伊藤乾氏による、簡易版『トリスタンとイゾルデ』鑑賞記

1.総評

 一昨日、12月1日に、ワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を拝聴観劇してきたのだが、その会場は、なんと三田にある慶応大学の北館ホールという、200人〜300人そこらでいっぱいになりそうな小ホールだった。ツイッターで、勝手にいろいろお世話になっている指揮者の(一介の匿名愛好家に相手をしてくれる指揮者という存在が奇跡的と思うのだが)伊東乾先生が芸術監督であり、さらに総監督が、日本ショーペンハウアー協会現会長の高辻氏である。ショーペンハウアーは、個人的には非常に思い入れの強い思想家であるのに加え、さらに、ワーグナー作品中、音楽的な充実度の高いトリスタンとイゾルデ、さらに、伊東先生プロデュースということで、私にとっては、ツボがてんこ盛りの企画であった。結局、午後1時半から、午後8時半まで、7時間はかけて、演奏とちょっとしたシンポジウム、質疑応答が長丁場で行なわれたが、極めて充実した時間を過ごさせてもらった。
 多分、ワーグナー楽劇に何を期待するのかによって、この高辻、伊東による試みは、180度違うぐらいの評価をされるものとなるのではないか。彼の楽劇に大規模なオーケストラの迫力ある音響、豪華絢爛な演出やオペラ歌手の衣装、さらに、そういったもの全体、日本での「オペラ」という言葉がかもし出す、特権階級的な時間の過ごし方、社交の仕方などの満足感、そういったものを、ワーグナー楽劇に求める方たちには、今回の試みは、もしかしたら、慶応大学での「学芸会」のオペラの真似事、リハーサルぐらいにしか見えないし、聴こえないかもしれない。そういう、未だ荒削りで手作りな所、粗相な所は確かに見え隠れはした。(個人的な痛かったポイントとしては下の注参照)しかし、全体を総合すると、それを補って余りある日本における「劇的オラトリオ」の価値ある試みだったと私は思う。




2.日本の伝統にも連なる形のワーグナー「劇・場」の創出と、そこから伝わるもの

 今回催された、「音楽劇」は、小規模であるがゆえにこそ、場合によっては会場の中を歩き歌う、歌手の声や表情、衣装が手に取るように、身に感じられるように届くところがあった。さらに、その声の空間的配置が劇作家ワーグナーのト書きを再生するようにできるだけ配慮されていることから、大規模演奏では決して味わえないような、楽劇の時空間の「場」が、そこに顕現していたと思う。これらの中にこそ、意外と、ワーグナーが観客に提示したかった、体験させたかった所のエッセンスがはいっているのかもしれない。「トリスタンとイゾルデ」を通して聴くのは2回目で、一回目は2008年ビシュコフ指揮、パリ国立オペラ管弦楽団で聴きとおしたのだが(まあ、これも独特の簡素な演出だったが)、同じように字幕が映し出されていたにも関わらず、その時よりも、少なくとも「劇」としての体感密度はよっぽど高かった。伊東先生は、今回の試みを「落語」に喩えたりもしているが、柳家喬太郎のような真打の落語家の語りを聴く時の、身の入り方に近いような、そういってもいいような劇・場が顕現していた。
 この、舞台と観客席が一体となるような感じは、音楽や語りに入り込んで、時間の過ぎ去るのを忘れるような感覚は、本当にマエストロな落語家、演奏家であれば、舞台一つで、大した演出はなくても作り出すことができるのだが、今回は、指揮者や歌手のレベルの高さに加えて、ワーグナーがあらかじめ仕込んだいたように空間的な声の配置に趣向をこらすことによって、第一幕であれば、あたかも慶応北館ホールが、トリスタン、クルヴェナール、イゾルデ、ブランゲーネ、および後ろのマスト上の水夫たちとともに、一つの船上にあって、そこで楽劇をみているような感覚をもたらしていた。簡素な演出の一つである、投影画面が島の岸に近づき、客席後ろの天井付近から聞こえる水夫の掛け声が勢いを増すにつれて、客席全体が岸に迫るような臨場感があり、トリスタンとイゾルデの掛け合いが追いつめられてゆく感じが身に迫ってわかってきた。第二幕ではブランゲーネが客席の通路を、座席後部から少しづつ舞台に近づきながら、媚薬で変わり果てたイゾルデを諭すように歌う場面があったが、あれも、客席中に舞台を延長したような効果をもたらしていた。この辺は、歌舞伎や能の舞台効果に近い、さらに、NHK歌謡ショーなどでも自然にやっているような、ある種の日本の伝統的な客席通路の使い方でもあるのではないかとおもう。歌手の声のみでなく、衣装や表情、姿勢、さらに演じている心根、この全体の醸し出すものが、伝わってこれる距離というものの限度が、多分あるんじゃないかと感じた。三幕最後で、イゾルデが舞台に登場するときの絶唱の場でも、彼女が客席通路をゆっくり歌いながら、客の顔を見渡して自分の思いを確認するように、進んでいったのだが、あの場面での、あの演技と音楽、それからあの衣装に、個人的には感極まるものがあり涙した。こういう感じのオペラへの参入感は、とても、大劇場では味わえんものがあると思う。
 もう一つ、衣装について。案内によると「小野智海」というデザイナーによるものということだ。腕に入れ墨を入れるクヴェナール、一見、白衣を着ているようにもみえるトリスタン、それと対比して、完全な常識的な正装を通すブランゲーネなど、それぞれ、そうかと納得させられるものではあり、伊藤先生のネットでの案内文からは、もっと奇抜なものを予測していたので、ショックは少なかった。いい意味でショックだったのは、やはり、イゾルデの衣装である。第一幕の時点から、後ろを振り向くとハンガーが腰の所についている。この辺に、媚薬を服す前からある、イゾルデにある、何かの危うさを意味させようとしているのかと思われたが、圧巻だったのが、第二幕で登場してきたイゾルデの衣装というか、装飾である。UFOキャッチャーで捕ってくるような人形が、束になってつらねられた帯のようなものを、肩から膝に届くほどまでに掛けている。全体の色調からも、イゾルデが第一幕の威厳をひっくり返して、媚薬、あるいは、これは恋愛時の女性的なホルモンや神経の変調ととっていいと思うのだが、それで「いってしまった」姿、昼の世界から遠く羽ばたいてしまった姿、そして、それを自覚していない姿を、見事に象徴していると、一瞬で感じた。これが、3幕最後まで通されるのだが、能であるような「狂」の姿、また、それのみが指し示しうるような痛切な三幕終場での「哀」の姿、それを十分に表現していたと思う。
 今回の試みでは、歌手は、立ち位置や発声の方向について、かなり詳細な検討を経た演出がされていたが、歌手の体のダイナミックな動き、演技は、ほぼ捨象されていたように思う。「劇的オラトリオ」形式といえば、それはそうで、私も、この形式の公演では、そこまでいれすぎると逆になにかが奪われる感じもした。だから、それを補うような形で、象徴的な物語の展開、関係の質の変転を表す現代舞踏(加藤道行氏)を入れたのは、非常に効果的だったと思う。どんな人生経験と、舞台経験から、彼の動きが生まれたのか、やや興味深かったが、とにかく、トリスタンの死の象徴も含め、厳粛な効果を生んでいたと思う。詳しくないのだが、能の場合は、シテやワキが、楚々と歩いたり、回転したり、ちょっと飛んだり、いろんな象徴的な動きがあるが、歌舞伎のような派手な現実をまねた「演技」はない。今回は、第2幕で、トリスタンがメロートの刃に向かって言ったり、最後に半狂乱で喜んで息絶えたりするところでも、それとわかるアクションはなかったが、ごく自然に通ったと思う。それは、基本的には、視覚に訴えずとも「音楽」が、しっかりとそのアクションを代弁してくれていたからだろう。


3.音楽について

 最初の伊東先生の話で、ワーグナーがギターをかなり使って作曲していたという内容があり、序曲の入りを、ギターではなく、携帯チェンバロのような小さな楽器で提示し、その後、ピアノが引き継いでいった。ピアノがオペラ全体の伴奏を務め、同時に登場する楽器は、ピアノをいれて、全部で4つのみであった。トランペット、オーボエクラリネットだったり、オーボエイングリッシュホルンになったり変化はある。フルオーケストラでこの「トリスタンとイゾルデ」を聴きとおすと、「音楽をたっぷり聴かせてもらったな」という感覚が残る部分があるのだが、この公演では、音楽が劇の中に溶け込み、「劇をみせてもらったな」という印象の方が大きかった。伊東先生の指揮は、初めて聞かせてもらったが、最初の序曲の入りのテンポ感、アクセント感からして、これは、彼の指揮なら、個々の奏者はいろいろでも、身を任せても大丈夫だと思わせるレベルだった(失礼)ので、安心して聴かせてもらっていたし、劇に集中させてもらっていたからだと思う。それだけ、「声」が、この公演での音楽の主体になっていて、ドイツ語わからない者でも字幕をみることで「劇」に直結していたのだと思う。楽器は小編成の小編成だったが、高度に劇と融合した、質の高いワーグナーの音楽を聴かせてもらっていたと思う。まあ、彼が「トリスタンとイゾルデ」から使ったといわれる「楽劇」だ。



4.シンポジウムについて  

 2つの幕間と、公演が終了した後の、3回、シンポジウムが企画されていた。それぞれ興味深く聞かせてもらったが、進行次第に「劇作家としてのヴァーグナー」、「ヴァーグナーヴェルディ・劇場空間演出」と立派な題目があるので、これも楽しみにしたのだが、講演というよりも、大分即興性のあるやり方だった。
 意外と即興OKな雰囲気が、舞台上にあったので、私は、最後の質疑応答が許されたときに、せっかくショーペンハウアー協会の会長であり、かつ、ヴァーグナー研究家の代表格でもあるという高辻先生がおられるので、日頃疑問におもっていた点を質問させてもらった。それは、ショーペンハウアーに影響をうけて書かれた楽劇といわれている「トリスタンとイゾルデ」だが、その解決の仕方、愛と死というのが、ショーペンハウアーの提示する救済の在り方と、かなり違うのではないか。彼は、「意志の否定」と言ったが、決して自殺や死を進めていたわけではなく、出家のような生活や、過去の聖人伝にあるような生き方をすすめていた。これに対して、「トリスタンとイゾルデ」の主題は、盲目的な意志を象徴する夜の世界に、昼の世界が呑みこまれ、崩れてゆくこと、さらに、そのただ中であっても、男女の純愛と死がなんらかの救いというか、解決になっていることにある。これはショーペンハウアーの哲学的な帰結を、ワーグナーなりに変奏した結果だと思うのだが、それについて、どう思うかと、そう質問させてもらった。会長には、意志についての説明はしていただいたが、なかなか拍子を抜いてしまった問いかけだったのかもしれない。まあ、初っ端からヘビーな哲学的宗教的な問いかけを、ドイツ文学出身の会長にぶつけるには酷だったかもしれないが、7時間もつきあい続けた、あの場なら許してもらおう。
 その他、作家の小中陽太郎さんが、質問にたってくれたりして、有意義なやりとりを聞かせてもらった。この「トリスタンとイゾルデ」において、ワーグナーが劇重視から音楽重視の方向に舵をきり始めたということはあったようである。高辻氏いわく、第2幕の歌詞は「うわごと」のようだと言っていたが、第3幕も「独り言」がほとんどである。この点、ショーペンハウアーの、芸術の最も高度の形式が、「意志」を表象を介してではなく、直接表現している「音楽」であるという哲学を受けたものだとも思われた。宗教的哲学的概念は別にして、高辻総監督が最後の最後に述べたように、音楽的に、2幕で完結されなかったものが、3幕の最後に完結している。これは、確かである。そういう意味で、劇の進行を包み込む、音楽の中で、なにかをワーグナーは提示してくれたということかも知れない。あるいは、個体化の原理を超えて働くような意志の横暴な力を経てでも、男女の絆が維持される姿、そこにある「悲」と「愛」について、またそういった所で共に現出する、人間の個体化をこえて存在している、自然界の意志との共鳴性について、まあ、こんな所を、ワーグナーは音楽で表現しようとしたのかもしれない。
 


【監督及び主な出演者陣】

総監督  高辻知義
指揮・芸術監督 伊東乾  
学術監督 粂川麻里生


トリスタン 池本和憲
ゾルデ  新藤昌子
クルヴェナール 大井哲也
ブランゲーネ  北澤幸
マルケ王 大塚博章
メロート  並木隆浩


ピアノ  小ノ澤幸穂
     濱田裕子
オーボエイングリッシュ・ホルン  佐竹真登
クラリネット、バス・クラリネット  吉岡奏絵
トランペット  原田照久


舞踏 加藤道行  


衣装 小野智海
舞台美術 吉田顕
 



注)この試みでは字幕をいかに見せるかは一つの命であったと思うのだが、せっかくの高辻氏の手になる名翻訳の台詞の画面が、1日の公演でも歌手や譜面台に隠されてしまう時が一部あり、この点で、観客席の視点からの詰めが甘かったと思う。もう一つは、パソコン不調による画面の途切れや、さらに風景画面が切れて通常のパソコン壁紙画面のようなものが出てしまう時があった。短時間ではあったが、音楽と劇内容に参入している身からすると、その断絶と、現実的日常性の露呈が、せっかくの劇的「空気」に「水を差す」ような所があった。この演出の途切れは、音楽でいうなら、音が止まること、一瞬でも、歌の途中で普通の日常会話をしだすことに匹敵すると思うので、この点も、もうちょっと緊張感が欲しかった。トリスタン役の池本さんが咳き込む場面があったことについては、あれは、彼一人で、歴史的にはトリスタン役をやった歌手が、負担もあってか死んでしまったこともあるような困難な役を、連日で公演をしていたということもあり、私はなんとも言わない。むしろ、歌唱の部分に影響しないように、多分いろんな理由で条件が悪い中でも、迫力を保ってよく歌いきってくれたプロ意識に拍手したいぐらいではあった




【参考リンク】
1.ワーグナートリスタンとイゾルデ》〜愛の死 ビルギット・ニルソン
  http://www.youtube.com/watch?v=FhtFbF02IVQ
  独日の対訳歌詞が画面で出る。この音楽にこめられた、詩的生命がいかなるものかよくわかる。


2.Tristan und Isolde - End of Act 3 - Liebestod
  https://www.youtube.com/watch?v=OAEkTK6aKUM
  英訳歌詞がでる。7分30秒あたりからイゾルデのLiebestodが始まる。ちなみに、動画開始の場面ではすでにトリスタンは横たわった亡骸となっている。最終場面へいたる文脈がなんとなくは分かる。歌手、演出もまずくはない。


3.Isoldes Liebestod - Waltraud Meier
  https://www.youtube.com/watch?v=3SA2KsY0ZRI
  独英歌詞がでるもの。奇跡的な程の、役への入り込みをイゾルデ役のマイヤーがしている。12月1日の公演での新藤さんのイゾルデも、これに似た雰囲気があった。
 最後の演出は、わかりやすくするための演出家の「親心」なのかもしれないが、ショーペンハウアーの洗礼を受けたともいえるワーグナーの真意を外してしまう。ワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」は、決して心中物ではない。トリスタンは、イゾルデが、自分の故郷に来てくれた、昼の世界に我が元に来てくれたと知り、傷身歓喜する中で息絶えてゆく。トリスタンの故郷に到着したイゾルデは、既に亡骸となっているトリスタンを見つけるのだが、そこから、このLiebestodが始まるのだ。このLiebestodを「愛の死」と訳すのは誤訳だと、高辻名誉教授が、最初の最初にいきなり登壇しておっしゃっていたが、確かに、ここでは、肉体的な、分かりやすい死が描かれているのではなく、イゾルデは、あの歌、音楽の進行、解決の中で、大自然の意志の調べとの共鳴、合一の方向に、インド的にいえば「梵我一如」の方向に導かれてゆく。それも、「どうしたらいいの?」と戸惑い困惑しながら。だから、Liebestodは、正確に訳すとなると「イゾルデの悲愛と梵我一如」といってもいいのではないかと思うのだが、こうすると、詩的センス、響きは悪くなる。「悲愛と涅槃」というと、世に広まる涅槃の意味が多様すぎていまひとつ内容が定まらない。ただ、そういう所、解決をワーグナーは、意図してなのか、あるいは、天の導きによってなのか、作り出したのだと思う。
 では、イゾルデは何らかの救いの調べの内に幕となるが、トリスタンはどうなるのか?薬飲まされて、狂わされて、立場を失って、傷ついて、かわいそうではないか。ハニートラップにかかって死んだ哀れみ深い勇士でいいのか?という問いが起こる。この問いに答えるひとつのヒントは、エジプトの「オリシス」神話にあると思う。これは、オペラ化されていないから、どなたか、是非、「オリシスとイシス」で、チャレンジしてほしいものだ。語感の類似からして、「トリスタンとイゾルデ」は、オリシス神話から派生してきたのかもしれないとも思わせる所があるが、これも、神話学者に解明してもらいたい所だ。


【Liebestod歌詞 高辻訳】
オペラ対訳ライブラリー「トリスタンとイゾルデ」より引用
音楽之友社刊)


穏やかに、静かに、彼が微笑む、その眼をやさしく開く
みなさん、ご覧になれますか?見えていますか?
しだいに輝きをまし、彼がきらめくさま、星たちの光りに囲まれ、昇ってゆくさまが?
見えていますか?
彼の心臓が雄々しく高まり、ゆたかに気高く胸うちに漲るのが?
その唇から、喜ばしくも穏やかに、甘い息吹がやわらかに洩れるさま
みなさん、ご覧なさい!それが感じられ、見られませんか?


私にしか、この調べは聞こえないのですか?
奇蹟にあふれて、かすかに、歓喜を嘆き、すべてを口にして、
穏やかに和解をもたらしながら、彼の口から響いて、
私の胸うちにしみいり、羽ばたき昇る、情愛ふかくこだましながら、私を包む調べが?


響きの輝きを増しながら、私をめぐり包む、それは、さざなみとなって寄せるそよ風でしょうか?大浪となって打ち寄せる歓喜の香気でしょうか?
そのさざなみが、大浪が高まっては私を包んでざわめくさま、私はそれを呼吸し、それに耳を澄まし、それをすすり、そこへ身を沈めたらよいのでしょうか?
香気のなかへ甘く息を吐き切ったらよいのでしょうか?
この高まる大浪のなか、鳴りわたる響きのなか、世界の呼吸の吹きわたる宇宙のなかに―
溺れ、沈み―我を忘れる―このうえない悦び!



【プロデューサー伊東のプロデューサー堤と、その源流としての池袋セゾン】
日本の文化発展に大きく貢献した堤清二さん逝く
トリスタンとイゾルデ」の演奏を捧げる
2013.11.30(土) 伊東 乾 JBpress
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/39320

まあ、あの7時間の公演にいたるまでの背景、歴史にも、語りつくせぬぐらいの、いろいろがあるのだろう。


ワーグナー関係の過去記事紹介】
2013-06-15 平野昭教授のシリーズ『音楽探訪』
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130615


2013-02-16 タンホイザーより「巡礼の合唱」 Pilgrim’s Chorus
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130216


2012-07-23 ピアノ版トリスタンとイゾルデ
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20120723