個と資本による組織化を軸とした新自由主義的個−帝国をのりこえる軸として提示されている。中東の春のエジプトで、広場に、自発的にくりかえしあつまる群集に対して、軍部、警察が、帝国につらなるムバラクの指揮命令に従わなくなるような、そういうのりこえの瞬間が、イメージされる。
この、集団的な秩序形成にあたる、現実的力のあるものとしてコモン<共>をもってくるが、ネグリは、さらにそこから、新たな通貨、憲法を考えるにまでいたる。多様性による働きを尺度とするような通貨とか、彼なりに具体化した話をしていた。そこから、新たな市場のあり方、取引のあり方、賃金制度なども構想されるだろう。こういった、新たな社会を現実的に構想する上では、その社会における通貨と憲法をどうするかということは、最も深い土台になるのだと思う。
 こういった、ネグリの理念が、インテリではなく市井の人々にどの程度伝わるかは別にしても、彼の言うマルティチュードーコモン軸の活動は、反原発、反TPPという形で、日本においても各階層を越えて現実に、すでに、持続的に、存在している。その先にある国家観、基本的な価値観を、彼は懸命に述べ伝えようとしているようだ。それをイメージするだけでも、現在のさばっている通貨と政治を、歴史的なひとつのあり方にすぎないと、少しだけ、脱中心化し、骨抜きにすることができる。




2.日本人シンポジスト発言


 シンポジストが、それぞれの分野で、官製でも市場によるものでもない、自発的な発言、行動、デモ、介護など、日本でのマルティチュードの運動の実態を述べている。投票行動も、マルティチュードの権力行使ともいえるが、官製の枠内であり、それは重視されていないようだ。最初に登壇した、市田氏の発言は、内容はわるくないのだろうが、発言の態度、仕方が、どうにも鼻持ちならなくて、最後まで視聴しえなかった。「パラフレーズすると」という奴は、以前より信用できない、軽薄な感じの奴がおおかったことや、フランス語を得意げに混ぜたりするところも見苦しかった。これは、美意識の問題で、やむをえない。
 マルティチュードの活動として、独立系メディア、特にOur Planet TVと、IWJをあげていたが、さらにいうなら、阿修羅や場合によっては、2chといった掲示板、ツイッター、ブログ、フェイスブックなどのSNSを媒体にした活動もそうだろう。これらの表現活動、報道活動は、マスメディアと異なり、資本や官の介入なしに、それぞれのマルティチュードの個性が、そのまま表現され、それに反応した連鎖反応が起こり、マルティチュードの意識を、少しづつでも変容させている。発言については、脅迫、殺人予告のようなものを除いて、ほぼ無規制であるが、決して無秩序な情報空間にはなってはいない。市場、資本から独立した人間性の発露の場が開かれている。上野の発言した、女性の介護労働ということも、介護市場において搾取されているという被害的視点からだけではなく、マルティチュードの活動の発露、組織化として、女性特有の感情的労働を評価できる団体があるということであった。ボランティア活動はもちろん、諸々の、NGONPOも、マルティチュードの発露の通路になるのだろう。
 ただ、登壇大学教員は、マスメディアの陰湿な牙、アメリカによる政策決定への圧力、この辺を、あまり現実にある脅威として述べ立てなかった。市場と官から挟み撃ちにあい続けている中で、マルティチュードという抵抗し乗り越えてゆこうとする階級の活動が境界付けられていっている。この辺は、ネグリの方が、より自覚的に語るのではないか。マルティチュード−コモン軸を受け入れず、あるいは存在すらみとめず、場合によっては、官や資本に取り込み、抵抗を変質させようとするような、そのような力とどのように戦うのか。
 少なくとも、マルチーコモン軸は、歴史的には資本の前からあり、逆ではない。もう少し、資本、市場に対して、誇りをもってもいいだろう。われわれの方が、生命、生態系の主体なのだと。現代社会の根本的な問題を解決する力、知恵は、それらを作って来た、自然と社会を分断する新自由主義的個−資本の軸にある官、メディアにはなく、われわれ、マルチ−コモン軸の活動の中に潜在しているのであると。



3.全体討論


 最終的な結論は、マルティチュードがいかに戦うのかについて、「ネグリに答えを求めるな」という所におちつく。上野が、得意げに、さも、高説を垂れるがごとく、この答えをいうのには、やや辟易としたが、ただ、これは、本当にやむをえないことである。共産主義、宗教原理主義、のようなHow to、イデオロギーがあれば、革命指導者、宗教指導者と、その従属者という形の抵抗組織ができる。この組織化が強まる分、マルティチュードの柔軟性多様性による力は、削がれてゆき、形骸化し、資本制と異なるあらたな疎外が始まる。こういう批判は、組織宗教を徹底的に批判した、インドの哲人クリシュナムルティにもみられたものである。「真理は道なき大地である」と。ただし、現実的には、マルティチュードの性格を削がない程度での、政党政治、活動のありかたというのは、十分ありえるだろうし、そのレベルでの個性的戦い方は、それぞれあるはずである。
 その中でも、示唆的な発言はあった。コモンを構成するのが、分断された「個」individualではなく、関係性特異性からみた「個性」singularityであり、その点、社会の構成単位の捉え方からして、原理的にことなること。そして、れらの排除的競争ではなく、協働からなることである。そして、個性が関係からなる人間のとらえ方であると同じく、マルティチュードも一つの階級として、資本との敵対的な関係からなる概念であり、その中で成長するであろうことを述べている。マルティチュード的革命の様相は、アクターが舞台で活動するような、そういう形で、singularityの出会いの中で起こるものであろうこと。こういった中から、新たなコモン<共>が醸成されてくる。米国発で、世界化した「オキュパイ」運動や、中東の春、日本でのデモも、そんな文脈から連動して起きているのではないかということである。SNSでの言論を母体としながら、さらに「広場」という舞台にでて、マルティチュードがコモンを形成し、権力を示すようになる。ただ、歴史的にみると、女性の雇用機会均等化のように、マルチーコモン運動が資本に回収され、ただ曲解・同化されてゆき、そこからさらに、あらたマルチーコモン運動が開かれるような、波状の進展を起こすこともあるだろうという。
 運動をするには、舞台が必要ということだろう。私も、職場で以前は隠しながら読んでいた日刊ゲンダイを、おおっぴらに、見出しを見せて読んでみた。これなど、職場を舞台にしたsingularityの運動である。この講演の会議場は、官の会場ではあるが、マルティチュードの舞台になったと最後の締めの言葉があった。
 聴衆の質問に答える中で、ネグリは「キャピタルはリバイアサン、つまりエンペラーではない。労働者がなければ成り立たない。」と述べていた。資本は、それに従属するものがゼロになれば力をなくす、仮想的存在であり、集団的従属をまって初めて一定の仕方で関係を組織化するものである。たしかに、少なくとも実体のある「王」ではない。ちなみに、リバイアサンは、ホッブスの書名でもあるが、もとは、ヨブ記にでてくる「怪獣」で、ヨハネ黙示録の獣に類似した暴力的権力の象徴である。そういうネグリの、多分、歴戦の体験をへた感覚から、従属するものから、抵抗するものへという方向が語られる。小沢冤罪弾圧、原発事故、国民を無視したTPP交渉などが、目前で展開されているのを前にすると、特に、マスメディアが、それに結託しているのを見せ付けられると、そういう方向性が必要なことは否めなくなる。資本制に同意しながら生計を立てている個人ではあるが、その中にあっての実存的なレベルでの転換、それらが、それぞれの舞台で、主体性をもって運動を起こし、それがコモンとして協働されてゆくこと。そのHow toな答えはないが、官の中でも、民の中でも、資本の支配の真っただ中でも、この動きと活動性を起こし、あらたな存在の場を実存的に開くことはできるだろう。そう考えると、80歳のネグリ大先生が、官邸前の脱原発デモ隊のドラム隊を、微笑みながらみていたのが、よくわかる。Our Planet TVで動画もあるが、ドラム隊をみて微笑むネグリ写真が、ツイッターで回っていた。


https://twitter.com/wtsurumi/status/320168350145736706/photo/1


 子供をみつめる親のようである。歴戦の思想家が、異国のデモ隊に対して、こういう笑顔をみせてくれるのは、現実の厳しさはさておき、本当に希望や救いがあるものだ。こういう活動が、bio-politicsというのかとおもったら、wikiで確認してみると、そういう意味ではないらしい。この言葉の語感から、政治活動が政党ではなく、個人の実存、身体、生命の躍動と結びついた、政治のありかただと思った。それぞれの舞台で、個性がPoliticsを表現するということで、デモもそうだし、アンデパンダン展でのパフォーマンスもそうだ。Bio-Politicsがそれに使えないなら、私がそれを、Vital-Politicsと名付けてみよう。マルティチュードがそれぞれの舞台で、個性的に広義の政治活動をする有様だ。ソリチュードであってもいいだろう。Bio-Politicsのような被支配の有様ではなく、プロテストの在り様だ。


P.S.   街中の本屋にいって、NHKブックスネグリ本をぱらぱら実際にみてみると、「生権力から、生政治的生産へ」という項目があった。それを読むと、やはり、官邸前デモのようなマルティチュードの主体的表現を、ネグリは、bio-politicsと名づけている。wikipediaにのっているフーコーの定義とは、逆の使い方をしている。むしろ、こっちの方が自然だ。だから、vital politicsとあえて名づける必要はなく、「ネグリが言っているから」ということで、bio-politicsでいいだろう。これが、むしろ、本来のpoliticsの源泉である。この一つの公的な権力行使の形態が、投票権であるにすぎないが、昔、幾多のbio-politicsによって獲得された投票という行動は、資本に従属し、それによって組織化されているマスメディアの流布する一元的な政治情報(世論調査北朝鮮、中国のこれみよがしの脅威の報道など)によって、有権者への群集心理的な効果を起こされ、操作され、汚染されてしまっている。

ヨハネの黙示録13章とアメリカ・ドル・テレビ


 ドルは、ベトナム戦争を経て1971年に金本位制を捨て、さらに金融危機を前にして2006年にはM3公表もやめた。その後に顕現化した、米国発金融危機の後始末をつけるために、市場価値のつかなくなった債権を、米国連銀が買いあさり、金融機関の連鎖的破綻を「リーマンショック」の範囲にくいとめた。市場における自由競争の結果に国家が介入したという「黒魔術」が行われたが、その前に、通貨発行の分母を公表しないという黒魔術もおこなわれ、ドルはゾンビ化、癌化していった。2006年のM3公表中止を前に、Europe2020というフランスのシンクタンクが、これを機に石油取引通貨としてもドルが使われなくなり、ドルが急落するのでなないかと警告を発していて、当時から私は注目していた。このシンクタンクは、政府が、通貨総量を公表するのをやめたドルを使うというのは、「帝国税」を払わせられているようなものだといっていたが、うまい表現だと思い覚えている。国としてドル買い介入を、尻拭いのように、折に触れ際限なく行う日本は、このゾンビ化、癌化した「分母無限大」の通貨ドルの信頼性を担保している。こう考えると、日本人の生血を吸って、ドルという通貨の価値が生き延びているような気がしてならない。そして、そのドルをつかって、アメリカは対テロ戦争を続け、TPP実現のためのマスコミ対策も含めた膨大なロビー活動の力を振るい、各国の実体経済を分断し、歴史的文化的な秩序を破壊し、深刻な影響を与えている。
 こういうきわめて虚しい現実に直面すると、「貨幣商品」について、マルクスが聖書の言葉を持ち出して、深遠なことを述べていたことを思い出す。誰の力によって、貨幣商品の権力を、相手に履行しているのか?政治的、経済的な最終的な問題が、そこに集約されてくるように思う。マルクスの書いた処方箋としての共産主義には、また別の問題があるが、マルクスの行った資本主義批判は、現代においても、まったくその真価を減じていないと思う。その分析には、カントの理性批判と同じぐらいの価値が人類にとってある。それが統一教会のような「勝共」団体のような、半ば宗教的な政治勢力によって、表舞台では抑圧され、「折伏」されている。
 「貨幣商品」の出現について、マルクスの聖書引用箇所を探すと、それはヨハネによる黙示録第13章の「2匹の獣」の項にあった。「この者どもは心を一つにしており、自分たちのちからと権威を、獣(けもの)にゆだねる。この刻印のある者でなければ、誰も物を買うことも売ることもできないようになった。この刻印とは、あの獣の名、あるいは、その名を表す数字である」これは、極めて意味深な文章である。以下に、13章全体を引用するが、一匹目がアメリカの背後にある実質的な権力(軍事と金融、諜報)で、2匹目がその履行器官としての貨幣と、マスメディアともみれる。
 第1の獣の、頭におった致命的な傷が治ってしまったというのは、アメリカが自国の国是でもある市場原理の破たんを、黒魔術を経て立ち直ったようなことにあたるともいえる。「第2の獣は、獣の像に息を吹き込むことを許されて、獣の像がものを言うことさえできるようにし、獣の像を拝もうとしない者があれば、皆殺しにさせた」これは、テレビの象徴ともいえなくないか?「皆殺し」というのは原始的だが、対テロ戦争、TPP、原発に対してテレビの言うことを聞かず、本質的な疑義を、真剣に訴えてゆこうものなら、政界、ジャーナリズム、芸能界、学会などの表舞台から、結果的には抹殺されている。そして、人々は、道理に従うのではなく、道理を踏み倒しながら再生してゆく、この獣の刻印を持った貨幣の力に従わない限り、買ったり売ったりできない。
 これが、神の子羊が、あるいは、まっとうな「道理」を主張しようとする者が、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」(マタイ福音書10)生き抜かなくてはいけない、狼の世界、現実世界の実体なのであろう。ヨハネの時代は、ローマ帝国がそうだったのかもしれない。 



ヨハネの黙示録 13章聖書 新改訳 (日本聖書刊行会

1 また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。
2 私の見たその獣は、ひょうに似ており、足は熊の足のようで、口はししの口のようであった。竜はこの獣に、自分の力と位と大きな権威とを与えた。
3 その頭のうちの一つは打ち殺されたかと思われたが、その致命的な傷も直ってしまった。そこで、全地は驚いて、その獣に従い、
4 そして、竜を拝んだ。獣に権威を与えたのが竜だからである。また彼らは獣をも拝んで、「だれがこの獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。」と言った。
5 この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。
6 そこで、彼はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。
7 彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。
8 地に住む者で、ほふられた小羊のいのちの書に、世の初めからその名の書きしるされていない者はみな、彼を拝むようになる。
9 耳のある者は聞きなさい。
10 とりこになるべき者は、とりこにされて行く。剣で殺す者は、自分も剣で殺されなければならない。ここに聖徒の忍耐と信仰がある。
11 また、私は見た。もう一匹の獣が地から上って来た。それには小羊のような二本の角があり、竜のようにものを言った。
12 この獣は、最初の獣が持っているすべての権威をその獣の前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷の直った最初の獣を拝ませた。
13 また、人々の前で、火を天から地に降らせるような大きなしるしを行なった。
14 また、あの獣の前で行なうことを許されたしるしをもって地上に住む人々を惑わし、剣の傷を受けながらもなお生き返ったあの獣の像を造るように、地上に住む人々に命じた。
15 それから、その獣の像に息を吹き込んで、獣の像がもの言うことさえもできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。
16 また、小さい者にも、大きい者にも、富んでいる者にも、貧しい者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々にその右の手かその額かに、刻印を受けさせた。
17 また、その刻印、すなわち、あの獣の名、またはその名の数字を持っている者以外は、だれも、買うことも、売ることもできないようにした。
18 ここに知恵がある。思慮ある者はその獣の数字を数えなさい。その数字は人間をさしているからである。その数字は六百六十六である。





イラク戦争の原因と結果には、アメリカの正体が余すところなく、表現されている。
岩上安身のツイッターリツイートされていたので、見ることができた記事。TPP問題の英文記事も訳していた所である。
まさしく、アメリカの作り出しているヨハネの黙示録的世界である。


十年後のイラク
http://eigokiji.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-ca64.html

Paul Craig Roberts
2013年3月18日

2013年3月19日。十年前の今日、ブッシュ政権イラクを侵略した。侵略の正当化は、国連とアメリカ国民を騙す為、ネオコンブッシュ政権がでっちあげた嘘の塊であったことが知られている。

当時のアメリ国務長官コリン・パウエル大将は、ブッシュ・ブレア政権が嘘であることを知っていた偽諜報情報で国連を欺く為に、自分がブッシュ政権に利用されたことに対する遺憾の意を表明した。だが、卑しむべき売女マスコミは、腐敗したブッシュ政権の嘘宣伝省として仕えたことを、アメリカ国民に詫びていない。

腐敗したブッシュ政権、それを可能にした売女マスコミ、あるいは明白な戦争犯罪アメリ憲法に対する犯罪、アメリカ成文法に対する犯罪、人類に対する犯罪で、ブッシュ政権を起訴することを拒否した、腐敗したオバマ政権、いずれが最も卑しむべきなのかを見極めるは困難だ。

著書「Cultures Of War」の中で、著名な歴史学者ジョン・W・ダワーは、20世紀の日本と、21世紀のブッシュ帝国大統領が解き放った戦争の具体的な行為で“拷問や他の犯罪等のあからさまな戦争犯罪を比較分析したくなると述べている。大日本帝国の不正な行いは、国の名誉と名声に、消せない汚点を残したが、アメリカの評判に対する打撃がどれだけ続くかは時間がたたなければわからない。この点、連合軍が第二次大戦後の日本とドイツに対して追求したものとは到底比較にならない、正式で本格的な調査から逃れることができたブッシュ政権の戦争立案者達は幸運だ。”

ダワーは、アーサー・シュレジンガー Jr.の言葉を引用している。“[ブッシュ]大統領は、かつてアメリカ大統領が屈辱に生きる日となろうと言った日、真珠湾大日本帝国が採用していた政策に恐ろしいほどよく似た‘先読み自己防衛’政策を採用した。フランクリン・D・ルーズベルトは正しかったが、今、屈辱の中に生きているのは我々アメリカ人だ。”

アメリカ人は、屈辱の中に生きる恥の為に、莫大な金額を支払った。ジョセフ・スティグリッツとリンダ・ビルムズは、アメリカ人納税者が負担するイラク戦争の戦費は、3兆ドルと計算した。この推計は楽観的にすぎる可能性がある。最新の研究は、戦争はアメリカ人納税者に、二倍の費用負担をさせる結果になりかねないと結論している。http://www.reuters.com/article/2013/03/14/iraq-war-anniversary-idUSL1N0C5FBN20130314

アメリカ軍安保複合体の懐へと流れ込み、そこから政治献金へと向かう利益をまかなうために、アメリカ国民は、社会保障制度、メディケアや、社会福祉制度が可能にしている社会的まとまりを失う危機に瀕している。

(中略)

7ないし8ヶ国で、イスラム教徒を不当に殺害することで、ワシントンはイスラム教徒の反応に火をつけた。アメリカ合州国に対する激しい憎悪だ。この反撃は、ワシントンによって“テロ”と名付けられ、対テロ戦争は、軍事複合体と、アメリカ国民を、自らの政府のテロからは守らないが、テロから“守る”為の、警察国家の果てしない利益の源として機能している。

大多数のアメリカ国民は、余りに虚報漬けで、実情は理解できず、ごくわずかの、実情を理解し、他の人々に警告しようとする人々は沈黙させられる。21世紀は、人類の歴史の中で最悪の世紀の一つとなるだろう。欧米世界の至る所で、自由は死につつある。

 「TPP参加交渉」たるものの本質

3月15日に、安倍首相が、TPP交渉参加するという記者会見を行なった。しかし、その前、あるいは、今に至るまで、マスメディアの中で、TPPについての全国民的な議論が、なされ始める様子はなく、断片的なニュースと解説のみである。それも、本質的な点を隠蔽した、貿易の問題のみに歪曲した話がほとんどであるように思う。批判的で良心的な視点は、ネットの中にしかみあたらない報道状況となっている。


1.パブリック・シチズン ワラック女史のメッセージ

 TPPの本質的な危険性を糾弾していた米国のNGO団体、パブリック・シチズンのワラック氏が、今回、交渉に参加しようとしている日本へメッセージを発してくれている。
http://www.youtube.com/watch?v=fm-6DR6o3vs&feature=youtu.be
 
これは、1分51秒なので、すぐ見れる。デモクラシー・ナウでのインタビューでもそうだったが、女史らしい、簡にして要を得たメッセージである。日本人の尊厳を守ろうとしてくれている、米国の友人からの警告といったものである。重要な言明であるので、以下、文字に起こして記録しておく。

「私たちは、TPP交渉が行われているシンガポールにて、日本政府がTPPに参加しようとしていると聞き、大変心配しています。日本が、ルールづくりに参加する権利も、何に合意するのかを知る権利すらないのに、参加しようとしているからです。
日本は、これまでのすべての合意を受け入れるといった。私たちは、そう理解しています。それは、900ページ以上もあるルールに日本の既存、および未来におけるすべての法制度を、合わせなければならないということです。貿易だけではなく、医薬品の価格やアクセス、食の安全や食品表示、郵便の規制や、エネルギーや輸送サービス、銀行、消費者の権利保障などの分野においてです。数多くの、貿易に全く関係のない国内政策が指図されていくのです。
 何が書かれているのかを見ることもできず、たった一文字の変更も許されないままに、このルールを受け入れること。それが、日本がTPPに参加する際に要求されます。
つまりは、日本は「交渉」に参加するのではなく、「すでに条項の定められた協定」に参加するわけです。なぜ安倍政権が日本にとって、こんなにも無礼で危険なプロセスに合意しようとしているのか、とても不可解でなりません。しかし、それが私たちの聞いたところです。すでに、協定に参加している国では、強力な反対運動がいくつも起こっています。しかし、それらの国は、すでに規定された条項が、押し付けられているわけではありません。日本の人々にとって、TPPへの参加は二重の意味で危険であり、二重の侮辱なのです。」


以下コメント

「TPP交渉」に参加するということは、知ることの許されない、一字一句も修正できない900ページ余りの条項に合わせて、既存の、さらに未来の法制度が、多方面にわたり影響されることを受容することであり、すでに、「交渉」ではないのだ。安倍は、聖域確保できるとのオバマの言辞を得たというが、実際の最終的な交渉の場であるシンガポールではそのような雰囲気はまったくないようだ。
 日本にとっては、相手に目隠しをされた上で、多国籍企業の都合がいいように作り上げた、詳細不明な法制度によって、一生、縛り上げられることになる。ここまで侮辱的な国際関係の在り方は、なかなか歴史的にみても、ないのではないか。TPPは、自由貿易の問題では決してなく、国民の主権や、国家の尊厳が、アメリカの軍需産業も含まれるであろう多国籍企業が主体となって、深刻に毀損されつつあるという問題である。日本の公共放送を含むマスメディアも、その一部になっている。
 日本は、郵政民営化は、政治的にどうにかしのいだ。しかし、今回は、尖閣問題に火をつけられ、日中の間にくさびを打ち込まれた上で、日本を軍事的に追い込むことで、TPPという侮辱的な条約への参加を余儀なくされつつあるように見える。アメリカは、菅とマスメディアをたきつけてもうまくいかなかったので、どこかで戦略を練り直したのかもしれない。アメリカに対する第2の敗戦になりかねない事態である。戦犯は、入院している将来には責任を持たない石原であり、尖閣問題の対応を読み誤った野田であり、おめでたくも「主権回復の日」を祝おうとしている三代目、安倍である。


2.岩上安身による内田聖子氏へのインタビュー

http://iwj.co.jp/wj/open/archives/67417
「日本政府はすでに、TPP参加に際して、無礼で不公正な条件に同意している」米国交渉官が明言 〜秘密のTPP交渉会合に潜入した内田聖子氏が明かすTPPの正体。3月4日から13日までの間、シンガポールで開催されていたTPP交渉会合の中で飛び出した、米国側の驚くべき発言が明らかになった。14日、この会合に米国NGO「Public Citizenhttp://www.citizen.org/)」のメンバーの1人として参加した内田聖子氏(アジア太平洋資料センター 事務局長)が岩上安見の緊急インタビューに答えて、その内幕を赤裸々に語った。


以下コメント
 TPP問題については、身の回りにあふれているような、テレビ、ラジオ、新聞紙では、影の本質が隠され、貿易での聖域確保をどうするかというような一面的な議論や、「アジアの成長をとりこむ」「国家百年の計」といった作られたイメージに焦点があたり、マスメディアの報道が、本質である「ドラキュラ」のカモフラージュになっている。NHKもふくむマスコミに対しては、強烈で、癒しがたい違和感が、TPP報道についてはあり、この機にIWJの一般会員になって、みたいと思っていた内田聖子氏のインタビューを約2時間弱だが、すべて見通した。
 「日本政府が、無礼で不公正な条件にすでに同意している」という話は、インタビュー1時間5分ぐらいにでてくる山場となる情報だが、非公開の席での、米国交渉担当官が発言した内容で、誰がどこで言ったのかは、裏もとれているという。また、「無礼」というのも英語の直訳であり、内田氏や、岩上氏が、感情的被害的になって言った単語ではないものである。米国は、無礼で不公正であることを、重々、自覚しながら、日本に対して、「オレの要求を文句の一つも言わずに飲めと迫ったら、日本は飲んだ」と述べているのである。これが、TPP交渉の実体であり、交渉ではなく命令である。それだけは、東京新聞も含めた新聞各紙は、こぞって、認めようとしない。だから、メディアに接することは、国民の目をふさがれ、あらかじめ流布されたTPPイメージによる判断に傾かせるように、作用している。
 こういった条約締結は、歴史的に見ても、なかなかないのではないかと思ったが、岩上氏によれば、江戸末期の、ペリーとの間の日米修好通商条約も、太平洋戦争後の日米安全保障条約も、同じようなものであったらしい。内容がわからない国家間の約束事を、武力を背景にして脅されながら、一方的に、一人の日本代表者(井伊直弼と、吉田茂)がサインをさせられた経緯があったとのことである。今回は、安倍晋三が、その役回りを担わされつつある。そのくらい、歴史的に大きなことであるのに、まったくいつもと変わらないスポーツと娯楽による番組を、マスメディアは提供している。本来は、スポーツ、娯楽などは一切やめ、昭和天皇崩御のときや、震災後の報道のように、岩上氏、内田氏も含めた討論番組を、延々とまずはやり続けるべきぐらいの状況だ。内田氏こそは、無理を冒しながら、今後の日本のために、TPP交渉の実体を調査してきてくれた「愛国者」の筆頭ではないか。
最後の方で、メディアの問題について、1時間36分頃に、岩上安身が、とくダネ降板の舞台裏を、内田聖子を聞き役にして、激白している部分がある。これは、このインタビューの枝葉の部分なので、ちょっと書きだし失礼させていただきます。

岩上:TPPで、メディアは最終的に、外資に買われる。24項目の中に入ってる。   
   それを言って、テレビを下ろされた。12年やっていたとくダネ。
   TPPのことをいった、すぐその日に、お話があるとプロデューサーに呼び
   出された。お辞めいただきたいと。
  「そんなことで、本当にいいと思っているの。外資の制約がとられるので、
   放送局、新聞局も含めて、買われちゃうよ。
   特権的に割り当てられている電波も、オークション制になる。いいの?
   国として、メディアが成り立たなくなるよ」と言ったら、眼が泳いで
   いる。
  「そうなったら大変ですね、でも、あまり難しすぎて、僕はわからない」と。
   メディアのうんとトップにも話しました。みなさん目が泳いだ挙句、
   「うーん、僕はその話は、難しくてわからない」
   みんな、おばかさんになる。

 これで、日本のメディアが、トップレベルでも、TPP参加問題について、放送という国の根幹部分を毀損してしまう可能性について、眼を泳がせながら「難しくて、よくわからない」としか説明できない状況にあることがわかる。だから、TPP報道については、民法はもちろん、NHKも、映画のセットのようなものを取材して、都合いいところを聴衆である国民に見せて、言い聞かせているような、子供だましのようなものである。それをみた国民が、TPPいいねえ、おもしろいねえ、と支持するようになる。
 本当にTPPについて知りたければ、日本人の中でももっともTPP交渉内部に潜入しえた内田聖子氏をスタジオに呼び、大いに議論させればいいのであるが、それはしない。内田氏は、シンガポール交渉の取材には、日本のメディアは全く来なかったという。情けない。
 
 江戸末期、戦後と、過去2回と異なるのは、現在は、NGO活動があるし、ネットもある。今日はIWJを視聴しながら、3時間ぐらいかけて、この問題に接してきたが、自分の立場で、できることを、やり続けてゆくのみかと思う。

「リーク草案でわかったTPPの正体とは?」 デモクラシーナウより

天木メルマガで知った、インタビュー動画の紹介。

http://democracynow.jp/video/20120614-2
http://www.youtube.com/watch?v=HLVKAalmD48

 デモクラシーナウは、ウィキリークス事件の時から注目していたが、しっかりした仕事を根気よくやっていた。TPPの26章中、貿易関係は2章だけというのが、衝撃である。インタビューの長さは15分程度だが、全部見る価値は、十分すぎるほどある。案の定の草案だと思うが、これこそ、ザ・原始的蓄積過程、あるいは、ザ・コーポラティズムで、民主主義的な手続きや国民主権による立法をも無力化しながら利益を得ようと邁進するドラキュラの正体といえる。あたかも癌のように、自分の成り立つ大元である身体を破壊しながら自己増殖をしてゆく「資本」のなれの果ての姿ともいえる。規制する側、米国政府側の手の届かないところで、草案が練られてきた経緯があるようで、国家・国民・主権者からすれば、完全に「悪性化」している。
 TPP推進派は、もし自分がドラキュラではないというなら、自分が推進しようとしている草案を十分に熟知し、それをオープンにしたうえで交渉するように努力すべきである。それなしで、交渉参加判断について「政府に一任する」「首相に一任する」というごまかしは、許されることではない。まさしく、ドラキュラが影で首相を通して、国民の生血を吸い上げる図であろう。
 このドラキュラには、大企業の広告収入に収入のほとんどを依存している民放各社、さらに、関連各新聞社はもちろん巻き込まれざるを得ない立場であろうし、NHKもTPPを「自由貿易の流れ」というぐらいだから、なにも詳しいことは知らないか、暗に知っていて隠蔽しているかのどちらかであろう。
 以下は、インタビュー内容を抜粋して文字起こししたもの。


デモクラシーナウ キャスター   エイミー・グットマン女史
「リーク草案でわかったTPPの正体とは?」

パブリック・シチズン  ウォラック女史
「表向きは貿易協定ですが、実質は企業による世界統治です」

「全26章の内、貿易関係は2章のみ」
「他はみな企業に多大な特権を与え、各国政府の権限を奪うものです」
「これでは国庫の略奪です」
「これは、1%が私たちの生存権を奪うツールです」
「600人の企業顧問には草案へのアクセス権を与えながら
 上院貿易委員会のワイデン委員長はカヤの外です」
「ワイデン氏は、核関連の機密も知る立場なのに
 貿易協定という名の『企業の権利章典』は見られない」
「TPPはいわばドラキュラです。陽に当てれば退治できる」
「企業の権利の世界的な強制なんて私たちは許さない
 民主主義と説明責任に反します」
「意見をいうことはできるが、環境から消費者、労働者まで
 公益はなにひとつ反映されない」
「TPP交渉内容は、締結後4年間は非公開という密約もあった」
「TPPの狙いは貿易ではなく、セメントのような作用です
 一度固まったらおしまい、全員が同意しないと変更できない」

「リーク草案が示唆するのは司法の2重構造です
 国民は国内法や司法をつかって、権利を護り要求を推し進めますが
 企業は別建ての司法制度を持ち、
 利益相反お構いなしのお抱え弁護士たちが
 いんちき国際法廷に加盟国の政府を引きずり出し
 勝手に集めた3人の弁護士が政府に無制限の賠償を命じるのです
 規制のおかげで生じた費用を弁済しろとか
 不当な扱いを受けたとか言って
 国内の企業には同じ規制が一律に適用されているというのに」
 
 「NAFTA以来 大企業は貿易協定を姑息に使って
  規制を押さえ込み、底辺への競争を煽りました
  交渉のたびに規制が緩和され企業の権限は拡大した
  今回がとどめです いったん固まれば門戸を開き
  広く参加国を募ります
  企業の特権化を保証する世界的な協定になりかねません
  為替と貿易制裁が強制手段です
  TPPは強制力のある世界統治体制に発展する恐れがあります」

 「世界的なオキュパイ運動に対する企業側の反撃です
  旧来の悪弊が一層ひどくなる
  さらに、交渉のゆくえによっては、既存の国内法が改変され
  進歩的な良法が無くなるばかりか
  新法の制定さえもできなくなる
  
  医薬品や種子の独占権が強化され、医薬品価格つり上げのため
  後発医薬品を阻止する案まである
  各国の金融規制も緩和させられ高リスク金融商品も禁止できない
  米国政府が金融制度改革で規制強化を進めている時にです」
  
 「TPPは地域産業の優先を禁じます
  地産地消や国産品愛好は許されないのです
  環境や人権に配慮する商品も提訴されかねません
  TPPは企業に凄まじい権力を与えます
  密室だから過激になった
  どこの国の人々も、こんなものは御免です
  過激な条項を推進するのは米国政府です
  だから、陽の目にさらして分析することが重要です
  何が起きているか人々に知ってほしい」
  
 「クリントン時代にNAFTAを通過させた連中が好きにやった」
 「1%の夢なのです。ありったけの金とロビイング力をつぎこんで
   未来永劫に力を振るうのです」