『万引き家族』鑑賞記

 「万引き家族」を昨日、鑑賞してきた。BGMはほとんどなしで、延々と、今の日本では存在できないような、ボロボロの家族らしき共同生活と、そこでの昭和的絆が、描写される。物語性がなく、途中で、席を立とうかとも思わされるほどであった。そういう意味で、かなり実験的な、娯楽性を排除した、是枝監督による「映画作品」であると感じた。最後までみると、実は、物語はすでに展開しきっていて、「万引き家族」という形で、何かが残っている、その生活と関係性を、延々と描写しているような作品であったことが見えてくる。最後の10分ぐらいで、納得がつく映画だ。前回の日本人監督によるパルムドール受賞作、今村昌平監督の『うなぎ』とつながる、主題性や描写の仕方を感じた。ハリウッド映画とは対極にあるような、社会性の、それも辺縁から描くような社会性を持った作品である。


 仕事や、金銭、地位、名前、家族を失ってまで、なにが残っているのか、そして、何が脈打ち生きているのか、また、その場所から、仕事や金銭、地位、名前のある表の世界の場所が、どう映るのか、そういうことを体験させてくれる映画である。おそらく、こういう体験を共有していくことが、是枝監督の本来の意図する所でもあるのではないか。そのくらい、日本社会が削り出してきた傷が深くなっているのだろうかと思う。「そして父になる」が、先々週ぐらいにTV放映されていたが、そこでは、落ちぶれた街の電器屋が、まだ、かろうじて生計を立てて、生き生きと描かれていた。しかし、今回の「万引き家族」では、同じ雰囲気の絆や場所が、もうすでに、夢のような非現実的な世界に移行してしまっているような形で描かれている。映画終盤で、駄菓子屋が「忌中」で閉店となり、その後、ガラガラとはかない夢が崩れるように展開していくのが、シンボリックであった。


 「万引き家族」という題名の意味合いは、実際の万引きとは、別のところにもある。これは、「そして父になる」と同じ主題で、是枝さんの根深いテーマのように感じる。また、そういう形態の中に、なにか、真実味のある関係性が析出してくる。そもそも家族の元、男女関係は非血縁関係からなっているものだ。


 この映画をみることで名のある世界の出来事というものを、ちょっと脱臼させながら、見上げることができるようになる。結局、名のある世界が貧困や虐待などの非道を生み出している、人間性を脱価値化する原因にもなっている、そして名がなくてもできる絆もある、そんな斜にかまえたというか、逆に地に足のついた余裕感である。特に、日本社会は、きれいで優秀な商品を生産する分、それを支える名のある社会の中の圧力が強すぎて、その輝かしい商品生産の影になるひずみが大きいのだと思う。日経ビジネスオンラインを見る時にでてくる、夢と主張を語るピリッとした社長たちの姿、おそらく、万引き家族の構成員を切り捨ててきた社長たちの姿、それを、すこし別の場所から、楽にみれるようになる。そんな効能が、『万引き家族』にはあるので、最後の10分まで我慢してみることを勧めたい。


 最後に映る少女は、ベランダの隙間から、ボロボロでも家族の温かさを身にまとったおじさんの面影をのぞきこむが、その視線には、最初に拾われた時に比べると、おそらく、なにか抵抗力をもった、救いのあるようなものに成長しているのではないかと思った。彼女は、傷に手当てする母親らしき人の体験を持っており、また、虐待する母親に「否」をいうことができるようになった。是枝監督は、児童施設に保護された、自分やスタッフに、絵本を読み聞かせてくれた女の子のために、この映画を作ったのだとも、インタビューで話していた。


 なお、音楽は、極めて抑制的に使われているが、要所要所で、非常に効果的でもあったと思う。最後のエンドロールで、担当が細野晴臣であることがわかり、妙に納得した。

文藝春秋5月号に寄す

  特集名に誘われて、5月号の『文藝春秋』を購入したのだが、普段愛読している日刊ゲンダイを読むのと同じようなストレスのなさを感じ、驚いている。安倍のように平気でうそをついて、責任をごまかしながら、美辞麗句をいってけむに巻く輩と長年つきあい、苦い経験を重ねてしまった身からいうと、「訣別」という表現が適切であると感じる。未練を残すと、変わることはできない。もてあそばれるだけである。



文藝春秋 5月号 総力特集『安倍忖度政治との決別』
http://bunshun.jp/articles/-/6901
 『安倍政権と旧日本軍の相似形』
  半藤一利 保坂正康 辻田真佐憲 より

辻田氏「同時に、国をまとめるための「国民の物語」を再構築する必要があるとも感じます。戦前は建前上、天皇のもとで国がまとまり、政治家や官僚から市井の国民に至るまで、自分が貢献すべき「国家」のイメージを持っていた。戦後に「国民の官僚」が生まれないのは、こうした便宜的な物語を欠き、「公共」のイメージが曖昧なまま来てしまったからではないでしょうか」



 これは、私の問題意識と相通じるものだ。例えば、欧米は、社会の基盤的物語として、形骸化しつつあるとも、キリスト教精神があり、それが、公共性を担保している。日本には、それがない。神道は、世界宗教からみると、未開宗教みたいなもので、それの生む公共性というのは、安倍政権や安倍行政のような、人治、忖度、歴史修正、事実無視に堕していく。以前の記事でも指摘したが、「法」を内包していないのだ。今回、その限界が見事に、目前に証明されつつある。
 法治にして、歴史から学び、非を率直に認めながら、かつ、過つ可能性のある人間として支えあい、歴史とともに歩を固めていく、そして、「忖度」するにしても、特定の人間ではなく、そういう原理に忖度しながら、人治を超越した所に基礎をもちながら、治を協働的になしていく、そういう社会に脱皮していく必要があると思う。


辻田「今の時代に即した公共心を共有すれば、不都合な事実を隠し続けるのが、いかに公共の利益に反することか、訴えやすいはずです。むしろ、それができなければ、このまま十年二十年たっても、佐川氏をはじめとする当事者たちは、事実を語ってくれないかもしれない。私はそれを非常に危惧しています」


 これも、同感。人治を超え、かつ、人治の基礎になるような「公共性」を、新たに日本人が持ち得なければ、おそらく、身もふたもない佐川氏のような官僚が、あるいは、安倍氏のような政治家が、はびこって恥じない国になろう。辻田氏と同じ問題意識に対しての私の答えが、以前から言っている以下の記事である。


【過去記事紹介】「朕-臣民-国体」から、「人間天皇-国民-国体」へ
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20170316
 日本の歴史性と、民主主義社会、大戦の反省といった要素を合わせると、「人間‐天皇」という象徴は、新たな国民の物語を醸成していく上で、外せないだろうと思う。日本国民のフォーマットであり、外交のフォーマットになるようなものだ。

皇居乾通りの花見から、戦没者慰霊の道へ

皇居:桜、39万人楽しむ 乾通りの一般公開が終了
https://mainichi.jp/articles/20180402/k00/00m/040/024000c


 先日、東京に行く機会があり、これに行ってきた。千鳥ヶ淵を通り、戦没者墓苑に献花した後、九段に抜けて、靖国神社に初めて入る。戦没者墓苑のまばらな人通りに比べ、靖国神社は多くの人でにぎわいをみせていた。

 戦没者墓苑には、遺骨そのものが、いまでもマリアナ諸島硫黄島から帰還し、供養されつづけている。対して、靖国神社には、身体性を排除された英霊が祀られている。あそこには、「墓」といえる場所はなかったのではないだろうか。この戦災に対するリアリティの差がまずは、感じられた。強かった栄光の日本、威勢の良い軍人像や、ゼロ戦、大砲などの武器展示、そういうものに、自分を重ね合わせて、誇りに感じるというか、酔いしれるというか、そういうメンタリティーがなくはなかろう。しかし、あそこは、終戦で歴史が終わってしまっている施設であると感じた。

それに比べ、千鳥ヶ淵で献花すると、何か、あのような戦争を繰り返さないような、決意じみたものを感じさせてくれる。そして、それが、方角的にはおそらく、「人間天皇」の居られる皇居にむかって祈られることになる。それに比べ、靖国の場合は、未来に向かう祈りの通路というものが、どこにあるだろうか。過去栄光とやらに酔うこと、そこから出てこれるのかだろうか。
 
 話題の遊就館にも、社会勉強をかね、入ってみた。満州事変については、関東軍が行ったことであるという記述はしっかりしてあった。最後には、痛々しいまでの、女性の髪で「必沈」と編み上げられた応援旗の展示もみられた。そして、祭神として、多くの戦没者の写真は掲げられていた。神国日本は、悲惨な末路をたどったが、これからこうしていこう、そういうヴィジョンは、遊就館の中には、なかなか見当たらない。昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」が、最後の最後に展示されてはいるが、本当は、そこからの歴史が重要なのだと思っている。今上天皇は、在位の間、靖国神社に詣でることはなかった。「親の心、子が知り保ち続けた」ということだ。彼がいるからこそ、日本会議安倍内閣の世であっても、日本はアジアの中で存立でき、あるいは沖縄も日本につながれ続けている、そういう紐帯になってくれている。あっぱれである。



Wikipedia靖国神社問題』より】
https://ja.wikipedia.org/wiki/靖国神社問題


2006年になって「富田メモ」に、昭和天皇A級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかった[33]。以下は該当部分。


私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ


日本経済新聞社富田メモ研究委員会」は「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。







千鳥ヶ淵戦没者墓苑の六角堂


今上天皇の歌碑
「戦なき世を歩みて思い出づ かの難き日を生きし人々」



千鳥ヶ淵 皇居のお堀の名称とのこと 貸しボートでにぎわう



靖国神社から出る  
いかに靖国を乗り越えるのか。今後も日本には、ずっと問われ続けるだろう





両陛下、「お忍び」で皇居外を散策 遭遇の通行人、驚く
2018年4月2日09時19分
https://www.asahi.com/articles/ASK422GLFK42UTIL001.html
突然の「お忍び」の散策に、遭遇したランナーや通行人は驚いた様子で、立ち止まってあいさつをしたり携帯電話で撮影したり。両陛下は足を止めて声をかけるなどし、乾通りにつながる乾門の前では手を振ってこたえた。5分ほどの外周の散策を終えると、乾門から皇居へ戻った。両陛下は2014年4月にも同様のルートで皇居外を散策し、周辺のサクラを眺めたという。

/たまたま、天皇皇后陛下も、お花見散策をたのしんだようだ。来年の今頃は、こんなゆっくりとした気分ではおられまい。皇位最後ののんびりとした雰囲気での花見だったのではなかろうか。今上天皇は、在位の間、靖国神社に詣でることはなかったことになる。「親の心、子が知り保ち続けた」ということだ。

ガッティ指揮、コンセルトヘボウ マーラー第4番 17年11月 日本公演

  半年ぐらい前に、カーラジオをつけているとNHK FM ベストオブクラシックで、マーラー2番『復活』が流れていたのだが、これがすごい貫禄のあるテンポ感で、かつ、音楽の構築がギリギリ崩れず、壮大な伽藍を提示してくるようなこれまでにない演奏で、瞠目しながらきいていた。それが、ダニエレ・ガッティ指揮、コンセルトヘボウ管の演奏であった。「ガッティ」で検索したところ、幸運にも11月に来日するとのことで、昨日、サントリーホールで、念願のガッティ指揮、コンセルトヘボウ管のマーラー交響曲第4番を堪能してきた。会場で販売していた2番『復活』のCDも購入し、演奏後にガッティのサインもゲットすることができた。

 彼は、昨年の9月に、コンセルトヘボウ管弦楽団の首席指揮者に就任したばかりとのことで、コンセルトヘボウだからといって尻込みなどなく、これからやってやるぞ、という意気込みがみなぎった指揮者だ。小澤征爾もそうだし、握手もした樫本大進もそうだが、大器のある演奏家なり芸術家は、独特の率直さとオープンネス、健康さがあるものだと感じる。その中にきわめて繊細な感性と、力強い構築力を兼ね備えているものだと思う。ガッティのサイン会では、「Your tempo is fantastic, I think.」と賛辞を贈らせてもらった。最初警戒した表情でおられたが、破顔笑顔で「Thank You!」と返答してくださった。半年前のラジオでの感動を、直に、世界的指揮者に伝えることができるというのも、すごいものだ。日本人らしく、みんな粛々とサインもらってたが、もったいないね。サイン会やるぐらいだから、演奏家も一瞬、ひとことぐらいだったら、聴衆の感想をききたいんじゃなかろうか。


 ハイドンのチェロ協奏曲は、とにかくチェロもうまいし、オーケストラもしびれるほど一体化したサウンドで申し分はなかったが、なかなか身が入らなかった。しかし次のマーラーは、最初から最後まで、ガッティの振るコンセルトヘボウ管の音楽に、息をのむように聴き入ることができた。ラジオできいたガッティの解釈によるマーラーが、そのままに、目前に生で展開されているわけだ。枯山水のような静寂なピアニッシモが極めてゆっくりと続いたかと思うと、いきなり振り切れるような壮大な伽藍があらわれる。それも、管弦ともに一糸乱れぬ凝集力がある。特に、第一楽章の最終部は、驚くほどの表現力だった。

 テンポが遅い方に振り切れるだけでなく、早い方にも振り切るときがあり、また、ピアニッシモとフォルテッシモの差も効果的に表現されている。それは、彼の確信に満ちた音楽的な解釈によるのだろうと思う。ピアノのポゴレリチを彷彿とさせる所がある。こういう演奏は、N響ではなかなかできないだろうし、小澤征爾を拒否したように、もしかしたら、受け入れられないかもしれない。しかし、マーラーも指揮をした、創造の源を受け入れるコンセルトヘボウであるからこそ、こういう音楽表現の自由さを許容する度量と技量があるのだろう。私としては、大いに評価したいし、応援したい指揮者である。



【参考】
マーラー(1860-1911) 交響曲第2番『復活』 ダニエーレ・ガッティ&コンセルトヘボウ管弦楽団HMV
http://www.hmv.co.jp/product/detail/8233405

大枚果たいて、生演奏きかなくても、これでコンテンツ的には堪能はできるが、ライブの経験は、代えがたい。



ガッティ指揮「マーラー第4番」ロイヤル・コンセルトヘボウライブ
https://www.youtube.com/watch?v=7toiS71nBK8

21日に、サントリーホールで聴いたのと同じメンツのものが、Youtubeですでにあがっていた。私が生で聴いたものと同じ解釈による演奏内容である。

ボストンの指揮者、小澤征爾

 クラシックギターセゴビアもそうだが、とびぬけた演奏家は、やはり巨匠になる前、若い頃に迫真のものがあるのだと思う。YouTubeのおかげで、そういう映像や録音に、簡単に触れることができるようになった。


マーラー 交響曲第2番ハ短調「復活」
Sop シェレンベルク Aluto原直子 合唱 晋友会
ボストン交響楽団 指揮 小澤征爾
1989年12月5日 大阪フェスティバルホール
https://www.youtube.com/watch?v=QH5Q4qfrvqs&feature=youtu.be


 大学時代に、小澤征爾指揮、ボストン交響楽団の演奏CDで、この曲をよく聴いたものだ。彼が、こういうテンペラメントで実際に指揮をしていたのか、と、今回通してみさせてもらい、非常によくわかった。特に愛好していた2楽章の踊るような指揮振りは、そうだったのか小澤、と感激ものである。全5楽章で、1時間半の映画なみの長さだが、久しぶりにクラシック音楽動画を食い入るように見入ってしまった。第1楽章が終わった後で、おもむろに小澤征爾が指揮台をおり、前にある椅子にすわってしまったので、これは何なのか不思議に思ったが、もともと、「1楽章の後で5分以上の休憩をとる」というマーラーの指示があり、それに忠実に従っていたものだとわかる。こういう所も、非常に新鮮に感じた。
 演奏のみならず、カメラアングルが、黒澤映画ばりに昭和の迫力にみちているなと思ったら、最後のエンドロールで、演出が「実相寺昭雄」とでた。どこかで聞いた名前だなと思ったら、ウルトラマンシリーズの監督である。彼は、クラシック音楽にもかなり入れ込んでいたらしい。小澤と、アルトの井原と、実相寺、当時の日本人の才能が、1世紀前のマーラーと、当時のいまだ光輝いていたアメリカ国のボストンフィルと、リンクしあった、迫真の日本公演だったのだろう。

 小澤征爾は、私が成人する頃には、すでに世界的な日本人指揮者として持ち上げられていたのだが、どこがすごいのか、今一つよくわからなかった。大野和士は、FMでモーツァルトのオペラ序曲を聴いたときに、「これこそオペラというべき品と艶と歌うようなリズムが息づいた演奏だ」と感じ入ったものであり、山田和樹も独特の精密さとやさしさのある音楽で、一聴一見してよさがわかった。小澤征爾は、何がすごいのか、特にマーラーのCDを何枚か愛好して聴いていたとしても、なかなかよくわからなかったのだが、この実相寺演出のマーラー『復活』をみて、はじめて彼のテンペラメントの並外れたものをみさせてもらった気がする。

 それは、みて聴いて美しいという、品のある美、というよりも、それを超えたところに力点があり、それをつかんでそこから湧き出づるような音楽である。最終楽章にみるように、なにかを浄化するような力をも持ちあわせるような迫真の音楽であるし、2楽章にみるように、柔軟性のある喜びでもある。それに呼応するように、アルト井原の4楽章の独唱の迫真の美しさがある。合唱もそうだが、マーラーがインスパイアされたクロプシュトックの詩が、そのまま飛び出てくるような、意味をもった歌になっている。おそらく、パブロ カザルスのバッハ無伴奏チェロ組曲の演奏にも通じるような、「凄み」が小澤の指揮がつくりだす音楽場にはある。それは、エネルギーの満ち溢れていたこの時期の演奏に、特によくみられるのではないだろうか。日本でなされた公演だが、数あるマーラー『復活』の録音、録画の中でも、指折りのものではなかろうか。

 この小澤征爾の才能は、日本国内では開花しなかった。当時のアメリカにわたってこそ、あの独特で自然で、自由奔放な指揮振りが、おおらかに認められ、当地の名門オーケストラの指揮台を得て、オーケストラをかのように鳴らすことができるに至ったのだ。小澤は、1959年にブザンソン国際指揮者コンクールに優勝し、帰国後N響の指揮者として迎えられ活動を開始しているが、1961年には、さまざまな理由があったのだろうが、N響からボイコットされるという事件がおきた。


Wikipedia 小澤征爾 N響事件 より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%BE%A4%E5%BE%81%E7%88%BE
毎日新聞 原田三朗「しかし、ほんとうの原因はそんな立派なことではなかった。遅刻や勉強不足という、若い小澤の甘えと、それをおおらかにみようとしない楽団員、若い指揮者を育てようとしなかった事務局の不幸な相乗作用だった」


その因縁は生きていて、89年のこの日本公演は、NHKが放送することは決してできず、毎日放送開局40周年 記念特別番組ということになっている。

 
 今、小澤征爾は82歳、2010年の食道癌をどうにか克服し、「セイジ・オザワ松本フェスティバル」(旧サイトウ キネン フェスティバル)、「スイス国際音楽アカデミー」で、後進の指導にあたっているようだ。私が注目している山田和樹も、小澤征爾にみいだされた才能である。現役指揮者としては、若い頃のようには活動できなくなってしまったが、小澤の音楽に向き合う破天荒なまでに真摯で天満な姿勢は、今もってしても、世界各地の若い演奏家にインスパイアをあたえている。



【参考動画】音楽ドキュメンタリー 「小澤征爾ボストン交響楽団と共に20年
      1993年、小澤征爾さん58歳の頃のドキュメンタリー
https://www.youtube.com/watch?v=h0pOr1kTX-s
 
 小澤征爾が、ボストンという街で本当に歓迎され、音楽を通して素晴らしいものをもたらしてくれる「よき人」として受け入れられ、かつ、影響を与えていることが、よくわかる番組。青年時代の指揮映像もある。
 ベルリオーズ作品に出演する、2人の女性歌手のインタビューがあるが、私が『復活』をみて受けた小澤の音楽に関する印象と同じようなことを、うれしそうな顔で語っていた。あの当時、あの場所での彼の存在が、ボストンフィル全体に、一体感をもたらすような場をつくっていたのだろう。深い音楽というのは、芸術の世界のみならず、学術的、倫理的、政治的にも、大きな影響を及ぼす潜在力になるものだ。ハーバード大学のある街、ボストンの1979年から1989年の20年間の、メンタリティーを、小澤が支えていた部分があるかもしれない、とまで思わせた。人と街と時代との、一期一会である。

日本会議・安倍政権は、母権制権力ではないか

 以前より、安倍晋三の権力は、基本的に母権制(エーリッヒ ノイマンによる概念で)が本質ではないかとおもっていたが、特に森友学園問題以降、そういう傾向が表にでてきていると感じ、昨日は思い付きのツイートを連投した。立憲主義という社会と法の根幹を、議会をカマクラにして正面から棄却してしまった無法さの勢いは止まらなくなり、それを援護射撃する手下のような、田崎氏、山口氏、佐川氏、読売新聞などのさもしさ、嫌らしさも、際立ってきた。このたびの都知事選は、それをどう国民、特に、首都都民が選挙権を行使してジャッジするのかという意味でも注目されると思う。
 



【6月30日ツイートより】

安倍の権力は、イシュタルだし、メデューサなんだよな。深層心理学的には、基本的に母権制

二見伸明‏ @futaminobuaki
https://twitter.com/futaminobuaki/status/877504036726915073
「萩生田発言はかつての自民党と異なる安倍政権の異常な体質を国民の前にさらけ出してしまった。安部は小心翼々とした嘘つきなことも明らかになった。国民も分かっただろう。しかし大半の自民党議員はオロオロする文科相のように安部の虚像に金縛りになっている。受け皿になるニュー野党共闘を構築せよ」


母権制権力の場合、時間的に通時的に、彼ら彼女らのやってきたことを、鏡に映すようにして、光にさらしてやることが、一番の対処法になる。例えば、稲田大臣の当選当初の写真を本人や国民に見せるとかだ。TPP断固反対の安倍演説でもいい。あるいは、森友他の問題について情報公開の徹底。


みる者を石に変えるというメデューサを倒したのは、ペルセウスであったが、彼は、盾に鏡をつけて、メデューサ自身の顔形相を、彼女自身にみせつけることをした。今、加計問題他でメディアがやっているのは、こういう神話的布置がある。ギルガメシュ神話も、同じ文脈でもある。籠池や前川がやりとおした


ギルガメッシュもそうだったが、リフレクションをやると、母権制権力の手下の者どもから、攻撃をうける破目になる。官邸リークの読売記事などそういうものであった。しかし、本当の英雄であれば、それも跳ね返すことができる。母権制の奴らのように、影で違法行為をする心性はないからである。


ギリシャペルシャ神話では、母権制から父権制の移行が、こういう形でなされているが、日本神話のヤマトタケルは、その点未熟であろうと思う。「法」の樹立がなされていない。日本会議の英雄、安倍をみれば、わかるだろう。


ヤマトタケルは、太刀を持ったが、賊を打つという父の命令に従う残酷さがあっただけで、法・社会の意識などなかった。太刀を持ったヤマトタケルが、鏡も持ちうるのかどうか。歴史認識を正当にした上での、「侵略はしない」明言で再軍備ということで、9条改憲小林節案がそれに相当するかもしれない。これが、二見のいう「ニュー野党共闘」になっていけば、そして、自民党勢力もこれに加わっていけば、また、日本の歴史も、より、創造的な方向にかわるだろう。「父権制」の要素が、国民自身の力によって、歴史的にひらかれていくかどうか。


しかし、情報公開、報道がなされても、国民が、「強い方がいい」「綺麗な方がいい」「儲かる方がいい」「陰でどんなことやっていてもそっちの人がいい」というのなら、このゲーテの格言を捨て台詞にするしかない。

ゲーテ名言集‏ @Goethe_ja
https://twitter.com/Goethe_ja/status/329008379899047936
三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、やみのなかにいよ、その日その日を生きるとも。



【参考 過去記事】
ノイマン『意識の起源史』からみた現代
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140404

ノイマン『意識の起源史』からみた現代 2
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140409

ギルガメシュの三行半
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140410

ジャーナリズムは言論の暴力・虚言に立ち向かうべきである

NAVERまとめ】NHKBBCよりもヒドい原因は、日本人にメディアの自由を望む「文化」がないからと英紙記者

日本在住のイギリス紙記者のデイビッド・マックニール氏はインタビューで、昨今のNHK問題をめぐり、たびたび引き合いに出されるイギリス公共放送BBCとの最大の違いは国民のメディア観の影響があると持論を展開している

更新日: 2015年12月04日
https://matome.naver.jp/odai/2144921300372230101


イギリスのユーモア、諧謔にあたるような、笑いの中に、踏ん張りながらたちつづけ、同時に自己限定していくような、紳士的エートスが、日本人には、マスとしては欠けているのだろうか。これは、立憲主義を可能にするようなエートスでもあると思う。また、科学精神、経験主義をも可能にするエートスでもある。


 山口は、権力にとりこまれ、あるいは、みずから率先して売り込んでいき、言論の誠実さを売り渡したのだろう。田崎とか、櫻井とかみていると、ジャーナリストも、天下り先を確保してやった方が、生き残り戦略で害悪を垂れ流すソフィストに落ちぶれないで済むかもしれない。

山口敬之 準強姦疑惑(週刊新潮
https://twitter.com/rxxXoJEnqzBGGOS/status/864977228773208064



 ジャーナリズムは、民主主義を可能にするために、是非とも必要な仕事である。国民を、国の内外の、権力による横暴からリアルタイムに守るためにも、あるいは、政府の無知や無恥をただすためにも。また、その上で、政治家、ステイトマンに対する導きの素材を、正確に提供するためにも。だから、本来は、BBCのように、ジャーナリズムを公共財としてみなしていく必要があるんじゃないかと思う。そして、それに従事する人々も、医療や教育に従事する場合同じように、一定の教育や、倫理感、倫理宣言、そして、政治信条にかかわることなく、最低限のコンセンサスの得られるような資格があってもいいのではないか。その上で初めて、思想性が加味されるべきだろう。虚偽報道をしたものは、ジャーナリスト連盟から、制裁を受けるとかそういう規範が、新聞・雑誌報道の中にはあってしかるべきである。一般の公的資格の世界では、そういうことをしたら、即制裁されるのは職業倫理として当然であろうが、ジャーナリズムの中では、それが、制度的に成り立っていない。例えば、平成の大獄ともいえる小沢事件は、今もって、最右翼でもあったNHKも、日本の五大新聞社の何処も謝罪もしていないし、あの時に剥奪された小沢氏の名誉は、今もって回復されていない。

 思うに、今の、政治や言論のリアルな世界では、「嘘」が、言論上の武器にもなっているし、盾にもなっている。それは、実に、権力やメディアによる言葉の暴力でもあると思う。それを批判、検証、制裁し、あるいは再教育するようなシステムがあるべきだろう。本当に、自分の欲しいもの、保身のために、素知らぬ顔で嘘をつきとおす奴はいるものである。10秒後には、他の者に確認すればバレるような嘘でも、1対1の場面で、その瞬間には検証できないので、「本当かな」と思わせられる。そいつは、妙に堀が深い顔をした落ちぶれた奴だったが、若いころは美形だっただろう。金とパンとスポーツ、整形された美形と虚飾にみちた美辞麗句、他人を貶めることによる特権意識、親や先祖の名声、そういう表面的感覚的快刺激と、言論上の「嘘」という不快がバーターで取引されて成り立っているような世界が、公私問わずにあるような気がしている。

 『サイコパス-冷淡な脳-』(星和書店)を読んで学習したが、嘘つきというのは、先天的というよりも、彼らの社会学習の結果だ。「アンダーコントロール」と嘘をつくことで、オリンピックという利益もえられるし、「辞めてやる」と潔さを示すことで、その場の保身にもなる。その後に、虚言を検証した上での虚言者への制裁が弱ければ、嘘をつくことに条件づけられていく。これが、精神や社会に歴史性があるかないかの別れ道にもなる。言葉の暴力である嘘をついて利益と保身を得ることをよしとするか、悪しとするか。安倍政権に妥協するかどうかは、そいういう所の価値感によるのだろうと思う。個人的には、TPPから始まる安倍の嘘は、私の許容限度を、はるかに超えているし、それを許容する日本社会が、実のところあまり好きではない。「嘘」のケガレも、あまりに募ると、美辞麗句の薄っぺらさ、さもしさが見え透いてくるものである。そのケガレを浄めることができるのは、嘘をついた、だまして申し訳なかった、という悔告なのだが、「日本会議」の称揚する大和魂には、そういうエートスが、反社会性を持つまでに欠けているのだ。そいうことが度を超え、モラルハザードを起こしている時にかもしだされるものに対する、醜さ、さもしさ、恥ずかしさの感性が、何故、マスとしての過半数の日本人にはないのだろうか、と思っている。

 いずれ、嘘で得た利益も吹き飛ぶような、信用収縮をきたす可能性があるのにもかかわらずだ。だから、虚言者にとっては、嘘を暴くものが、「言論テロ」になるわけだが、あまりに嘘つきの利益を享受していると、嘘つきの論理に、カタギの日本人も巻き込まれ、加勢していくようになる危険があるだろうと思っている。すでに財務官僚も安倍の嘘に、重要書類を隠蔽しながら官僚生命をかけて加担しているわけだが、安倍政権下での、共謀罪成立の危険性というのは、そういう所にある。