「無知の無知」の知

[随想]

 信と基盤を同じくする方とは、初めて会っても、旧友の如くである。路傍で返りみられなくなっているが、made in Japan の誇れることだと思う。

 しかし、明治維新、敗戦をへて自由を謳歌しながら、一方で、5世代かけて家の物語と宗を失ってきた。そして、失ったことをも忘れさってしまった。「無知の無知」だ。ただ、この失われたものがないと、とてもまともに生きていけんという子孫もでてくる。彼の前には、おそろしく大きな、かつ、透明な、壁が立ちはだかっている。何も、不自由も困難もないようにみえるが、そこに見えない壁がある。無知の無知だから、乗り越える壁が何であるのかさえわからない。この無知の無知は、壁がみえる段階の無知の知から、壁を乗り越えるような知の知へ至るのではなく、壁を乗り越えて初めて、壁がなんであったかを知ることになる。無知の無知から、知の知にいたって、初めて無知だったこと、失われていたものが何であったかを知る。

 逆に、知の無知がある。家の物語も宗も、幸運なことに失われず、代々保たれていた場合だ。彼は知ってはいるが、その真の重要さ、失われた場合の悲劇については、無知である。無知の無知から知の知に至った場合とは異なっている。知の無知の方達からすると、無知の無知から、知の知に至った人は、かなりの驚きをもってみられる。「お前は、なぜその知を自ら知るにまで至ったのか?」と。だが、同じ知を共有するから、旧友であるわけだ。この喪失と再発見は、なんらかの、おそらく決して小さくはない意味はあるんだろうと思う。