以前より、安倍晋三の権力は、基本的に母権制(エーリッヒ ノイマンによる概念で)が本質ではないかとおもっていたが、特に森友学園問題以降、そういう傾向が表にでてきていると感じ、昨日は思い付きのツイートを連投した。立憲主義という社会と法の根幹を、議会をカマクラにして正面から棄却してしまった無法さの勢いは止まらなくなり、それを援護射撃する手下のような、田崎氏、山口氏、佐川氏、読売新聞などのさもしさ、嫌らしさも、際立ってきた。このたびの都知事選は、それをどう国民、特に、首都都民が選挙権を行使してジャッジするのかという意味でも注目されると思う。
 



【6月30日ツイートより】

安倍の権力は、イシュタルだし、メデューサなんだよな。深層心理学的には、基本的に母権制

二見伸明‏ @futaminobuaki
https://twitter.com/futaminobuaki/status/877504036726915073
「萩生田発言はかつての自民党と異なる安倍政権の異常な体質を国民の前にさらけ出してしまった。安部は小心翼々とした嘘つきなことも明らかになった。国民も分かっただろう。しかし大半の自民党議員はオロオロする文科相のように安部の虚像に金縛りになっている。受け皿になるニュー野党共闘を構築せよ」


母権制権力の場合、時間的に通時的に、彼ら彼女らのやってきたことを、鏡に映すようにして、光にさらしてやることが、一番の対処法になる。例えば、稲田大臣の当選当初の写真を本人や国民に見せるとかだ。TPP断固反対の安倍演説でもいい。あるいは、森友他の問題について情報公開の徹底。


みる者を石に変えるというメデューサを倒したのは、ペルセウスであったが、彼は、盾に鏡をつけて、メデューサ自身の顔形相を、彼女自身にみせつけることをした。今、加計問題他でメディアがやっているのは、こういう神話的布置がある。ギルガメシュ神話も、同じ文脈でもある。籠池や前川がやりとおした


ギルガメッシュもそうだったが、リフレクションをやると、母権制権力の手下の者どもから、攻撃をうける破目になる。官邸リークの読売記事などそういうものであった。しかし、本当の英雄であれば、それも跳ね返すことができる。母権制の奴らのように、影で違法行為をする心性はないからである。


ギリシャペルシャ神話では、母権制から父権制の移行が、こういう形でなされているが、日本神話のヤマトタケルは、その点未熟であろうと思う。「法」の樹立がなされていない。日本会議の英雄、安倍をみれば、わかるだろう。


ヤマトタケルは、太刀を持ったが、賊を打つという父の命令に従う残酷さがあっただけで、法・社会の意識などなかった。太刀を持ったヤマトタケルが、鏡も持ちうるのかどうか。歴史認識を正当にした上での、「侵略はしない」明言で再軍備ということで、9条改憲小林節案がそれに相当するかもしれない。これが、二見のいう「ニュー野党共闘」になっていけば、そして、自民党勢力もこれに加わっていけば、また、日本の歴史も、より、創造的な方向にかわるだろう。「父権制」の要素が、国民自身の力によって、歴史的にひらかれていくかどうか。


しかし、情報公開、報道がなされても、国民が、「強い方がいい」「綺麗な方がいい」「儲かる方がいい」「陰でどんなことやっていてもそっちの人がいい」というのなら、このゲーテの格言を捨て台詞にするしかない。

ゲーテ名言集‏ @Goethe_ja
https://twitter.com/Goethe_ja/status/329008379899047936
三千年の歴史から学ぶことを知らぬ者は、知ることもなく、やみのなかにいよ、その日その日を生きるとも。



【参考 過去記事】
ノイマン『意識の起源史』からみた現代
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140404

ノイマン『意識の起源史』からみた現代 2
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140409

ギルガメシュの三行半
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140410

NAVERまとめ】NHKBBCよりもヒドい原因は、日本人にメディアの自由を望む「文化」がないからと英紙記者

日本在住のイギリス紙記者のデイビッド・マックニール氏はインタビューで、昨今のNHK問題をめぐり、たびたび引き合いに出されるイギリス公共放送BBCとの最大の違いは国民のメディア観の影響があると持論を展開している

更新日: 2015年12月04日
https://matome.naver.jp/odai/2144921300372230101


イギリスのユーモア、諧謔にあたるような、笑いの中に、踏ん張りながらたちつづけ、同時に自己限定していくような、紳士的エートスが、日本人には、マスとしては欠けているのだろうか。これは、立憲主義を可能にするようなエートスでもあると思う。また、科学精神、経験主義をも可能にするエートスでもある。


 山口は、権力にとりこまれ、あるいは、みずから率先して売り込んでいき、言論の誠実さを売り渡したのだろう。田崎とか、櫻井とかみていると、ジャーナリストも、天下り先を確保してやった方が、生き残り戦略で害悪を垂れ流すソフィストに落ちぶれないで済むかもしれない。

山口敬之 準強姦疑惑(週刊新潮
https://twitter.com/rxxXoJEnqzBGGOS/status/864977228773208064



 ジャーナリズムは、民主主義を可能にするために、是非とも必要な仕事である。国民を、国の内外の、権力による横暴からリアルタイムに守るためにも、あるいは、政府の無知や無恥をただすためにも。また、その上で、政治家、ステイトマンに対する導きの素材を、正確に提供するためにも。だから、本来は、BBCのように、ジャーナリズムを公共財としてみなしていく必要があるんじゃないかと思う。そして、それに従事する人々も、医療や教育に従事する場合同じように、一定の教育や、倫理感、倫理宣言、そして、政治信条にかかわることなく、最低限のコンセンサスの得られるような資格があってもいいのではないか。その上で初めて、思想性が加味されるべきだろう。虚偽報道をしたものは、ジャーナリスト連盟から、制裁を受けるとかそういう規範が、新聞・雑誌報道の中にはあってしかるべきである。一般の公的資格の世界では、そういうことをしたら、即制裁されるのは職業倫理として当然であろうが、ジャーナリズムの中では、それが、制度的に成り立っていない。例えば、平成の大獄ともいえる小沢事件は、今もって、最右翼でもあったNHKも、日本の五大新聞社の何処も謝罪もしていないし、あの時に剥奪された小沢氏の名誉は、今もって回復されていない。

 思うに、今の、政治や言論のリアルな世界では、「嘘」が、言論上の武器にもなっているし、盾にもなっている。それは、実に、権力やメディアによる言葉の暴力でもあると思う。それを批判、検証、制裁し、あるいは再教育するようなシステムがあるべきだろう。本当に、自分の欲しいもの、保身のために、素知らぬ顔で嘘をつきとおす奴はいるものである。10秒後には、他の者に確認すればバレるような嘘でも、1対1の場面で、その瞬間には検証できないので、「本当かな」と思わせられる。そいつは、妙に堀が深い顔をした落ちぶれた奴だったが、若いころは美形だっただろう。金とパンとスポーツ、整形された美形と虚飾にみちた美辞麗句、他人を貶めることによる特権意識、親や先祖の名声、そういう表面的感覚的快刺激と、言論上の「嘘」という不快がバーターで取引されて成り立っているような世界が、公私問わずにあるような気がしている。

 『サイコパス-冷淡な脳-』(星和書店)を読んで学習したが、嘘つきというのは、先天的というよりも、彼らの社会学習の結果だ。「アンダーコントロール」と嘘をつくことで、オリンピックという利益もえられるし、「辞めてやる」と潔さを示すことで、その場の保身にもなる。その後に、虚言を検証した上での虚言者への制裁が弱ければ、嘘をつくことに条件づけられていく。これが、精神や社会に歴史性があるかないかの別れ道にもなる。言葉の暴力である嘘をついて利益と保身を得ることをよしとするか、悪しとするか。安倍政権に妥協するかどうかは、そいういう所の価値感によるのだろうと思う。個人的には、TPPから始まる安倍の嘘は、私の許容限度を、はるかに超えているし、それを許容する日本社会が、実のところあまり好きではない。「嘘」のケガレも、あまりに募ると、美辞麗句の薄っぺらさ、さもしさが見え透いてくるものである。そのケガレを浄めることができるのは、嘘をついた、だまして申し訳なかった、という悔告なのだが、「日本会議」の称揚する大和魂には、そういうエートスが、反社会性を持つまでに欠けているのだ。そいうことが度を超え、モラルハザードを起こしている時にかもしだされるものに対する、醜さ、さもしさ、恥ずかしさの感性が、何故、マスとしての過半数の日本人にはないのだろうか、と思っている。

 いずれ、嘘で得た利益も吹き飛ぶような、信用収縮をきたす可能性があるのにもかかわらずだ。だから、虚言者にとっては、嘘を暴くものが、「言論テロ」になるわけだが、あまりに嘘つきの利益を享受していると、嘘つきの論理に、カタギの日本人も巻き込まれ、加勢していくようになる危険があるだろうと思っている。すでに財務官僚も安倍の嘘に、重要書類を隠蔽しながら官僚生命をかけて加担しているわけだが、安倍政権下での、共謀罪成立の危険性というのは、そういう所にある。

 森本学園問題が、メディアを騒がしている。『日本会議の研究』を著した菅野完氏と、日本会議の大阪支部役員でもあり、森本学園の理事長である籠池氏とが、記者会見の場でのやりとりをきっかけに、同志ではないものの、腹を割って話せる関係となり、籠池氏は日本会議のバッチを外すまでの心境の変化をするまでに至った。そして、本日、籠池氏が、自宅に野党4党の責任者を招き入れ、自分の率直な思いを語り、天敵扱いでもあったであろう、共産党までをも含む4人と一緒に、写真に納まることとなった。




 昨日は、籠池氏が、日本外国特派員協会で記者会見を行う予定であったが、なんらかの圧力によってであろう、中止に至り、東京の菅野氏の自宅に身を寄せるという展開になっていた。それをききつけた、日本の記者クラブメディアの連中が、菅野氏の自宅前で、文字通りの「メディアスクラム」を組み、同じ取材活動をするものの、フリーの身である菅野氏を質問攻めにするという事態が発生した。


籠池氏 会見延期の理由は 03/15 16:45
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00352502.html


 FNNが、ノーカットの41分動画を公開していてくれたので、私も一部始終をみることができたのだが、ここでの菅野氏と記者クラブの記者連中のやりとりというのは、自分の頭で考え、足で行動し、倫理観をもって胸を張って生きるものと、無自覚に空気をつくらされ、ストーリーにあった話をみつけようとするだけの、よれば大樹の陰の雑魚連中とのやりとりとして、印象に残るものであった。なにか、歴史的に大事なことが起きていると思わされるワンシーンだったと思う。この印象は私だけのものではなかったはずだ。そして、本日の自宅に野党議員を招き入れる流れに繋がったのではないかと思っている。さらに、23日の国会の場での「証人喚問」に、籠池氏が出席することになった。籠池氏は、朝日の報道を端緒にして世論の状況が一変するや否や、安倍や稲田から「あんな奴知らない」「しつこい」「会ったこともない」と冷酷無惨に切られてしまった。彼はこの2日間の中で、日本会議のバッチをはずすにまで至ったが、幸いにも、一人になるということにはならず、日本会議的とはことなる連帯の中に掬い取られることとなった。だが、この日本会議を否定した上で成り立つ連帯は、単に批判者の連帯という類のものではない、しっかりとした歴史的で、創造的な基礎があるはずのものである。
 森本学園問題では、私のこれまでの「人間-天皇」論から、批判的に論じておく必要があると思っていたので、本日は、教育勅語の論点から繙いて、ツイートしながら思考を紡いでいった。今のタイムリーな時点でブログ記事としておく必要も感じるため、以下、再録しておく。途中、イタリックは、私のメモである。



『「教育勅語」復活論者は、単に歴史の無知をさらしているだけ』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50764

大本営発表』で話題になった、辻田氏によるまとめ記事だが、簡潔で要を得ており、よくわかった。


【国会ライブラリー】参議院本会議決議本文
第2回国会 昭和23年6月19日 参議院本会議 

教育勅語等の失効確認に関する決議
http://www.sangiin.go.jp/japanese/san60/s60_shiryou/ketsugi/002-51.html
「教育の真の権威の確立と国民道徳の振興のために、全国民が一致して教育基本法の明示する新教育理念の普及徹底に努力をいたすべきことを期する」


教育基本法(平成18年法律第120号)について
http://www.mext.go.jp/b_menu/kihon/about/__icsFiles/afieldfile/2014/12/17/1354049_1_1_1.pdf
第1条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない


これが、今生きている教育の理念的な基本である。現行憲法がその基礎にあることになる


第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。


十分に練られた内容である


教育基本法 前文
「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである」

「我々は、この理想を実現するため、
・個人の尊厳を重んじ、
・真理と正義を希求し、
・公共の精神を尊び、
・豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、
・伝統を継承し、
新しい文化の創造を目指す教育を推進する」

「ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する」



 今現在、教育勅語の替わりになる基本的な文章があるとすれば、この、教育基本法前文が、それに相当するだろう。教育の問題は、どんな社会を目指すかと一体で、国の憲法に直属している。言っていることはいいが、教育勅語のような、皇室神話は入れずに、「個人」の尊厳を、日本の「土人社会」の中に、どう基礎づけるか、それが問題になる


教育基本法 第一条
「教育は、
人格の完成を目指し
平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた
心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」


個人、さらに深くは、人格の形成、完成を目指すとしている。と同時に、「社会の形成者としての必要な資質」を作る。ここに個人と社会の紐帯が表現されているとみれなくもない。そして、どのような社会かといえば、「平和で民主的な国家」、さらに、前文にあるような「民主的で文化的な国家」「世界の平和と人類の福祉の向上に貢献する」とある。おそらく、「人間−天皇」としての象徴行為として、今上明仁天皇は、こういう社会的な理念を大事にされてはきたはずである。


対して、教育勅語は、
神話「朕󠄁惟フニ、我カ皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト宏遠󠄁ニ�噐ヲ樹ツルコト深厚ナリ」
臣民「我カ臣民、克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ」
国体「此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」



 語る主体は、徹底的に、「朕」であり、国民という概念よりも「我が臣民」であり、平和文化国家に紐帯された個人の人格の完成という目標はなく、忠孝的な一体感と、その醸し出す情緒が、「我が国体」という名のもとで、追求されていく。特定の天皇神話と歴史(あくまで天皇自身が言明したように架空のもの)にもとづく「我が国体」の伝承、荘厳、発布が、教育の目的であれば、架空の「我が」に属すると主張する勢力による「国体」の私物化とでもいっていい情緒を生じることになる。その政治的対応物として、情緒的に「お国の為に」として、進んて被私物化されていくような臣民とその財産、行為がでてくるわけである。靖国は、さらに、そのために命をも被私物化させる、情緒的な仕組みといえる。

 日本社会における権威の源をどこにおくのか。それが、天皇を元首とした「我が国体」の護持という所におくか、日本の歴史文化を象徴する「人間‐天皇」と共にある「国民による国体」の護持という所におくのか。その辺が、国家神道の旧新の違いということになるだろうか。個人と社会の間で、最終的な目的、アクセントをどこにおくのかというのは、政治行政の目的をどうするかという点で、明文化するにあたっては非常に難しい。戦後は、個人の人格においたが、父性が失墜し、家族や社会の崩壊という危機も生んでいる。

 私は、「人間−天皇」という所で止揚しながら、縦の線で、日本人の社会的なアイデンティティーと歴史的連続性、個性を保持しながらの、横の線では、各人の人権尊重を可能とするような社会への移行が可能ではないかと考えてきた。「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」への移行である。朕が人間-天皇に下り、臣民が国民に上る。臣民が国民に上る、その自覚と意識が伴わなかったら、ある勢力によって、都合よく人間-天皇が朕に格上げされ、国民が臣民に格下げされていくだろうと思う。その裏で、「天皇」の名の元での国体のプライベート化が生じてくる。菅野氏がメディアスクラムに対抗する姿をみて、米国の威を後ろ盾に安倍という人物を通してあらたに出現しはじめた「朕」に拮抗しうるような、「国民」の姿を垣間見た気がするわけだ。日本国憲法も、教育基本法も、「国民の不断の努力」によって、はじめて可能となるし、そう書きつけられている。シールズがこれを強調したが、実際そうだと思う。これが崩れると、臣民に、つまり、誰かに命令されながら徳を収め、利用され搾取されながらも、蛇に睨まれたカエルの如く、何も言えなくなってしまう者に、なっていく。

 「朕−臣民−国体」から「人間天皇‐国民−国体」への移行。つまり、朕が人間-天皇に下り、臣民が国民に上る、これが、戦後日本の国体の在りかである。新たな「朕」に吸収されないためにも、もっと、「国民」が、この、やや見えにくくなってしまったが確かに存在している国体の在りかを自覚した方がいいと思う。これは、与野党政治家各位も含めてだ。特に、日本会議に属するような極右政治家以外で、象徴天皇制を認める政治家は、与野党かかわらず、この戦後の国体の在りかについてのフォーマットを自覚すべきだと思う。それによって、単なる批判者ではなく、社会の主体的な創造者としての意識と位置を、確保できるだろう。共産党も、象徴天皇を受容するなら、これは、可能である。ある意味、籠池が、共産党政治家も含む、野党政治家と一緒に、立ち上がっている、この姿は、「朕-臣民-国体」から「人間天皇-国民-国体」への移行の萌芽をみる思いがある。さらに、これがしっかりと力を得るためには、外国勢力のみならず、国内勢力からも、この国体の「国防」を考える必要がある。小林節先生のいうごとくに九条の精神を生かして部分改変しながら、自衛隊をこの線で合憲化し、憲法の枠の中で、それ相当の地位を与えていけばいいと思っている。

 米軍が日本に駐留しているという理由の一つに、再び日本が、大日本帝国化して、アジア諸国を侵略して回るのを抑止するための、抑止力としても正当化されているという歴史的経緯がある。つまり「朕-臣民-国体」を復活させようとする限り、米軍は日本にますます駐留する、支配する、その名目を、アジア諸国から得ていることになる。日米同盟は、それとして認めるとしても、日本が瓶のふたのように米国から抑え付けらえ監視されないと、アジアで生きていけないような、ならず者国家ではないのだと、日本国民みずから示していくためにも、日本会議的な「朕-臣民-国体」から、日本国憲法による「人間天皇-国民-国体」への歴史的移行を、「この道しかない」として、歩んでいく必要があろう。


【関連記事】昭和天皇の『新日本建設に関する詔書』‐神権否定と国民への主権禅譲
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20151031


 品川駅東側に隣接する「グランドホール」にてのIWJ主催の年末恒例イベント、饗宴Ⅵに参加した。日刊IWJの報告によれば、約300人ぐらいの人数だったとのことだ。後ろの席が足りなくなって、どんどん列を足していくような盛況だった。

 IWJシンパ的には、この一年は激動の一年であったといえるが、この一年がいったい何であったのか、そして、それがどこに向かいつつあるのか、あるいは、それに抗してどう動いていくべきなのかを多彩な識者たちによって総まとめしてくれたような内容であった。今回、初めて参加したのだが、シンポの進行の仕方が独特で、各シンポジストが10分といった短い限定時間でまず発表し、一回りした後、また3分発表で一回り、さらに、最後に2分で一回りし、総括するというもの。相互の視点を提示させあいながら、論を深めていくというという意味で、非常におもしろい形式だったと思う。全3部で、総勢16名の、私にとっては筋の通った気持ちのよい話を、代わる代わるに聴きとおせるいい機会となった。以下、中途半端にとったメモを記録しながら、コメントもつけていく。


テーマ1 『米国経済覇権の終わり? AIIBの衝撃とTTP「砲艦外交」の正体』

内田聖子
第3のビールに、今年一月からすでに、遺伝子組み換えとうもろこしが入っている。表示の仕方が、かわってきた。すでに日本は、遺伝子組み換え食品の表示において、覆い隠す方に後退している。日本でも「しっかり表示しろ」という運動を起こさなくてはならなくなっている。」
「TPPの条文言語は、英語、スペイン語、フランス語で、日本語はない。つまり、英語の条文がそのまま日本の国に適応されることになる。日本語は「現地語」の扱いとなる」


田中宇
「アサド政権の実質存続が決まったようだ。また、サウジアラビアイラクに大使館をつくるという動きがあるが、これは25年ぶりことである」
岩上「詳しくは、メルマガで」


富岡幸雄
グローバリズムの結果、法人税が半分になってしまった。外国にある会社は、外国に支払っている。法人の利益が減ったというのではなく、課税される所得ベースが4割位になった。税金を取る方も、自分たちのころにくらべれば厳しさがたりず、「去勢されている」ようだ。」


 富岡先生は90歳で、目前で登壇されているのが奇跡のような方である。タックスヘイブンや、強引な節税手法、徴収する方が企業に甘くなっていることなど、元国税実査官らしく、厳しく指摘されていた。結局は、累進課税をしっかりやれば、格差はなくなっていくという、ピケティ―式のわかりやすい常識的な議論につながる。そのための、公的な力、公正な徴収権が、毀損されていっている現実があるということだ。調査してみると、政権与党が企業献金を受け、それに比例して、特定業界への徴税の厳しさを緩和していっているという。つまり、逆からいえば、税金徴収を利権として、政治家が企業にそれを「売っている」ということだ。その代わりに、「稼いだ人に収めてもらう」という税金の基本理念からはずれた消費税に、どんどん依存するようになる。富岡先生は、中曽根内閣の売上税を止めた方ということだ。腹の据わった「公」の権力のありかたを、身体で知っている貴重な方であったと思う。



テーマ2 『違憲の「戦争法」強行可決から「明文改憲」による緊急事態条項導入へ 属国のファシズムを阻み、立憲民主主義を救い出せるか』 



 第二部の緊急事態条項が今年のメインテーマで、そのことが意外なほどの危機感をもって語られていった。緊急事態条項は、甚大災害時に効率的に行政を施行する上で、必要なこともあるのではないかと思っていたが、阪神大震災の被災者でもある永井幸寿氏が詳しく話されていたが、現行法でも、緊急立法措置もあるのだという。さらに、現憲法は、ナチスの悪用した歴史的経緯から、この条項を意識的に排除していたのだと。確かに、考えてみれば、政府の権力を限定した上で、国民と政治家が対話していくという立憲主義の根幹を無にするような条項ともいえる。あえて憲法に書き込む必要はなかろう。


升永英俊
ナチスドイツでは、国会放火事件の後、緊急事態命令がでて、1945年の敗戦まで、実に13年間つづいた。放火事件は「共産党の仕業」として政敵を粛清するために実質的に大きく利用された。約5000人が、司法手続きなく逮捕、予防拘禁され、行方不明者も多い」「自国政府の暴力的な実力行使を前にすれば、言論というものは萎縮する。私もそうなるだろう。そういうことになる可能性があるのだという危機感を、自民党改憲案に感じる必要がある」


 こうみると、「ナチスの手口」の根幹は、狂言テロか、あるいは半ば誘発されたテロによる、国家緊急事態の発令ということであろう。これが発令されれば、立法権が実質的に内閣に付与されることになる。ただし、既に日本では、平成25年12月6日の深夜に可決された「特定秘密保護法」に始まり、極めて限定されたメンバーからなる「国家安全保障会議」あるいは、日本のシビリアンコントロールを実質的に受けない「日米同盟調整メカニズム」によって運営される可能性が高い、本年9月19日未明に可決された「安全保障関連法案」などが、すでに出来上がっている。この2年間で、国会で内閣の決定する事項について、特に、外交安全保障や危機管理に関することについては、検証したり議論する力が、削がれてきた。今年は、安保法制を審議する国会で、それが明確に見せつけられた一年になってしまったと思う。
 
 このことについて、青井未帆先生は、非常にクリアに言語化してくれる。つまり、「日本の政治は日本の中で決められているのか?」「安保法制の国会審議でみられたように、自国の実力組織をコントロールするという意識が、日本の政治家に非常に薄い。政治権力は、憲法の外にあると考える必要があるのではないか」と言う。そして、そのような「実力組織は何を守っているのか?」「日本人がコントロールできるのか?」という疑問となっていく。特に、日米の軍-軍関係が主体となって決めていくであろう日米同盟調整メカニズムの存在は、「日本の政治が、つまり、シビリアンコントロールが限定され、国外に実質的な権力の所在がある」という明言にいきつく。虚心坦懐に、この一年の政治をみていけば、そういう結論になるのだろうが、これを受け入れるのは、容易ではない。しかし、それがつきつけられた一年でもあったと思う。

 結局、2012年の野田内閣による尖閣諸島国有化と、それに反応した中国国内での反日デモと、ショッピングモールや日系企業の「焼き討ち」ともいえる「破壊行動」が、日本の今にとっての「国会放火事件」に類似する機能をもう持ってしまっていて、その安全保障環境の変化から、日本人が「米国に守ってほしい」という安心感をより得るために、米国が要求するTPP交渉に譲歩を重ねに重ねて、経済主権を献上し、さらに、日米同盟を深化させるという安保法制によって、防衛や外交の主権を失ってしまったといえるのではないかと思う。
  


テーマ3 『「戦争」の過去・現在・未来 安倍政権の目指す「戦争遂行国家」その帰結は!?』



 上記の問題認識は、第3部のテーマにもつながる。私は、以前より、尖閣問題が、この一連の追いつめられてきた状況の鍵であると思っていて、最終的には、領有権を棚上げに戻さないかぎり、このトラップからは日本は抜け出すことができないだろうというのが持論でもあったが、これとまったく同じ見解を、孫崎先生もされていたので心強かった。今の今になって、「尖閣棚上げ論」と公言する識者は、なかなか少ないが、そのあからさまな同志をみつけた気分であった。つまりは、これができなければ、日本は覇権衰退しつつある米国の戦略の一部をになう「駒」として、今後も、扱われ続けることになろうと思う。テーマ1で話題にされていた、英語の第2公用語化も、それほど非現実的な話ではないと思う。

 日本のなんとなくずるずる続いている「国家緊急事態」、つまり今年、お題目のように言われ続けた「安全保障環境の変化」、「国民の生命、財産を守るため」、「米艦に保護されたお母さん、子どもを守るため」という状況を、明確に作り出したのは、北朝鮮の暴発というよりも、尖閣諸島問題である。その主体は、ナチスでも安倍でもなく、米国の戦略である。孫崎先生は、台湾が中国側に吸収されていくことを米国は見越しながら、地政学的に、日本に対しては「中国と紛争でもやっとけ」という意向を持っており、それにまんまと、民主党政権がのっかったのだと表現していた。これは、今も、「尖閣諸島は我が国の領土だ」という国威発揚的情緒と引き換えに、多くの日本人が乗っかっているし、それが、安倍政権を支えている「岩盤規制」になっている。

 
 他に、志葉玲氏のイラクでの取材や実体験からくる認識も、私のものに非常に近かった。つまり、すでに、日本がイラク戦争に率先して参加してきた2003年から、イラク人は日本に対して、非常に憤っているのだ。「日本は、なぜアメリカのやりかたについていくのか」ということだ。ファルージャ攻撃の実体を語られれば、それを日本が支援していたということをイラク人が知っているわけであれば、そう思われることも仕方はないと思う。その10年に渡る怒りが、今年2月のエジプトで2億ドル発言で、トリガーがひかれたということだという。その安倍は、この8月末の安保法制国会でも、山本太郎の質疑に対して、「イラク戦争は正しかった」といっている。次の「国会放火事件」にあたるような過激派のテロも、このような安倍の態度から誘発されるかもしれない。「テロ」の問題は、決してイスラム教が悪いわけではないと私は、思っている。


 孫崎さんの話では、早稲田でシンポジウムをやって1500人集まって、会場から溢れるぐらいですごかったが、学生が来ないのだと。それは、京都大学でやっても同じだという。今年のIWJ饗宴参加者も、若い熱気に溢れているとはいえず、40前半の私なんかは、若い方の部類であった。シールズ奥田君もきてはいたが、IWJ記者、原君と同様、若さは目立っていたようにみえた。本年の9.19のカマクラ採決で、政治的に何か一線を越えた世界に日本が入ってしまった実態があるのだろう。抵抗運動が諦めとともにそこで終わる人と、さらに形を変えながらでも続く人の差がでてきている。若者は、続くだろうか?熱が冷めて、今度はスターウォーズに夢中になり、属国の企業戦士、あるいは、兵士になっていくだろうか?

 グランドホールの3階に上がるエスカレーター横に掲げてあった『「国民」非常事態宣言!露になった「ナチスの手口」国家緊急権を阻止せよ!』の立て看板も、内容については会場に入ってしっかり識者の話をきくとよくわかってくるが、通りすがりの膨大な人たちにとっては「なに気張ってるの」と映るかもしれない。私も入場時にはそう思ってしまった。安保闘争が終わった後の、大学に残る立て看板のようにだ。「アベ政治は許さない」を続ける人と、そうでない人での生活のリアリティーがまったく別なものに分岐していっているのではないかと思う。これは、丁度、福島原発事故後の被曝の現実を追ったイアン・トーマス・アッシュのドキュメンタリー『A2-B-C』を、3名の入場者でポレポレ中野で見た後に感じた感触と似ている。チェルノブイリと同じレベルの健康被害が現実に起きる確率が高い状況が、隠蔽され日常化し、学校でも公園でも高汚染スポットが放置されてる。これと丁度同じように、日本人の基本的人権国民主権、つまり立法自主権といったものが、恣意的で未熟な外交防衛関係によって脅かされ、制限される可能性が高いにもかかわらず、その危険性が隠蔽され、当然のように日常化されていく。9.19以降も危機感をそれぞれのやり方であっても持ち続けるものと、強行されて以降は押し黙ってついて行くものとの、リアリティーの差だ。原発事故の健康被害でもそうだが、「直ちに健康被害」が起きるわけではなく、国会内で騒動は起きなくなったが、「直ちに言論弾圧、思想犯逮捕や戦争」が起こる(一部、限局的に起きているが)わけではないが、長期的な視点でみた危機感を持てるかどうかだと思う。これは、IWJなどのメディアが作り警告するリアリティーと、マスコミが作るリアリティーの差にもなる。9.19以降、これが広がっているのだろうと思う。岩上さんと、孫崎さんが、「マスコミはもう期待できない」と、断言した調子で言っていたのが、印象的であった。これは、2年前よりも、強い断言となってきているように思う。そして、テーマ2で弁護士の水上貴央氏が言っていた、「まずは、民主主義ができる、日本で市民革命が起きると思えばいいんです。起きます」というポジティブ思考にも、ちょっとだが、勇気づけられた。現在の立憲政治が、半ば崩壊した状況にたいして、国民を「弁護」し、希望を持たせてくれるような発言であった。




【参考記事】
12月20日 日刊IWJより
■“王様は裸だと君は指摘する(できる)だろうか?” 「ジャーナリストとは、職業の名ではなく、生き方の呼び名」
岩上さんの講義録が収録された『「今を伝える」ということ」』 (成文堂)12月20日販売

 岩上さんは第4部のジャーナリズムの使命と未来に登場、「『王様は裸だ』と君は指摘する(できる)だろうか」と題し、記者クラブなど、大企業や官庁と癒着でつながる日本のマスメディアのあり方を批判しながら、これからの「ジャーナリズム」の在り方を提示していきます。私が惹かれたのは、岩上さんが、コミュニケーションを例にこの問題を説明する部分です。考えてみれば、私たち人間が言語を介して他者と関わろうとするとき、情報の流れは双方向になるのが自然ですね。例えば友人でも家族でも、誰か一人がずーっと喋っていて、片方は黙ったまま何も言わない、頷くだけ、そんな関係性があったとしたら、極端な場合、ちょっと大丈夫かな・・となるのではないでしょうか。
 でも、大手のメディアと個人(読者、視聴者)の関係こそ、実はまさにそれなのだと岩上さんは指摘します。メディアから流れてくる情報を、個人が一方的に受け取る。そこに、個人から発信される矢印はありません。完全に一方向のコミュニケーションです。では、報道における双方向のコミュニケーションって、どんなものでしょうか。岩上さんはその答えとして、ネットメディアを通じた「ジャーナリズム」の在り方を挙げるのですが・・・。岩上さんが話す、「万民ジャーナリズム」とは?


以下sarabandeコメント
 戦争の問題、つまり、開戦に至る外交上の問題、開戦後の戦場での問題も、さらには、平時の政治上の問題も、結局は、このコミニケーションの双方向性の確保と、その上での統治権力の構築をどう正当に、現実的に行うことができるかに帰すると思う。とくに、戦争の実態を詳しく知らない安倍内閣以降(これは饗宴Ⅵシンポの中でも繰り返し実例を挙げて語られた)、これができないで、一方的となってきた。
 国民に主権を置く立憲民主主義には、これのそれなりのやり方があるし、それを大前提としてすべての国民が尊重しないと、途端に機能はしなくなり、立憲民主主義を壊す政権を生んでも知らないでいるようになる。



【参考過去記事】
2013-10-26 『日本は、今、ハニートラップならぬ、尖閣トラップに嵌まっている』
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20131026

2014-06-13 『日本国憲法の精神に立ち還るために、尖閣再棚上げを要する』
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140613

2014-05-21 『A2-B-C』へのエール
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140521

The world needs 8.31 Obama's statement of five years after the Iraq War much more than Abe's statement after seventy years after the Pacific War.


This short film shows the Iraq War's true colors, tensions and meanings in Iraq. https://www.youtube.com/watch?v=eMNvPHLXgTU&app=desktop


We don't have to forget that this war was begun under the purpose for freedom and democracy in Iraq. And the war was named as "Operation Iraqi Freedom" by American President George Bush. This incident in video must be only one case of numerous similar ones. These incidents were enough to become the first impacts that cause growing chain reaction of hate and violence, resulting in terrorism, and organized Islamic state in Iraq now.
I would like to dedicate a part of Abe's statement to the tragedy in this YouTube film.


"Upon the innocent people did our country inflict immeasurable damage and suffering. History is harsh. What is done cannot be undone. Each and every one of them had his or her life, dream, and beloved family. When I squarely contemplate this obvious fact, even now, I find myself speechless and my heart is rent with the utmost grief."


I think this same words must be stated now by American President Barack Obama as a profound reflection of "Operation Iraqi Freedom″. Next 8.31 is five years after the Iraq War and it's best chance to declare the statemet. If this kind of statement is neglected, I think the same type of war will emerge under the purpouse to defend and spread freedom and democracy or peace. And Japanease Prime Minister's "Proactive Contribution to Peace" would be used for the next "Operation any region Freedom″or "Operation any region Peace" .



 安倍談話、中日新聞に全文載っていたので、読ませてもらった。英文訳も隣りに記載されており、日本語では読めない部分の参考になる。全部読んでみると、確かに、文面としては、過去の談話をきっちりと踏襲しているとは思う。安倍も、一歩踏み込んで、まともな部分を政治的にみせてきたという印象ではあった。


 ただし、“We will engrave in our hearts the past, when〜”の形式で4回繰り返される、コーダのように宣言する安倍談話最終部分において、「自由、民主主義、人権といった基本的価値感をゆるぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります」とある。これは、“Show the flag”に対する安倍の答えのようなものだが、ここにおいて、価値を共有するとする米国の行い、日本も支持した「イラクの自由作戦」への批判的な向き合いができないというのは、その直前まで延々と述べてきた、自国の侵略や植民地支配、罪のない人々への損害を反省した部分、あるいは「すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない」とした部分が、結局、地に足のつかぬ応用の効かぬ認識であることを示していると思われる。


イラク戦争イラクの自由作戦)の実体の動画 (残虐なので閲覧注意)
https://www.youtube.com/watch?v=eMNvPHLXgTU&app=desktop
安倍談話のこの部分を捧げたい気持ちになる。
「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を我が国が与えたという事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人一人に、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実を噛みしめる時、今なお言葉を失い、ただただ断腸の念を禁じ得ません」

 
 丁度、ツイートで流れていた動画であるが、これは、安保法制に賛成の方は、特に必見の動画だ。これが、米国による「イラクの自由作戦」の実体である。ブッシュが「大量破壊兵器があるからやる」と言ったことは、この末端の兵士にも浸透しており、カメラを武器と間違えるか思い込むかして殺戮している。これが、イラク人の自由のためになされているのか?明らかにそんなものではない、他の目的ではないのか。では、それは何なのか。

 安倍は「フセイン大量破壊兵器を持っていなかったことを証明しなかったのが悪い」と、先の参議院での山本太郎の質疑において明言しており、この動画で示されているような戦争における犯罪性を、おそらく意図的に認めていない。子供が2人撃たれても「戦場につれて来るから悪い」とヘリから撃った米兵が言い放っているが、これは安倍の屁理屈と丁度同じようなトーンをもっている。


 これでわかるように、皮肉にも「価値感を共有する」と安倍が言う米国が、70年前の日本と同じことを、少なくともこの70年間の間に、いろんなところでやってきたのである。今年あえて談話を出すなら、本当は、この認識、1945年後70年でもあり、その痛切な反省からみた、イラク戦後(2010年8月31日)より5年という認識をもって、談話を練る必要があった。つまり、米国の「イラクの自由作戦」の実体への厳しい認識と、自国が協力したことへの深い悔悟がなければ、まったく、ブッシュJr.の2003年時点で歴史の止まった認識にすぎない。事実、安倍はその時のブッシュJrとまったく同じ認識を、今もって国会にて明言しているわけであり、「ホルムズ海峡!」と実体の消失している危機を不用意に衆議院で散々叫んでいたことから証明済みであり、いつでも新たなもっともらしい「存立危機」のインテリジェンスを、「調整メカニズム」を通して米国側から吹き込めば、世界中で積極的に使える駒になる。イラク戦争で本当に目的を達成した者たちにとっては、彼は2匹目のブッシュJr.そのものとして映っているだろう。加えて、日本国民も同様のナイーヴさを持っている、2003年当時のアメリカ国民と同様であることを自覚すべきである。本当は、現在のイギリス国民と同じぐらい、米国の戦争に対して賢く批判的にならなければならない。

 加えて、安倍政権が報道の自由を縛り、民主主義を換骨奪胎し、人権理念を葬ろうとする、自分のいっている価値感と別のことを現実的には手をだしていそしんでいる当の本人であることを棚に上げているということもある。


 以上、弁解できぬほどの原理的な安倍談話批判をおこなったが、それ以外の形式的な部分は、侵略、植民地支配、お詫び、云々の部分は、安倍なりにうまく入れたものだと思った。中国や韓国も、無下に拒絶はできない、村山、小泉談話を踏襲したものとして見ざるを得ないものになっていると思う。侵略の主語がはっきりしていないじゃないかという批判が、本日の日刊IWJでもなされていたが、英文を読めば、主語を誤魔化しているようで、誤魔化せないようなステイトメントとなっている。


安倍談話「事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう2度と用いてはならない。」
Incident,aggression,war-we shall never again resort to any form of the threat or use of force as a means of settleing international disputes.


ここで、we、我々日本国民が武力に訴えかけないという主語があり、again、二度とという副詞があるので、「一度はそういうことをやりました」ということを、暗喩してはいる。そういう形で英文では、婉曲な形にではあるが、主体性は残存している。


 もう一つ、これは、小泉談話からの表現だが、「これほどまでの尊い犠牲の上に、現在に平和がある。」というものである。小泉は、「戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いをいたし」としている。戦死や戦災死を尊いとして美化した、靖国的な残存でもある。村山談話は、現在が尊い戦争の犠牲の上にあるなどと、どこかであの戦争遂行に感謝すべきだとような解釈を残す部分は残さない。「犠牲となられた方々の御霊(みたま)を鎮めるゆえんとなると、私は信じております」と核不拡散と軍縮を決意する。これが本当の償い、国内の犠牲者への償いの態度だと思う。オウムで話題となった宗教学者の島田裕已氏が、ポリタスに寄稿していたが、英霊も70年もたてば、御霊となるということであり、御霊祭りというのも、靖国でやっているようだから、A級戦犯分祀して、遊就館を撤去し、靖国神社を、「御霊神社」と変名していくというのもいいかもしれない。

 本来、この戦後談話は、周辺アジア国民への謝罪のみならず、戦犯たちが、「国の指針を誤った」ことにより甚大な被害をこうむった、我々日本人に対する謝罪、お詫び、再び同じことをしない誓いでもあるべきである。そのために、明治的な靖国神社を鎮魂のための御霊神社にかえる。何か形にすることが必要ではないだろうか。そういうけじめがつけられないから、天皇が筋を通して参拝をやめているのに、安易に政治家や国民が、空気にひきずられて参拝をする。国内向けの戦後処理の不徹底さをみる気がするし、再び繰り返す根を、国民の中にみる思いがする。今上天皇はその点、徹底してくれているので、私は助かっている。

 自衛隊員のための慰霊のための、人間-天皇も、堂々と参拝にいけるような、新たな施設を、早急に作る必要があるというのが、私の持論である。これは、戦後の日本国というものをどのように象徴するかという難しい課題ではあるが、それが、日本が、すぐにでもできる、いや、責任をもってやる必要のある、世界に明示することができる平和への努めの最たるものだと思う。


 今回の安倍談話の、かなり基本的なパラダイムとして、「ブロック経済が全部悪かった」「事変、侵略、戦争に訴えたのも、ブロック経済という国際紛争のせいだ」「だから、開かれた国際経済システムをつくる」というものがある。これは、やや真の日本人の中にある問題点を外した、詭弁じみた印象を与えるフレームであるとおもった。私の認識では、福澤諭吉的な「愉快」な侵略略奪に流れる明治精神の影の面が真の問題点で、勝海舟的な隣国を尊重しつつ世界に向き合おうとする精神が解答である。(これは、今、軍事技術において独走している米国の「愉快」の問題点でもある)
 この真の精神的な問題を諸外国から課せられた経済問題に転嫁するパラダイムは、先の村山、小泉談話にはまったくみられなかったものであり、今回の安倍談話が、どこか、真実味のない言い訳じみた歴史認識とお詫びとなっている元凶だと思う。このパラダイムで安倍や、その裏にもいるであろうアメリカが意味させたい政治的な所は、TPPの欺瞞も含めなにか大きいものがあるように思うが、この点については、他の識者の見解を待ちたい。


 最後に、本当の所は、日本が変わり映えのしない戦後70年談話を出す必要は薄く、むしろ、米国がイラク戦争後5年のオバマ談話を8月31日に、世界に向けて出すべきである。これは、イラク戦争開戦時に一人反対意見を貫き通したバラク・オバマにしか出せない類のものでもあると思う。彼の米国大統領としての存在理由でもあり、是非、世界にむけてぶちまかして欲しい。期待している。



【参考記事】引用したYouTube動画が、氷山の一環でしかないことを示す内容となっている。


戦争犯罪でも支援するのか!?―日本を「イスラム国」より酷い米軍の共犯者とする安倍政権の安保法制
http://bylines.news.yahoo.co.jp/shivarei/20150428-00045232/

志葉玲 | フリージャーナリスト(環境、人権、戦争と平和
2015年4月28日 14時26分

 GEAB/Europe2020は、2006年3月より、イランをはじめに石油の売買でドルが使われなくなる動きが加速することで、ドルの基軸通貨としての価値が失われてゆき、戦後秩序が崩壊するだろうと予測し始めたフランスのシンクタンクである。いわゆるリーマンショックを的確に予測はしたが、その後は、彼らの予測に反して、ドル基軸通貨性と、パクス・アメリカーナは、しぶとく、屑債権の米連銀による公的買取、オバマ大統領による、イラク侵攻と強欲資本主義からの米国の刷新への期待から、かろうじて生きながらえてきている。しかし、ここにきて、米国の始めたイラク戦争が生んだ、癒しがたいイスラム国によるテロの多発や、さらに、中国が設立するアジアインフラ投資銀行へ、米国のけん制を受けながらも、英国が参加を決めたのを皮切りに、ドイツ、フランス、イタリア、スイスと、EU各国が雪崩を打つように参加表明しはじめた。ドル基軸通貨性についての、大きな打撃になるだろうなと思い、毎週送られてきているGEAB/Europe2020のメルマガを、辞書を引き引き読んでみた。
  
 有料の本体部分の公開はなく、内容は今一つ具体性には欠いているが、今の状況を、「ギャップに生じたカオス」とのべ、2015年を、「怪物的なオーバーラップ」であろうとしているのは、さすがいい表現を使うと思った。ドル基軸通貨性(過去)と、その後の世界(内発的に存在している未来)とのオーバーラップが、あたかも、人の顔と瓶が両方みえるような騙し絵のように、現出してくるだろうということである。それに触発され、日本にとっては、劣化した靖国神道的な動因と、靖国を乗り越えてある「その後の世界」の物語というものまで、考えが及び、ツイートをした。なにか意味もあろうかと思うので、ブログに残しておきたい。


1.世界情勢について

【GEAB】2015 – Media, finance, oil system, military-industrial complex, QE : the narratives war
http://geab.eu/en/2015-media-finance-oil-system-military-industrial-complex-qe-the-narratives-war-2/


“2015 would be characterized by a "monstrous overlap” between the world before and the world afterwards, where two worlds appear to be equal”
この文の認識が、中心かと思う。さらに、GEABは、メディアの変容、とくに、インターネットの普及が、いまのカオティックな状態から、どんな方向に向かうのか、無視できない要因となるとといている。「私はシャルリ」「イラクアルカイダ」も2003年、FOXニュース隆盛の当時ほどは、新たには説明原理、ナラティブとして成り立たないだろう。

 この“monstrous overlap”を私は、パクスアメリカーナの世界と、その後の世界/テロとの戦争と背後にある陰謀策謀の世界と、EU諸国がパレスチナを国家として承認し国際刑事裁判所が、イスラエル戦争犯罪を訴追しようとするようなの動きの世界/帝国の論理に従属する世界と、民族自決や世界人権宣言を守る(死守する)世界とみる。
沖縄をみても、明らかすぎるほど明らかだが、今、日本でも、これは否応なしに巻き込まれている。メディアが、どのレベルの歴史的事実にフォーカスするか、そこから、どんな価値に意味をみいだし、紡いでゆくのか、そして、決意してナラティブを紡げるか、それが、“monstrous overlap”後の未来を決してゆくのだろう。短期的には、the strongestなものが制してゆくかもしれないが、長期的には、most coherentなものが勝って行く。


米国的帝国に反する情報の例
【日刊IWJ】マスコミでは意図的に切り貼りされ真意が伝わらない鳩山氏の主張。だからこそ、前回のインタビューでは「IWJならば」と許諾。今回も同様に、切り貼りすることなく大手メディアのように悪意を持って、恣意的に編集することなく、一人の鳩山由紀夫という政治人の言葉をしっかり伝えます。昨日のガイドでもお知らせいたしましたが、岩上安身のインタビュー復帰第一弾として、鳩山由紀夫元首相に2時間たっぷりとお話を聞きます。時間は23日18時から。チャンネルは1です。


2015/03/23 米国に”依存し過ぎている”日本の現実〜ウクライナ危機、辺野古新基地建設、北方領土、TPP…クリミアを電撃訪問した鳩山由紀夫元総理に岩上安身が聞く
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/240251




イスラエル的帝国に反する情報の例
【メルマガ・パレスチナ最新情報より】
ネタニヤフ首相は選挙間際に「パレスチナ国家は絶対に認めない」と強硬、支持者に「アラブが大挙して投票に来る。負けずに投票所に足を運んで欲しい」と露骨な人種主義的発言。米大統領候補が「黒人が大挙して投票所に来る。白人の皆さん、ぜひ投票して私を当選させてくれ」と言ったらどうなるでしょう。


EU報告書、イスラエルへの厳しい措置を勧告
Guardianが入手した、EUのレポートは、イスラエルの計画的な入植活動続行による「暴力の悪循環」がエルサレムの緊張を沸点に近づけ、二国解決の実現可能性を脅かしていると警告している。レポートは、エルサレムにあるEU総領事などが毎年合同でまとめているもの。
2014年の報告書は、過激な入植者と入植地産品への懲罰的措置を求めるもので、具体的には(1)暴力的な入植者に対するEU諸国の出入国管理を強化する(2)EUの規定に合わせて、消費者向けに、入植地産品の表示を徹底させる(3)ヨーロッパの企業、旅行業者に対し、入植地でのビジネスのリスクを警告する——ことなどを勧告している。(元記事 3/20 Guardian)


【アル・ジスル−日本とパレスチナを結ぶ 編集人:奈良本英佑】*当協会ではパレスチナ最新情報をメールマガジンでお送りしています(無料)。     
http://www7b.biglobe.ne.jp/~jsr/


 ネタニヤフ発言は、テロとの戦いを超えた、あからさまなレイシズムに近づいている。側近の「テロリストを孕む女性からなくさなくてはいけない」という言葉もあったが、それが、民主主義の名のもとに、正当化されてゆく。かなり飛躍するが、ユダヤ教徒がキリストを殺したことを、イスラエルパレスチナ問題から思う。歴史的なイエスは、パレスチナ人のような風貌であったと、どこかで聞いたことがあった。


 原事実と、マスメディアで報道される情報との間の壁、その事実の起きた地域の言語と、報道される情報が流通する地域の言語との壁、そういう壁がある。伝わるべきことが伝わらず、あるいは歪曲される余地がある。ネットはこの壁を少しは薄くはしたが、まだまだ厚い。これに依存した帝国というのは暴力に依存することになる。しかし、ネットの存在は、情報の抑圧によるstrongestな勢力ではなく、一貫性をもったcoherentな勢力の巻き返しの可能性を感じさせる。


 テロとの戦争でも、ウクライナ問題でのロシアの対応もそうだが、ファーストインパクトというのが、報道の中で失われていきやすい。実は、親の虐待というのも同じようなものだ。それを報道、報告、告発する立場にあるものが、比較的弱者であり、言語的な壁があれば、認識されなくなる。その後の暴発だけが、大きく報道され、認知されることとなり、ファーストインパクトをもたらした者が、被害妄想的な加害者となって、さらなる攻撃がなされてゆく。


 しかし、インターネットの普及により、そのファーストインパクトが、どの程度報道されるかどうかは別にして、ありありと記録されるようになった。ウクライナ問題でいえば、非暴力的なデモを暴力化した際の、反政府派、政府派双方にたいする無差別銃撃、殺害を行ったものが、どのような勢力で、誰に支援されていたのか(鳩山氏によると、米国のネオコンに支援されていたウクライナのネオナチ勢力)、また、その後のデモの暴力化(マケインがキエフにのりこみ、自由のために戦えと扇動していた)による政権転覆後、組閣は、誰の指示によってなされたのか(Youtubeにヌーランドの指示電話が暴露流出されている)、さらに、反ユダヤ、反ロシア的なオデッサの虐殺について(下記IWJ記事参照)。旧日本軍のやったことに合わせれば、満州事変とその後の侵攻、満州国の設立、南京虐殺などに相当するだろうが、それが、リアルタイムで表にでるようになっている。この散り散りになりがちな、報道されない事象を、歴史として編みこむことで、coherentなナラティブが、初めて可能となり、strongな勢力の横暴への抵抗が可能となる。


【IWJ参考記事】
岩上安身の「ニュースのトリセツ」全文掲載
オデッサの「惨劇」、緊迫続くウクライナ東部 米国はウクライナを「戦場」にするのか(IWJウィークリー48号より)
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/138337


 帝国の原理ではなく、人権原理を生きるというのは、ある意味、克己であろう。strongestの立場に立つことではなく、most coherentの立場を探しに探し、そちらを築くことを意味するが、大きく言えば、それは、キリストのような立場に、新約の立場に立つことを意味する。その危険と困難も含めてであるが。私はクリスチャンではないが、結局は、その辺の問いに収束するような気がしている。その立場の根拠があるヨーロッパは恵まれている。極右的政治勢力的な意味であるが、旧約の世界のイスラエル国家神道の日本は、後進国である。



2.日本における“monstrous overlap” ―― 劣化した靖国神道的帝国的要因と、日本国憲法から発展する要因のoverlap  国を守る自衛隊員の慰霊の在り方、場所から日本における“monstrous overlap”と、そこから反照される国家像を考える


 本来のキリスト教では、イエスキリストを信じ、よきサマリア人のような隣人愛に生きるような人間であれば、神の国に生きれますよということだが、平田篤胤はこの部分を神道にとりいれ幽界を作り、それが国家神道に利用されて靖国的幽界になっていった。隣人愛による神の国から、天皇愛による神の国への変化だ。私のアイディア(下記リンク参照)は、敗戦後の、人間宣言した天皇という歴史を踏まえ、その天皇愛的な日本人の情緒を、同胞愛に、人間愛に、権利としては人権尊重にもってゆくことである。それを受けて、靖国神社ではない、なんらかの戦死者慰霊施設が必要になる。守るものも、そういった普遍に通じる「人間性」だ。これは、平田の構想し、大村益次郎が関与してできた国家神道靖国的な、明治以降の幽界観を、「皇国の総力戦の敗戦」を受けて、あるいはその名で行われた残虐非道を受けて、より地に足についた、むしろ、原義の、キリスト教的な「神の国」への幽界に近づいたものに、変更してゆくことになる。
 

 仮にだが、今、死後、天皇が拝みにきてくれるのは、三原じゅんこ氏の八紘一宇精神で生きたあかつきではなく、現行憲法の精神に殉じて生きたあかつきに、である。天皇靖国に参拝にいけなくなっている、今の位置を、引き戻すのではなく発展させて、新たな形の追悼施設を作ってゆく、あるいは決めてゆく必要がある。一つには、戦後、こういう領域の問題を誰も考えようとしないから、「八紘一宇」が、劣化した形で芽吹いてくるわけだ。民族宗教から日本的な普遍宗教へ、かつ、政教分離しながらの、戦没者慰霊の落とし所、この領域を確固としておかないと、雪崩のように劣化退化してきそうな予感がある。そして、それは国旗、日の丸の、新たな意味づけ、新生でもある。より普遍的、世界的な意味を持つ日の丸である。教育面で米国にも邪魔されてなのかもしれないが、結局、そのレベルの創造ができないで、戦後70年、ずるずる来てしまったなれの果てを見ているのではないか。


【参考過去記事】
2014-09-07 「人間天皇」とともに、新しい日本の歴史をつくろう
http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20140907

 私が、三浦瑠麗氏の存在を知ったのは、昨年の9月、彼女のブロゴスでの「日本に平和のための徴兵制を」という記事を見た時だった。こういう視点での徴兵制についての提言は、日本では今のところ私が言っているぐらいかと思っていたので驚いた、もしかしたら真似されたかと思ったものだったが、彼女は、学位論文を著作化した『シビリアンの戦争――デモクラシーが攻撃的になるとき』で、2012年10月にすでに提言していたようだ。



日本に平和のための徴兵制を http://blogos.com/outline/93190/
三浦瑠麗氏「日本を戦争ができる国にしたくないのであれば、本質的には戦争の血のコストを平等に負担する徴兵制を導入して、国民の平和主義を強化する他ない」



  
 私の場合は、敗戦を受け入れた上での、靖国神道を乗り越えるような国家のまとまりかた、そこでの軍隊のありかた、組織の在り方そういうものを考えなくてはならないのではないかという所からでてきたものである。加えて米国のベトナム戦争従軍経験のある精神科医、スコット・ペックが、戦地で発生する軍の虐殺的行為の分析考察の到達点として、「軍隊が、特定の社会的、経済的階級、性格傾向を持つ者の集団になってしまうことが原因であり、それを防ぐには徴兵制しかない」ということに共感したことも原点としてあった。南京等で日本軍の起こした虐殺の問題は、明治以降の日本民族優越論や、レイシズム的背景も無視できずまた別の問題もあると思うが、このペックの視点は、あらたな、現在の日本国憲法から無理なく、現実的に構想できるような軍隊の在り方を、真面目に考えるうえでも、無視できないと思う。



『平気でうそをつく人たち 虚偽と邪悪の心理学 』(草思社文庫) 文庫 – 2011/8/5
M・スコット・ペック (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%87%E5%BA%AB%E3%80%80%E5%B9%B3%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%86%E3%81%9D%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8F%E4%BA%BA%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%80%80%E8%99%9A%E5%81%BD%E3%81%A8%E9%82%AA%E6%82%AA%E3%81%AE%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6-%E8%8D%89%E6%80%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%EF%BC%AD%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4794218451/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1425787022&sr=1-1&keywords=%E5%B9%B3%E6%B0%97%E3%81%A7%E3%81%86%E3%81%9D
第5章「集団の悪について」に、ソンミ村虐殺事件についての分析考察をした章がある。南京大虐殺があった、なかった、あるいは30万だ、そんなことない、そういうことを延々と議論するのは、私からすれば、馬鹿極まりない。軍隊というのは、場合によっては、歴史的に、日本軍にかぎらず虐殺行動を行ってしまう。それを前提にして、もし軍隊が国にとって必要であるなら、どう抑えればいいのか、そう考える必要がある。参考までに、ブログ下部に脚注として、私が共感したスコット・ペックの到達した所を載せておく。


本年の正月以降、彼女の露出度が高まってきているが、逆に、彼女の研究や視点論点が、今の日本に必要とされつつあることを示しているのであろうと思う。その三浦氏が季刊の『文芸春秋SPECIAL 大人の近現代史入門』で『8.15 安倍談話が語るべきこと』と題して寄稿された。「終戦」を、ごまかしなく「総力戦で日本が敗戦した」と受け入れること、戦争責任の限界づけ、その経験を世界に提示できる「普遍的な言葉」で語ること、そんな論点で力強い提言をされていた。私がこれまでブログで書き連ねていたこととも、共振する部分も多く、読後に以下のツイートをさせてもらったので記事として残しておきたい。日本固有の文化、歴史ではなく、こういう世界に通じる「普遍」を、戦後日本の立脚点としておこうという人は、なかなかお目にかかれない。これを日本の血肉とするために、どう、日本の個性、歴史につなげていくかが問題となるだろうかと思う。ただし、三浦氏が「普遍」を掲げて前に進もうとしても、戦後の日米が歩んできた現実のつくってきた構造の壁に押しつぶされててしまう可能性がある。ツイートでは、特に、総力戦での敗戦が、非総力戦での敗戦に擬勢されてしまった原因としてサンフランシスコ講和条約をあげ、その現実を指摘する補足的視点を示しておいた。
 三浦氏の徴兵制議論は、世界の戦争の分析とともに、この総力戦での敗戦という日本人の経験を、「普遍性」のある原理に昇華していったところから、導かれるものであろうと思う。これのないまま、なし崩しのままの、「シビリアンコントロールの制限」や、「徴兵制の復活」は、結局、元の木阿弥になる可能性が非常に高い。今の原理原則を無視しながら米軍の下請け化してゆく安倍政権の進み方は、表面上は三浦氏の提言に沿っていくかもしれないが、深いところ、最も重要な所は、美辞麗句のみで、実のないもの、過去を繰り返すものになってゆくような気がしている。にもかかわらず、筋の通った提言をしてゆくことには十分、価値がある。歴史が動き、その提言に脚光があたり、それが礎になることもあるからである。


8・15 安倍談話が語るべきこと - 三浦瑠麗
http://blogos.com/outline/106917/?p=2&utm_content=bufferdbc45&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer



【以下感想ツイート載録】


国民を総動員した総力戦で敗戦したという事実を、未だ、歴史修正主義的な保守的階層は、受けとめきれておらず、だからこそ、その、本来貴重な日本の未曽有の歴史から学ぶこともできないでいる。むしろ、否定し、敗戦前の列強的段階にもどろうとしているが、それは歴史の否定に他ならない。


おそらく、この敗戦の歴史から日本が普遍的な価値を見出し、それを内面化し、対外的に語れるようになるということが、日本にとっての、本来的な戦後70年の「開国」であろう。この敗戦は、「反ファシズム連合の米英仏ソ中」に負けたということであり、その大戦の物語というものは否定できない所がある。



私からみれば、反ファシズムに負けたということでもあるし、あの時に米国にあったある種の謙虚なサイエンスの心に負けたのだとも思っている。都合の悪い現実認識を否定しないで、受け入れつつ、その対策を立てることである。これは人格にまでなって現われ、さらに上下関係や組織の在り方なども性格付ける。「大本営発表」はその対極であり敗因だった。



そういう世界に語りかける普遍性をもちつつ日本的なテーゼを提示し、国内に受肉化してゆくこと。それが本来の、新しい日本の国体であるべきだろうと思う。そして、それは、世界に許されてしかるべきだろう。敗戦後の外交、安全保障というのは、本来、こういう所から始まる。ドイツは、それをやっている



瑠麗先生は、ドイツの話はださないが、まあ、こんな筋内容だ。私が常々書いたりしてしまっている内容に近いので、うれしくなるところがあるわけだ。さらに、具体的な戦争責任の限定の仕方、責任の期限、主体をどう考えるか、そういう議論がある。ただし、瑠麗氏の触れない現実的な問題がやはりある。


ひとつは、「攻撃的戦争」を、国際社会の中での絶対悪として乗り越えるべきだとするなら、同盟国、米国のイラク攻撃とその後の城塞のようなイラク米国大使館、これは絶対悪となる。そして、それを国際社会が裁けない現実がある。さらにその反応としての「テロとの戦争」に発展しひきづりこまれつつある


さらに、先の大戦は、反ファシズム戦争として終結し、日本国憲法を生んだたが、サンフランシスコ講和条約は、反共産主義ということで、全面講和ではなく、部分講和を行い、それが、現在につながる、反共ではあるが、ファシスト的な政権と、また、現在の冷戦的支配構造で列強になろうとする傾向をまねく


サンフランシスコ講和条約により、一戦勝国である米国と共謀しながら、国家総動員総力戦の末の反ファシスト戦争の敗戦を、非総力戦的な傷程度で日本がごまかしてしまい、戦前勢力や主義思想の温存につながったこと。これが、むしろ本質だろうかとおもう。瑠麗氏は、わかってるかもしれないがここまでは触れず


ドイツは、西ドイツであっても「米国との反共同盟」ではごまかしきれないほどのことを、やらかしたので、総力戦での敗戦、これは思想的価値的にも敗戦、これが徹底化し、そこからの立ち上がりも、現在に至るまで、日本とは差があるしっかりしたものとなったのだと思う。


検索してもでてこないが、ドイツの戦後初期の大統領が、毅然とした態度で「われわれはヨーロッパ人である」と述べたということをきいた。これが、「攻撃的戦争」を乗り越えたドイツ人の言葉であろうが、日本人でいえば、「われわれは、アジア人である」となる。これが言えないようになっている。


現安倍政権が、これまでの自民党政権がやりもしなかった4月28日のサンフランシスコ講和条約による国際社会への主権回復を、ことさらに祝だしたのは、深い意味がある。戦前勢力の戦後への温存、名誉回復につながったものでもある。安倍首相の祖父、岸信介は、この講和発行と共に、公職追放を解かれている。彼らの米国への恩は、天皇を超えるほどの深いものがあるかもしれない


かつ、あの講和で、主権が回復したのは本土のみであり、沖縄は切り捨てられた。その態度は、今の沖縄への態度をみると、一貫するものがある。
ここから、まともな「総力戦後」を語るのは、困難を極めてくる。中部大学三浦陽一教授も岩上インタビューに「泣けてくる」と話した。が、考えないといけない


【過去記事紹介】2013-05-04 『自由意志による従属』としての日米関係、または『自由からの逃走』http://d.hatena.ne.jp/sarabande/20130504
中部大学三浦陽一氏への岩上安身インタビューのまとめ記事。


平成25年4月28日主権回復式典 首相「希望新たに」 沖縄配慮も言及 
琉球新報記事 安倍首相のスピーチ全文あり
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-205981-storytopic-1.html
沖縄の現実は今に至る通りで、情緒的観念論の美辞麗句。沖縄は、安倍の「金」を、「資本」の積み増しを、トリクルダウンを拒否し、尊厳をとろうとしている。が、現実的には、8.15安倍談話も、この辺からでてくるのだろうか。


こういう歴史的現実をみると瑠麗氏的な中道ちょい右ぐらいの、いいまとめ方で踏ん張ることが、特に民主党瓦解後は極めて難しくなった。逆に、安倍ガールズ面々のようなのが、厚化粧したり着物きたり在特会関係者とあったりして存在感を誇示してくる。グローバリズムやTPPについての素朴かつ大胆な期待と快刀乱麻には、個人的には心配が残るが、彼女の知性と踏ん張り、Con-Patiのパッションのもとでの弁証法的発展に期待したい。



 脚注)スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 p285より 引用  

 忘れてはならないことは、いやしくも軍隊というものが必要なものであるならば、それはつねに痛みを伴ったものでなければならないということである。その行為に伴う責任を直接、個人的に引き受けることなく、大量殺戮の手段をもてあそぶべきではない。人を殺さなければならないときには、自分に代わってダーティーワークを引き受けてくれるプロの殺し屋を雇ったり訓練したりして、殺しに伴う流血を忘れてしまうようなことがあってはならない。殺しを行わなければならないときには、それに伴う苦痛や苦悩を真正面から受けとめるべきである。さもないと、われわれ人間全体が、自分を自分の行動から隔離することによって邪悪なものになってしまう。なぜなら、悪というものは、自分自身の罪の意識を拒否することから生じるものだからである。 

 完全徴兵制度−非志願兵制度−こそ、軍隊を健全に保つ唯一の道である。徴兵制なき軍隊は、その機能が専門化するだけでなく、その心理においてもますます専門化するものである。つまり、新鮮な空気を軍に吹き込むことができないからである。この専門化集団は、近親交配を続け、軍隊独特の価値感を強化し、そして、ふたたび自由に行動することを許されたときには、ベトナムで見られたと同じように殺気だって凶暴化すると考えられる。徴兵制には苦痛が伴うものである。しかし、この苦痛が保険の役割を果たす。軍の「左手」を健全な状態に維持する唯一の道は非志願兵である。