『万引き家族』鑑賞記

 「万引き家族」を昨日、鑑賞してきた。BGMはほとんどなしで、延々と、今の日本では存在できないような、ボロボロの家族らしき共同生活と、そこでの昭和的絆が、描写される。物語性がなく、途中で、席を立とうかとも思わされるほどであった。そういう意味で、かなり実験的な、娯楽性を排除した、是枝監督による「映画作品」であると感じた。最後までみると、実は、物語はすでに展開しきっていて、「万引き家族」という形で、何かが残っている、その生活と関係性を、延々と描写しているような作品であったことが見えてくる。最後の10分ぐらいで、納得がつく映画だ。前回の日本人監督によるパルムドール受賞作、今村昌平監督の『うなぎ』とつながる、主題性や描写の仕方を感じた。ハリウッド映画とは対極にあるような、社会性の、それも辺縁から描くような社会性を持った作品である。


 仕事や、金銭、地位、名前、家族を失ってまで、なにが残っているのか、そして、何が脈打ち生きているのか、また、その場所から、仕事や金銭、地位、名前のある表の世界の場所が、どう映るのか、そういうことを体験させてくれる映画である。おそらく、こういう体験を共有していくことが、是枝監督の本来の意図する所でもあるのではないか。そのくらい、日本社会が削り出してきた傷が深くなっているのだろうかと思う。「そして父になる」が、先々週ぐらいにTV放映されていたが、そこでは、落ちぶれた街の電器屋が、まだ、かろうじて生計を立てて、生き生きと描かれていた。しかし、今回の「万引き家族」では、同じ雰囲気の絆や場所が、もうすでに、夢のような非現実的な世界に移行してしまっているような形で描かれている。映画終盤で、駄菓子屋が「忌中」で閉店となり、その後、ガラガラとはかない夢が崩れるように展開していくのが、シンボリックであった。


 「万引き家族」という題名の意味合いは、実際の万引きとは、別のところにもある。これは、「そして父になる」と同じ主題で、是枝さんの根深いテーマのように感じる。また、そういう形態の中に、なにか、真実味のある関係性が析出してくる。そもそも家族の元、男女関係は非血縁関係からなっているものだ。


 この映画をみることで名のある世界の出来事というものを、ちょっと脱臼させながら、見上げることができるようになる。結局、名のある世界が貧困や虐待などの非道を生み出している、人間性を脱価値化する原因にもなっている、そして名がなくてもできる絆もある、そんな斜にかまえたというか、逆に地に足のついた余裕感である。特に、日本社会は、きれいで優秀な商品を生産する分、それを支える名のある社会の中の圧力が強すぎて、その輝かしい商品生産の影になるひずみが大きいのだと思う。日経ビジネスオンラインを見る時にでてくる、夢と主張を語るピリッとした社長たちの姿、おそらく、万引き家族の構成員を切り捨ててきた社長たちの姿、それを、すこし別の場所から、楽にみれるようになる。そんな効能が、『万引き家族』にはあるので、最後の10分まで我慢してみることを勧めたい。


 最後に映る少女は、ベランダの隙間から、ボロボロでも家族の温かさを身にまとったおじさんの面影をのぞきこむが、その視線には、最初に拾われた時に比べると、おそらく、なにか抵抗力をもった、救いのあるようなものに成長しているのではないかと思った。彼女は、傷に手当てする母親らしき人の体験を持っており、また、虐待する母親に「否」をいうことができるようになった。是枝監督は、児童施設に保護された、自分やスタッフに、絵本を読み聞かせてくれた女の子のために、この映画を作ったのだとも、インタビューで話していた。


 なお、音楽は、極めて抑制的に使われているが、要所要所で、非常に効果的でもあったと思う。最後のエンドロールで、担当が細野晴臣であることがわかり、妙に納得した。