皇居乾通りの花見から、戦没者慰霊の道へ

皇居:桜、39万人楽しむ 乾通りの一般公開が終了
https://mainichi.jp/articles/20180402/k00/00m/040/024000c


 先日、東京に行く機会があり、これに行ってきた。千鳥ヶ淵を通り、戦没者墓苑に献花した後、九段に抜けて、靖国神社に初めて入る。戦没者墓苑のまばらな人通りに比べ、靖国神社は多くの人でにぎわいをみせていた。

 戦没者墓苑には、遺骨そのものが、いまでもマリアナ諸島硫黄島から帰還し、供養されつづけている。対して、靖国神社には、身体性を排除された英霊が祀られている。あそこには、「墓」といえる場所はなかったのではないだろうか。この戦災に対するリアリティの差がまずは、感じられた。強かった栄光の日本、威勢の良い軍人像や、ゼロ戦、大砲などの武器展示、そういうものに、自分を重ね合わせて、誇りに感じるというか、酔いしれるというか、そういうメンタリティーがなくはなかろう。しかし、あそこは、終戦で歴史が終わってしまっている施設であると感じた。

それに比べ、千鳥ヶ淵で献花すると、何か、あのような戦争を繰り返さないような、決意じみたものを感じさせてくれる。そして、それが、方角的にはおそらく、「人間天皇」の居られる皇居にむかって祈られることになる。それに比べ、靖国の場合は、未来に向かう祈りの通路というものが、どこにあるだろうか。過去栄光とやらに酔うこと、そこから出てこれるのかだろうか。
 
 話題の遊就館にも、社会勉強をかね、入ってみた。満州事変については、関東軍が行ったことであるという記述はしっかりしてあった。最後には、痛々しいまでの、女性の髪で「必沈」と編み上げられた応援旗の展示もみられた。そして、祭神として、多くの戦没者の写真は掲げられていた。神国日本は、悲惨な末路をたどったが、これからこうしていこう、そういうヴィジョンは、遊就館の中には、なかなか見当たらない。昭和天皇の「新日本建設に関する詔書」が、最後の最後に展示されてはいるが、本当は、そこからの歴史が重要なのだと思っている。今上天皇は、在位の間、靖国神社に詣でることはなかった。「親の心、子が知り保ち続けた」ということだ。彼がいるからこそ、日本会議安倍内閣の世であっても、日本はアジアの中で存立でき、あるいは沖縄も日本につながれ続けている、そういう紐帯になってくれている。あっぱれである。



Wikipedia靖国神社問題』より】
https://ja.wikipedia.org/wiki/靖国神社問題


2006年になって「富田メモ」に、昭和天皇A級戦犯の合祀を不快に思っていたと記されていたことがわかった[33]。以下は該当部分。


私は 或る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々と
松平は平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている
だから私 あれ以来参拝していない それが私の心だ


日本経済新聞社富田メモ研究委員会」は「他の史料や記録と照合しても事実関係が合致しており、不快感以外の解釈はあり得ない」と結論付けた。







千鳥ヶ淵戦没者墓苑の六角堂


今上天皇の歌碑
「戦なき世を歩みて思い出づ かの難き日を生きし人々」



千鳥ヶ淵 皇居のお堀の名称とのこと 貸しボートでにぎわう



靖国神社から出る  
いかに靖国を乗り越えるのか。今後も日本には、ずっと問われ続けるだろう





両陛下、「お忍び」で皇居外を散策 遭遇の通行人、驚く
2018年4月2日09時19分
https://www.asahi.com/articles/ASK422GLFK42UTIL001.html
突然の「お忍び」の散策に、遭遇したランナーや通行人は驚いた様子で、立ち止まってあいさつをしたり携帯電話で撮影したり。両陛下は足を止めて声をかけるなどし、乾通りにつながる乾門の前では手を振ってこたえた。5分ほどの外周の散策を終えると、乾門から皇居へ戻った。両陛下は2014年4月にも同様のルートで皇居外を散策し、周辺のサクラを眺めたという。

/たまたま、天皇皇后陛下も、お花見散策をたのしんだようだ。来年の今頃は、こんなゆっくりとした気分ではおられまい。皇位最後ののんびりとした雰囲気での花見だったのではなかろうか。今上天皇は、在位の間、靖国神社に詣でることはなかったことになる。「親の心、子が知り保ち続けた」ということだ。