文藝春秋5月号に寄す

  特集名に誘われて、5月号の『文藝春秋』を購入したのだが、普段愛読している日刊ゲンダイを読むのと同じようなストレスのなさを感じ、驚いている。安倍のように平気でうそをついて、責任をごまかしながら、美辞麗句をいってけむに巻く輩と長年つきあい、苦い経験を重ねてしまった身からいうと、「訣別」という表現が適切であると感じる。未練を残すと、変わることはできない。もてあそばれるだけである。



文藝春秋 5月号 総力特集『安倍忖度政治との決別』
http://bunshun.jp/articles/-/6901
 『安倍政権と旧日本軍の相似形』
  半藤一利 保坂正康 辻田真佐憲 より

辻田氏「同時に、国をまとめるための「国民の物語」を再構築する必要があるとも感じます。戦前は建前上、天皇のもとで国がまとまり、政治家や官僚から市井の国民に至るまで、自分が貢献すべき「国家」のイメージを持っていた。戦後に「国民の官僚」が生まれないのは、こうした便宜的な物語を欠き、「公共」のイメージが曖昧なまま来てしまったからではないでしょうか」



 これは、私の問題意識と相通じるものだ。例えば、欧米は、社会の基盤的物語として、形骸化しつつあるとも、キリスト教精神があり、それが、公共性を担保している。日本には、それがない。神道は、世界宗教からみると、未開宗教みたいなもので、それの生む公共性というのは、安倍政権や安倍行政のような、人治、忖度、歴史修正、事実無視に堕していく。以前の記事でも指摘したが、「法」を内包していないのだ。今回、その限界が見事に、目前に証明されつつある。
 法治にして、歴史から学び、非を率直に認めながら、かつ、過つ可能性のある人間として支えあい、歴史とともに歩を固めていく、そして、「忖度」するにしても、特定の人間ではなく、そういう原理に忖度しながら、人治を超越した所に基礎をもちながら、治を協働的になしていく、そういう社会に脱皮していく必要があると思う。


辻田「今の時代に即した公共心を共有すれば、不都合な事実を隠し続けるのが、いかに公共の利益に反することか、訴えやすいはずです。むしろ、それができなければ、このまま十年二十年たっても、佐川氏をはじめとする当事者たちは、事実を語ってくれないかもしれない。私はそれを非常に危惧しています」


 これも、同感。人治を超え、かつ、人治の基礎になるような「公共性」を、新たに日本人が持ち得なければ、おそらく、身もふたもない佐川氏のような官僚が、あるいは、安倍氏のような政治家が、はびこって恥じない国になろう。辻田氏と同じ問題意識に対しての私の答えが、以前から言っている以下の記事である。


【過去記事紹介】「朕-臣民-国体」から、「人間天皇-国民-国体」へ
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20170316
 日本の歴史性と、民主主義社会、大戦の反省といった要素を合わせると、「人間‐天皇」という象徴は、新たな国民の物語を醸成していく上で、外せないだろうと思う。日本国民のフォーマットであり、外交のフォーマットになるようなものだ。