戦争は職業軍人に任せられるべきではない

「戦争は職業軍人に任せられるべきではない」というのは、要は、シビリアンコントロールということだが、あまりにこの言葉が、日本国憲法の言葉と同じく、現在の日本では弱体化してしまっている。シビリアンが、軍国主義を標榜してはばかりない石原慎太郎のような政治家の起こした行動に、間接的にコントロールされつつあるのだから。そうならないためにも、「軍」という存在を、日本国民の手に取り戻すためには、国民自身が積極的に参加する軍隊、スイス的な徴兵制による軍隊を作るのが解答の一つになるのではないかと思っている。


ネット界広しといえども、徴兵制とともに、尖閣再棚上げを主張している者は、私一人であろう。集団的自衛権の問題も、徴兵制であれば、国民一人一人の生き死に、あるいは、他国民を殺すかどうか、そういう問題として突きつけられる。サッカーみている間、閣議決定されちゃいました「怒」、では済まない


何故、他国と戦争にまで至るのか、他に手がなかったのか、本当に真剣に考えるようになるだろう。本来、戦争は、職業軍人にまかせてはならない。やるなら、各国民が、相手国民をいざとなったら殺さざるをえない、そういうことに手を染めざるを得ない、そこまで、血が出るほど悩みぬかねばならない。そこまで真剣に考えれば、身近なところでは、尖閣諸島国有化にあたって、これまでの政府の棚上げ対応を変えてしまったのは、日本ではなかったか、そういう反省に正直に思い至ることができる。


また、そこまでいって、はじめて、一部階級が、騙して戦争をさせて、侵略し、相手国の資源や基幹産業を買収してもうけて、力をえていく、そういう類の戦争をする余地がなくなる。「国民は、傭兵ではない」と、はねつける力になる。職業軍人組織だと、どうしても、思想的、利権的に丸め込まれるだろう。


大義のない戦争であればあるほど、軍には、カネのない奴や、前科者や、そういう仕事をしたい奴が多くなり、組織もみだれる。また、派遣先で残虐行為を行う歯止めがなくなる。こういう問題は、「平気でうそをつく人たち」の著者は、ベトナム戦争の事件を例に考え、徴兵制でしか防げないだろうと判断した。しかし、アメリカ軍はその後も同じ轍を歩み続け、イラク人虐待写真も多数でたように、イラク戦争で同じようなことをやってしまっていた。


集団的自衛権行使を、安倍総理肝いりの法制懇に参加した有識者岡崎久彦)も「戦争になったら最後は、そういう総理大臣を選んだ国民が悪い」と、早々と最後っ屁を、それも公衆の面前でブリブリいわせながらだしている中で、解釈改憲で容認しますとなると、日本国憲法にのっとって働くと宣誓している自衛官の中には、やめるものも多くでるだろう。それを補うのが、「憲法?どうでもいいよ」という新人だ。


そういう人間が多く集まる軍隊に、自衛隊がなってゆき、トップレベルも、そういう者をまとめるための、暴力的な、議論などない上下組織に、ますますなってゆくだろう。「日本人の軍隊」という本来の目的をはずれ、何らかの、誰かの、利益や怨念のための軍事行動に、走らされてゆく。徴兵制では、そうはいかなくなる。上官も、国民の命を直接使うための、かなりの説明責任と、高潔な倫理感、バランス感覚を要求される


そういう国に、日本がなることを、私は夢見ている。それこそが、先の大戦を、発展的に乗り越え、無駄死にさせられた山のような戦死者の御霊を弔う、そういう本当の道だと思う。


参考)スコット・ペック著  『平気でうそをつく人たち』 草思社http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_0741.html